母との時間
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
冨士井 慶子(2026年4月開講・京都集中コース)
子供のころ、死んだらどうなるのかが知りたくてたまらない時期があった。
屋上から、ここから飛び降りたら、どうなるのかなぁ?と地面を眺めていたことがあった。いじめにあっていたとか、死にたくなるようなことがあったわけではない。周りに死が近い人がいたわけでもないむしろ、
「おげら」
とあだ名がつくぐらい陽気で明るい子供だったと思う。
今でもなぜだったのか、わからない。
もうすぐ91歳になる母は、近頃物忘れがひどくなった。
5分前のことも忘れるレベルだ。
日によって、調子の良し悪しはあるのだが、忘れるということは自覚があって、
そんな自分が嫌でたまらないらしい。
もともと完璧主義者なので、よけいなのだろう。
人間は、死が近づくと、だんだん食べる量が減っていき、眠っている時間が増える、
となにかで読んだのだが、母はその通りをたどっている気がする。
確かに食べる量は減っているが、お菓子やチョコレートは食べるので、
ちっともやつれていない。とても90歳には見えないとみんなから言われる。
それでも、悲しいことだけれど、確実に死に向かって生きている。
先日、昔住んでいた山口県の山あいの町に母を連れて行った。
実は3年前、コロナが落ち着きかけたころ、母を連れていけるかシミュレーションするために、一人で下見に行った。新幹線の駅から特急に乗り換えて行かなければならないのだが、特急の本数が少なすぎて、帰って来られるのかわからなかったからだ。もちろん高齢の母に日帰りは無理なので、近くの温泉地に泊まらなければいけない。
私が小学校に入学するまでの数年間を過ごした場所でもある。
家の隣には,何でも売っている雑貨屋さんがあって、そこの息子は私と同い年の、しんちゃんだ。縁側で足をこちら側に向けて二人とも歯のない満面の笑顔で笑っている白黒写真が実家にある。その写真が印象的だからか、顔はよく覚えていた。
特急でその駅で降りたのは、私一人だった。
そこから、線路と平行に走る道を歩く。
雑貨屋まで5分ほど。
桑本商店。
まだあった。
ガラガラと引き戸を開けると、振り向いた男性がいた。
年を取った、しんちゃんだった。
怪訝そうな顔が、
「隣に住んでた、冨士井です」
と名乗ったら、驚きの表情から幼い日の面影がある笑顔に変わった。
それから昔の話から、その後私たちが引っ越した後の町の様子、一緒に遊んだゆかりちゃん一家のことをいろいろ教えてくれた。
「どうせだれも来ないから」
とお店を閉めて、車で町を走ってくれた。悲しくなるような過疎化が進んでいた。
旅から帰って、母に、かつて住んでいた家、通っていた保育園があったお寺の写真を見せて一緒に行こうと誘った。もう少し涼しくなったら、もう少し暖かくなったら、という母の言葉にずるずると3年が過ぎてしまった。
そして今回。
やっと、連れていくことができた。
母がこの町から引っ越してから実に60年近い年月が過ぎていた。
かつて乗り降りした駅は無人駅になっていた。
何年か前に駅舎が火事になり、建て直されたのは、小さい待合所のようなものでしかなかった。駅のホームで懐かしそうに景色を見る母。
駅からかつての家に向かう道に、美容院が残っていた。いつからやっていないのかわからないほど荒れ果てていた。魚を買っていたという魚屋さんはもうなかった。
かつて住んでいた家は取り壊されていて、更地になっていた。
今回もしんちゃんに会うことはできたが、店は閉め、体調もあまりよくなさそうだった。
会えてよかったと母に言ったが、母の方が元気そうに見えたぐらいだ。
宿泊する温泉地の宿に戻っても、母は
「懐かしかった、行ってよかった」
を繰り返した。
生まれてきた瞬間から人は死に向かっていけなければならない。
それは誰でも同じ。
どんなに医療技術が発達しても、不老不死は実現できないだろう。
子供のころから追い続けてきた問いに、いまだに答えはない。
でも、知りたいのはその先のことではない。
母があと何回笑うのか。一緒にお茶を飲めるのはあとどのくらいなのか。
同じ話を聞いてあげられるのは、あと何回なのか。
死の向こう側はわからない。
けれど、今ここにいる母との時間は確かに存在している。
死は怖い。母を喪う日を思うと心が痛む。それでも限りがあるからこそ、命は輝く。
今日も私は実家に向かう。
母は、きっとまた、山口の旅の話をするだろう。
そして、私は、いつものように相づちをうつ。
「懐かしかったね」
「行ってよかったね」
その言葉をもう少し聞いていたいと思う。
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