名もなき戦士 満員電車に乗る《週刊READING LIFE Vol.358「誇り高き戦士」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
TOKIS55(2026年5月開講 新・ライターズ倶楽部)
人類は、本当に進化しているのか。満員電車の中で、その問いが頭をよぎる。
一 都市という生き物
朝五時。目覚ましが鳴る。シャワーを浴びて、紺色のジャケットとパンツに袖を通す。大手衣料品メーカーで買ったセットアップで、「動きやすさ」を売りにしたやつだ。誰でも一定きちんとして見える。毎朝、服選びで悩まなくていい。サラリーマン版の制服みたいなものだと思っている。自転車で駅へ向かう。十二分間、平坦な道を走るうちに、少しずつ頭が起きてくる。東京の朝は静かに見えて、もうすでに動き始めている。
電車に乗る前に、イヤフォンを耳に押し込む。これはもはや必須だ。先月、三万円もするノイズキャンセリング機能付きのものを買った。そのとき、ふと気づいた。自分は「どうすれば満員電車に乗らずに済む人生を手に入れられるか」ではなく、「どうすれば満員電車のストレスを軽減できるか」に最適化している。少し笑ってしまったが、笑い飛ばしてもいられなかった。人間は、諦めることに慣れてしまうのが早い。あるいは、環境への適応能力が高すぎるのかもしれない。どちらも、たぶん同じことを指している。
車内は、今日も大量の人間を飲み込んでいる。誰かの香水、誰かの汗、誰かの吐息。五感が否応なく他者を感知する。なのに、誰もが目を合わせない。スマートフォンの画面か、中吊り広告か、あるいは虚空か。視線の置き場所を、みんな必死で探している。これだけ近くにいるのに、誰もがどこか遠くにいるような顔をしている。
これは、都市が発明した「親密さを回避する作法」なのかもしれない。身体的にはこれ以上ないほど近いのに、心理的にはどこまでも遠い。電車内で電話をしない、大きな声で話さない、他人の顔をじっと見ない——誰が決めたわけでもないのに、ほとんどの人がそれを守っている。都市で生きるとは、こうした暗黙のルールを内面化していくことなのだと、最近では素直にそう思う。それは窮屈なことのようでいて、同時に、赤の他人と同じ空間を共有するための、人類なりの知恵でもある。
考えてみれば、人類は「集まること」によって文明を発展させてきた。効率よく水を運び、物流を整え、働くために。道路も、インフラも、商業施設も、教育機関も、人が集まることで形成されてきた。人が集まるから仕事が生まれ、仕事があるから人が集まる。この循環は何百年も続いてきた。自分の意志で上京したつもりだったが、振り返れば、その選択自体がその大きな流れの一部だったような気もする。流れに乗っているのか、流れに飲まれているのか、自分ではよくわからない。
でも時々、この密度は本当に人間のためなのだろうか、と考えてしまう。押されながら、他人のバッグの硬い角が脇腹に刺さる。足を踏まれたり、寄りかかられて倒れそうになることだってある。でもそんなことはいちいち気にしない方がいい。とにかく流していく。鈍感力を鍛えていく。現代社会では、それも一種の生存戦略だ。週末、自然の多い場所へ行ったり、友人と取り留めのない話をしたりするのは、そうして社会適応のために鍛えた鈍感力の奥に押し込めた感性を、少しだけ取り戻すためなのかもしれない。人間は、逃げ場を求めながらも、また月曜日に戻ってくる。
こんなに大量の人間が、みんな同じ時間に、同じ方向へ移動している。全員が同じ時間に移動する必要が、本当にあるのだろうか。その流れの一部である自分が、時々そんな疑問を持ってしまう。それ自体、どこか滑稽なことのような気もするが。
二 境界線を守る人たち
最近、東北で熊が街に出没するニュースをよく見る。かつては、人間と動物の生活圏がもっと分かれていた気がする。もちろん、異常気象や森林破壊の影響もあるのだろう。しかし日本の熊問題は、それだけでは説明できないらしい。むしろ今、逆のことが起きている。人が、山からいなくなっているのだ。
かつて里山には、人の営みがあった。薪を取り、畑を耕し、山道を歩き、境界線を手入れする。人間にとっては何気ない暮らしだったのだろう。でも結果として、それが野生動物と人間の生活圏を分ける「緩衝地帯」になっていた。過疎化と高齢化で山に入る人が減り、耕作放棄地が増え、管理されなくなった森は少しずつ深く、暗くなっていく。そして、本来はもっと奥にいたはずの熊たちが、人間の暮らしの近くまで現れるようになった。人間が手を引いた場所に、自然が静かに戻ってくる。それは美しいことのようで、同時に、ある種の警告でもある。
世界では「ワンヘルス」という考え方が広がっている。人間の健康だけではなく、動物の健康も、環境の健康も、すべてつながっているという考え方だ。熊による人身事故も、駆除を担う猟師や自治体職員の精神的負担も、その文脈で捉えることができる。人間と自然の関係は、切り離されたものではなく、常に相互に影響を与え合っている。都市に人が集まることと、山から人がいなくなることは、実は同じ一枚の絵の、裏と表なのかもしれない。
ニュースでは「駆除するな」「危険だから殺せ」という言葉が飛び交う。SNSでは、みたくないほど、どちらの立場からも激しい言葉が投げつけられる。でも実際には、その言葉の届かない場所で、誰かが黙って社会の安定を支えている。
熊を撃つ人。山を調査する人。過疎の集落で暮らし続ける人。批判する側も、擁護する側も、その現場には立っていないし、立てないんだ。言葉は飛び交うが、目の前に起こることの対処は、その人たちだけが被る。
人間と自然の境界線は、そういう無数の、地味で、報われることの少ない営みによってギリギリ維持されてきた。誰も計画していない。誰かが設計した制度でもない。ただ、そこに居続ける人がいるから、なんとか形を保っている。その事実を、満員電車の中で思うと、胸が痛くなる。と同時に、関係ないことにしようとする鈍感力が自己制御装置として働きだす。
都市に人が集まる一方で、人がいなくなっていく場所がある。その両方が、同時に、静かに進んでいる。そのことを、満員電車の中でぼんやりと考えながら、イヤフォンの奥の音楽に意識を向ける。窓に映る自分の顔が、少し無機質な人間みたいに見えた。
三 理想と現実のあいだ
僕は、小さな食品メーカーで働いている。担当は乳製品。ヨーグルト、チーズ、業務用の生クリームを扱っている。オフィスは都心にある古びた雑居ビルの一角で、特別おしゃれでもなく、急成長しているスタートアップのような空気もない。でも学生時代の僕には、その会社が少し魅力的に見えた。
入社を決めたのは、ホームページに「持続可能な食の未来へ」と書かれていたからだ。大学で生物多様性やサステナビリティを学んでいた僕には、その言葉が響いた。地域酪農との共生や、環境配慮への取り組みも紹介されていた。食べ物は、人間と自然の境界線にある産業だと思っていた。牛が草を食べ、人間が乳を加工し、誰かの食卓へ届く。そこには、土も、水も、気候も、動物も、人間の暮らしも、全部つながっている——そんなふうに感じていた。
でも実際に入社してみると、日々の仕事はそんな綺麗なものではなかった。今日もやっているのは、一円でも安い仕入先を探すことだ。原料価格、物流コスト、為替、値上げ交渉。毎日、数字ばかり見ている。牛のゲップが温暖化に影響することも、牧草地が生態系を維持していることも、大学では学んだ。でも、そういう知識が仕事で役立つ瞬間は、ほとんどない。「サステナビリティ」は、いつの間にか、僕の仕事の外側にある言葉になっていた。
会社に、社会貢献活動を担当している四十代の女性社員がいる。フェアトレード、食品ロス削減、子ども食堂支援。社内報では、いつも綺麗に紹介されている。僕はその人のことを、少し眩しく感じている。でも同時に、どこか嫉妬の気持ちも正直あった。僕の日常は、納期と原価とクレーム対応で終わっていく。理想と現実の間に、分厚い壁があるような気がしていた。サステナビリティに関心があって入った会社のはずなのに、気づけば自分の仕事と世界の課題が、どこにも接続されていない。そのことが、じわじわと、自分の中に引っかかり続けていた。
先日、廊下ですれ違って「最近どう?」と聞かれた。「まあ、なんとか」と答えた。本当はもっと話したいことがあったが、うまく言葉にならなかった。彼女もまた、華やかに見える仕事の裏で、社内の無関心や予算の壁と戦っているのかもしれない。理想を語ることは、時に孤独を伴う。
後から聞いた話では、彼女も入社当初は営業で、クレーム対応をして、値引き交渉をして、泥臭い仕事を何年も続けたらしい。社会貢献の部署ができたとき、自ら手を挙げた。誰かが用意してくれたポジションではなく、自分で切り拓いた場所だったのだという。
その話を聞いて、何かが少しずれた気がした。僕は、「理想の仕事」と「現実の仕事」が最初から分かれていると思っていた。理想は理想のまま宙に浮いていて、現実はその下で泥にまみれている、と。でもそうではないのかもしれない。現実の中で手を動かし続けた先に、ようやく理想に手が届く瞬間がある。あるいは、現実そのものが、少しずつ理想の形に近づいていく。彼女が歩いてきた道は、そういうことを示していた。今の自分の仕事が、いつかどこかにつながるかもしれない。そう思うと、少しだけ、足が軽くなる気がした。
四 名もなき戦士たち
世界は、たぶん、こういう人たちによってギリギリ支えられている。
ニュースにはならない。SNSで称賛されるわけでもない。それでも、山で熊との境界線を守っている人がいる。地方で酪農を続けている人がいる。会社の片隅で、社内の無関心や予算の壁と戦いながら、社会貢献活動を続けている人がいる。理想を語ることは、時に孤独を伴う。それでも、その孤独を引き受けながら、静かに踏ん張り続けている人たちがいる。誰も見ていなくても。誰も褒めなくても。
満員電車の中でも、そういう人がいるのかもしれない。隣に立っている、顔も知らない誰かが、自分の職場で、自分の地域で、静かに何かを守っている。そう思うと、この密度の不快さが、少しだけ違って見える。人、人、人——その一人ひとりに、それぞれの場所で、それぞれの踏ん張りがある。そのことを想像するだけで、満員電車は少しだけ、違う場所になる。能天気な考えかもしれないが。
社会は、「理想」と「現実」の間で揺れながらも、手を動かし続けるそういう人たちによって、なんとか壊れずにいるのかもしれない。そしてそれは、満員電車の中で自分の仕事の意味を問い続けている僕も、例外ではないはずだ。今はまだ、答えが出ていなくても。問いを持ち続けること自体が、すでに何かの始まりなのかもしれない。
冒頭の問いに戻る。人類は、本当に進化しているのか。
正直、わからない。テクノロジーは進んでも、満員電車は相変わらず混んでいるし、山からは人がいなくなっていく。世界は解決するより速く、新しい問題を生み出しているような気もする。進化という言葉が、どこか遠い話に聞こえる朝がある。
でも、ひとつだけ言えることがある。進化しているかどうかはわからないけれど、維持できている。無数の人たちが、それぞれの場所で、静かに踏ん張っているから。進歩ではなく、維持。華やかではないけれど、それはきっと、とても尊いことだ。
やっと駅に着く。緊張していた身体が、少しだけ解ける。今日も一日が始まる。明日も、たぶん、満員電車に乗る。イヤフォンを耳に押し込んで、また今日と同じような問いを頭の中で転がす。でもその先に何があるのかは、まだわからない。わからないまま、それでも、歩き続ける。今はそれでいいんだと思う——誇り高き、名もなき戦士の一人であることを目指して。
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