通じない言葉に救われ、通じる言葉につまずいた話
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:河本 和代 【2026年4月開講・京都/通信・2週間集中コース】
バルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会の主塔が完成したニュースを見ました。わたしが現地を訪れたのは20年余り前のこと。「未完の教会」がいよいよ完成間近であることに不思議な感慨を覚えつつ、当時の旅の記憶が鮮やかによみがえってきました。
バルセロナの滞在は5日間。サグラダ・ファミリアをはじめ、ガウディの建築を一つでも多く見て回ろうと、地図とスペイン語の会話帳を片手に歩き回っていました。その日はグエル公園を目指して電車に乗りました。ところが駅を出ても公園への案内が見当たりません。焦りながら周囲を見渡すと、駅前のバス停のベンチに女性が一人腰掛けていました。
「Perdón, quiero ir al Parque Güell. (すみません、グエル公園に行きたいのですが)」
スペイン語が全く話せないわたしは、会話帳を見ながら思い切って声をかけました。返ってきた言葉はさっぱり理解できません。それでも「tren」という単語だけが耳に留まりました。電車の意味だと覚えたばかりの言葉です。わたしの背後には、たった今降りた駅。
「これは『電車でここまで来たの?』と聞かれているに違いない」
わたしは「Sí, sí. tren.(はい、はい。電車)」と赤ちゃんの一語文のような返事をするのが精一杯でした。それでも、婦人が身振り手振りを交えて話してくれたおかげで、聞き取れないはずのスペイン語が、少しずつ意味を持ち始めました。
『グエル公園に行くなら、ひとつ手前の駅で降りればよかったのよ。歩けないことはないけれど、この坂道を行くのは遠いわ』
婦人はスペイン語、わたしは日本語。奇妙なやり取りでしたが、その時のわたしには、自分の「勝手な翻訳」が間違っていないという確信がありました。
「ご親切にありがとうございます。一駅戻ってみます。¡Muchas gracias!(どうもありがとう)」
実際に一駅戻ると、グエル公園への案内板がいくつも現れ、大勢の人々で賑わっていました。この経験以来、わたしはひとつの確信を持っています。言葉が話せなくても、本気で伝えよう、理解しようとすれば、人は対話できる。要は度胸なのだ、と。
ところが、同じ「言葉」を使っているはずの日常では、まったく逆のことが起きていました。以前の職場での出来事です。もっと話す時間がほしいという思いから、わたしは同僚に「あなたは忙しそうだから、なかなか話す時間が取れないね」と言いました。すると彼女から「時間が取れないのを、わたしの責任みたいに言わないで」と返されたのです。自分の言葉が「非難」として受け取られた驚きと、意図せぬ誤解をされたショックで、わたしは次の言葉を失ってしまいました。
また、疲れているときに無言で不機嫌をぶつけ、家族に「見ればわかるでしょ」と言わんばかりの空気を出してしまうこともありました。わざわざ言葉にしなくても、身近な人なら察してくれるはず。そう思い込んでいたのです。けれど、伝える努力をしないまま察することだけを求め、伝わらなければ相手を責める。それはあまりにも傲慢な態度でした。
これらの苦い経験を何度も振り返るうちに、わたしは「対話する」ことの本当の意味を考えるようになりました。
――話せばわかる、わからないのはわかろうとしないからだ、という前提自体が、そもそも間違っているのではないか。
あのときの同僚も、家族も、わたしが放った言葉をそのまま受け取ったわけではありませんでした。わたしの言葉がどう響くかは、すべて相手の心に委ねられていたのです。どれだけ言葉を尽くしても、わたしたちは誰もが、それぞれ「違う言葉」を話す孤独な存在なのかもしれない。
そんな少し寂しい結末を考えていたとき、子どもの頃に絵本で見た「バベルの塔」の物語をふいに思い出しました。天に届く塔を建てようとした人間が神の怒りに触れ、互いの言葉が通じ合わなくなって混乱する、あの逸話です。それまで「わかりあえる」と盲信していた世界が崩れたとき、人々が味わった不安や絶望はどれほどだったでしょう。それでも人々は、再び互いを理解しようと歩み寄りを始めたはずです。言葉が通じない相手を「間違っている」と突き放したままでは、孤立しか待っていないからです。
バルセロナの思い出は、勇気を出して対話を始めれば世界が開けることを教えてくれました。一方で、日常のすれ違いは「わかったつもり」の危うさをわたしに突きつけました。当時のわたしには「不利益を被っているのは、わたしの方だ」という思いがあり、何気ない言葉の奥に、相手を責める響きが混じっていたのかもしれません。
いま、わたしにできるのは、自分の言葉が相手にどう届くのかを想像しながら、できる限り誠実に伝えることです。バベルの塔のふもとで立ち尽くした人々が、それでも諦めずに他者と向き合おうとしたように、わたしもまた、目の前の人に敬意を持って言葉を使いたいと思います。
サグラダ・ファミリアのニュースは、そんな対話の原点を思い出させてくれました。心に浮かぶのは、あのバス停で出会った婦人の白地に赤い模様のワンピース、そして異国の山と青空。その鮮やかな色彩を、わたしはこれからもずっと、忘れることはありません。
《終わり》
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