【連載第39回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「洗いたての匂いが、私を連れ戻した」 ―洗濯をやめていた人が、“自分のにおい”を思い出した日―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
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洗濯という行為には、ただ衣類をきれいにする以上の意味があります。干して、乾いて、たたんで、しまう。その一連の営みは「自分の生活が、まだここにある」という静かな証明でもあるのです。それをやめてしまった人が、もう一度洗濯機のふたを開けたとき、取り戻したのは清潔さではありませんでした。「自分のにおい」――つまり、自分がここで生きているという感覚そのものだったのです。
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洗濯物が、たまっていました。
椅子の背もたれに、ソファの上に、床の隅に。脱いだままの服が積み重なって、部屋のあちこちで小さな山になっている。訪問リハビリでその居室に入ったとき、私が最初に感じたのは、こもった空気の匂いでした。
Kさん(78歳)。半年前に奥さまを亡くし、それからひとり暮らしになった男性です。もともとは几帳面な方だったと、ケアマネジャーから聞いていました。ワイシャツにはいつもきちんとアイロンがかかっていて、玄関はいつも掃き清められていた、と。
けれど、私の前にいるKさんは、同じ寝間着を何日も着続けているようでした。
「洗濯なんて、もういいんだ」
Kさんは、窓の外を見たまま言いました。
「あいつが全部やってくれてたからね。私は洗濯機の使い方も、よく知らないんだ。今さら覚えるのも、なんだか、ばかばかしくてね」
その言葉の奥にあるものを、私は知っているつもりでした。「やり方がわからない」のではありません。「やる意味が、わからなくなった」のです。
見てくれる人がいない。褒めてくれる人もいない。清潔にしたところで、誰が気づくわけでもない。――そんなふうに、自分の身の回りを整える理由そのものが、奥さまと一緒にどこかへ消えてしまったのだと思います。
私たち作業療法士は、日々の何気ない動作のことを「作業」と呼びます。食べること、着替えること、顔を洗うこと、そして洗濯すること。それらは単なる家事や身辺処理ではなく、その人の「生きている輪郭」をかたちづくるものだと考えています。作業を失うということは、機能を失うことではなく、「自分がここにいる理由」の一部を失うことなのです。
Kさんは、洗濯という作業を手放したのではありませんでした。生活そのものから、そっと降りようとしていたのです。
私は、Kさんに洗濯の「やり方」を教えようとはしませんでした。手順を説明したところで、たぶん、心は動かない。必要だったのは、方法ではなく、もう一度手を動かしてみたくなる、小さなきっかけの方でした。
ある日の訪問で、私はたまたま、洗いたてのタオルを一枚だけ持っていきました。事業所で使っていた、日に干したばかりのフェイスタオルです。それをKさんに手渡して、こう言いました。
「Kさん、これ、よかったら顔でも拭いてください。今朝、外に干してたやつなんですけど」
Kさんは、そのタオルを何気なく受け取って、顔にあてました。
そして――ほんの一瞬、動きが止まったのです。
「……ああ」
Kさんは、タオルに顔をうずめたまま、しばらく黙っていました。それから、ぽつりと言いました。
「この匂いだ。……昔、うちの物干しは、こういう匂いがしてた」
太陽と、風の匂い。乾いた繊維の、あのかすかに温かい匂い。それは奥さまが毎日つくっていた、Kさんの家の匂いでした。そしてそれは同時に、Kさん自身の匂いでもあったのです。清潔なシャツを着て、きちんと整えて、誰かの前に立っていた頃の――「自分」の匂い。
その日、Kさんは初めて、洗濯機の前に立ちました。
もちろん、最初からうまくはいきません。洗剤の量を間違えたり、色移りさせたり。干し方がわからなくて、しわだらけのシャツが窓辺に並んだこともありました。
でも、それでよかったのだと思います。
失敗するということは、その作業に「自分が関わっている」ということだからです。誰かにやってもらう洗濯には、失敗はありません。けれど、自分でやる洗濯には、失敗も、上達も、小さな工夫もある。それらはすべて、「自分がまだ、この生活の主人公である」という手ごたえに変わっていきました。
数週間後に訪問したとき、Kさんの居室からは、あの、こもった匂いが消えていました。かわりに、窓辺で乾いたシャツが、風にふくらんでいました。
「作業療法士さん」
Kさんは、干したばかりのタオルをたたみながら、こう言いました。
「洗濯物を干すと、部屋に、自分の匂いが戻ってくるんだね。私は、この匂いのなかで、生きてきたんだなあって」
私自身、かつて体を壊し、「治す側」から「治される側」になった時期があります。あの頃、いちばんつらかったのは、痛みそのものではありませんでした。自分の身の回りのことが、何ひとつ「自分の手で」できなくなっていく――その感覚でした。
洗濯も、掃除も、料理も、誰かにやってもらう。ありがたいはずなのに、日を追うごとに、自分という輪郭がぼやけていく気がしました。だからこそ、少しずつ、自分で洗濯物を干せるようになったときのことを、今でもよく覚えています。ベランダに立って、風に揺れるシャツを見たとき、「ああ、私はまだ、私の生活を生きていていいんだ」と、静かに思えたのです。
作業には、その人を「その人自身」に連れ戻す力があります。洗濯物の匂いには、記憶と、時間と、これまで生きてきたすべてが染み込んでいます。
【今すぐできる、再起動の自主トレ】
洗濯という作業を、うんと小さくほどいた「入り口」を三つ、ご紹介します。全部やる必要はありません。今日、どれか一つだけ、試してみてください。
① タオル一枚だけ、洗って干す
洗濯物ぜんぶ、と考えると重くなります。だから、まずはフェイスタオルを一枚だけ。手洗いでも、洗濯機でもかまいません。洗って、干して、乾いたら、顔にあててみる。「洗う・干す・触れる」が、たった一枚で完結します。失敗のしようがない、いちばん小さな洗濯です。
② 「畳むだけ当番」になる
洗う工程がしんどい日は、「畳む」ところだけ担当してみてください。乾いた洗濯物を畳む動作には、失敗がありません。温かくて、いい匂いがして、畳めば形になる。達成感がいちばん得やすい、やさしい作業です。
③ 一日ひとつ、「いい匂い」をさがす
手を動かすのもつらい日は、これだけで大丈夫。一日に一回、身の回りの”いい匂い”を一つ見つけて、心にメモするだけ。洗濯物、あたたかいごはん、雨上がりの空気――。嗅覚は、いちばん古い記憶とつながっています。匂いをさがすことは、世界とのつながりを、そっと取り戻す練習になります。
もし今、あなたの周りに、身の回りのことをそっと手放してしまった人がいたら。あるいは、あなた自身がそうだとしたら。
「ちゃんとやりましょう」と、正しさで背中を押す前に。まずは、洗いたてのタオルを一枚、そっと差し出してみてください。畳んだばかりの、日なたの匂いのするタオルを。
その匂いは、たぶん、言葉よりもずっと深いところに届きます。「あなたは、ここで生きてきた」ということを、まっすぐに思い出させてくれるはずです。
再起動のスイッチは、大がかりな決意の中にはありません。それはいつも、乾いたタオルの匂いのような、ささやかな場所に、静かに置かれているのです。
今日、あなたの洗濯物は、どんな匂いがしますか。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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