【連載第40回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「一輪の花が、部屋に色を連れてきた」 ―灰色だった世界が、そっと色づいた日―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
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人は、悲しみの底にいるとき、世界から色が抜けていくように感じます。空も、壁も、食事も、すべてが灰色にくすんで見える。それは気のせいではなく、心が「もう何も見なくていい」と、そっと目を閉じている状態なのかもしれません。そんなとき、たった一輪の花が居室に置かれるだけで、世界がふたたび色を取り戻すことがあります。花が変えたのは部屋ではなく、その人の「見る力」だったのです。
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その居室は、とても静かでした。
静か、というより、音がないのです。テレビもついていない。カレンダーもめくられていない。窓のカーテンは半分閉じられたまま、外の光をやわらかく遮っていました。
Tさん(82歳)。転倒による大腿骨骨折の手術を終え、リハビリのために入院している女性です。手術そのものは成功し、身体機能は順調に回復しているはずでした。それなのに、Tさんはベッドから起き上がろうとしませんでした。
「もう、私はここでいいんです」
Tさんは、天井を見上げたまま言いました。
「家に帰っても、誰もいないしね。歩けるようになって、それで、どうするの。……なんだか、何を見ても、灰色に見えるんですよ」
灰色に見える。
その言葉を、私は聞き逃しませんでした。うつ状態や意欲の低下があるとき、人はしばしば「世界から色が消える」という感覚を口にします。それは詩的な比喩ではなく、その人にとっての、まぎれもない現実なのです。
私たち作業療法士は、身体の動きだけを診ているわけではありません。その人が「何を見て、何を感じ、何に心を動かすか」――つまり、その人の世界そのものに関心を寄せます。Tさんの膝は曲がるようになっていました。けれど、Tさんの心は、まだ何ひとつ「見たい」と思えずにいたのです。
私はカルテを見返しました。入院前のTさんの暮らしを知りたかったのです。
そこには、ケアマネジャーの短いメモがありました。「庭いじりが趣味。花を育てるのが生きがいだった」と。
翌日、私は事業所の帰りに、近所の花屋に寄りました。そして、たった一輪、ガーベラを買いました。あざやかな、オレンジ色のガーベラです。特別な理由はありません。ただ、いちばん元気に見えたから、それを選びました。
小さなコップに水を張って、その一輪を挿し、Tさんの居室の窓辺に置きました。「Tさん、これ、窓のところに置いておきますね」とだけ言って。
Tさんは、ちらりとそれを見て、「あら」とだけ言いました。その日は、それで終わりです。
変化が起きたのは、次の訪問のときでした。
居室に入ると、カーテンが、全開になっていました。
朝の光がまっすぐに差し込んで、窓辺のガーベラを、内側から照らしていました。オレンジの花びらが、透けるように光っている。そしてTさんは、ベッドを少し起こして、その花を、じっと見ていたのです。
「作業療法士さん」
Tさんは、花から目を離さずに言いました。
「この花、朝と昼とで、色が違うのね。朝はやわらかくて、お昼は、ぱっと明るくなる。……ずっと見てたら、なんだか、外の空も見たくなっちゃって」
そう言って、Tさんは窓の外に目をやりました。私も、つられて外を見ました。何ということのない、街路樹と、電線と、雲の浮かんだ空。けれどTさんは、それを「見て」いました。ただ視界に入れるのではなく、心で、見ていたのです。
一輪の花が、部屋に色を連れてきた。――そう表現するのがいちばん近いと思います。けれど正確には、花はきっかけにすぎません。花を「見た」ことで、Tさんの中で、いったん閉じていた「世界を見る力」が、そっと開いたのです。
心理学に「行動活性化」という考え方があります。落ち込んでいるから動けないのではなく、動かないから、ますます世界が閉じていく。だからこそ、ほんの小さな「心地よい体験」を一つだけ暮らしに戻す。そこから、少しずつ世界がひらけていく――そういう考え方です。
Tさんにとって、その最初の一つが、一輪のガーベラでした。
大切なのは、「立派なことをする」必要はまったくない、ということです。旅行に行く必要も、庭を一から作り直す必要もない。窓辺に、好きな色を一つ置く。それだけでいい。人の心は、案外、そのくらいの小ささからしか、動きはじめられないものなのです。
その後のTさんは、ゆっくりと、けれど確かに変わっていきました。
「今度は、青い花がいいわ」とリクエストが出て、私は次に、デルフィニウムを持っていきました。やがてTさんは、リハビリ室まで自分の足で歩いて、中庭の花壇を眺めるようになりました。退院の頃には、「家に帰ったら、まず庭のことをしなくちゃ」と、少し忙しそうに、そう言っていました。
灰色だった世界に、一色ずつ、色が戻っていったのです。
私自身、心と体を壊していた時期に、同じような経験をしました。何を見ても味気なく、窓の外の景色さえどうでもよかったあの頃。ある朝、枕元に、家族が小さな花を一輪、置いてくれていたことがありました。
その花を見て、涙が出たわけではありません。ただ、「ああ、きれいだな」と、久しぶりに思ったのです。「きれい」と感じられた自分に、少しだけ、ほっとしました。世界が、まだ私に何かを差し出してくれている。そう思えたことが、あの時期の、小さな支えになりました。
【今すぐできる、再起動の自主トレ】
閉じていた「見る力」を、そっと開くための練習を三つ。立ち上がる必要も、出かける必要もありません。今いる場所で、できるものから。
① 好きな色を一つ、目に入る場所に置く
花でなくてかまいません。マグカップ、ハンカチ、付箋、お菓子の包み紙――あなたが「いいな」と思える色を一つ、ベッドや机の、いちばんよく目に入る場所に置いてみてください。がんばって眺めなくて大丈夫。ただ、視界の隅に、好きな色があるだけでいいのです。
② 朝、窓辺に三分だけ立つ
起きたら、カーテンを開けて、窓辺に三分だけ立ってみてください。外を”見よう”としなくていい。ただ、光を浴びて、そこに立つだけ。三分がつらければ、一分でも。朝の光を浴びる時間を暮らしに一つ戻すことは、沈んだ気持ちを動かす、確かな一歩になります。
③ 一日ひとつ、「今日の一色」をさがす
今日は青、明日は赤、と、朝に一色だけ決めてみてください。そして一日のなかで、その色を一つ見つける。空でも、看板でも、誰かの服でも。色をさがしはじめると、下ばかり向いていた目が、少しずつ、世界の方を向いていきます。それは、あなたの「見る力」の、やさしいリハビリです。
もし今、あなたの世界が灰色に見えているなら。あるいは、あなたの大切な人が、そんな場所にいるのなら。
無理に「元気を出そう」としなくていいのです。ただ、目に入るところに、好きな色を一つだけ置いてみてください。花でも、マグカップでも、ハンカチでも。何でもかまいません。あなたが、ほんの少しでも「いいな」と思える色を。
その一色は、あなたの「見る力」を、静かにノックしてくれます。世界の側は、いつだって、そこにあります。閉じていたのは、少しだけ、あなたの目の方だったのかもしれません。
再起動のスイッチは、窓辺の一輪に宿っています。
今日、あなたの部屋には、何色がありますか。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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