メディアグランプリ

 【連載第41回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「キャベツを、一枚だけちぎった」―台所に立てなかった人が、もう一度、手を動かした日―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

料理ができなくなる、ということは、レシピを忘れることでも、包丁が使えなくなることでもありません。それは「もう、誰かのために手を動かす気力が湧かない」という、心の側の出来事です。だからこそ、再起動のきっかけは「一食をつくること」ではありません。キャベツを、たった一枚ちぎる。その、料理と呼ぶにも満たない小さな動作の中に、すべてのはじまりは隠れているのです。

 

——

 

「私はもう、台所には立てないんです」

 

Mさん(69歳)は、そう言って、少しだけ困ったように笑いました。

 

四十年以上、家族の食卓を支えてきた女性です。三人の子どもを育て、毎朝お弁当をつくり、夫のために煮物を炊いてきた。「料理だけは、誰にも負けないつもりだった」と、Mさんは言いました。過去形で。

 

半年前、Mさんは軽い脳梗塞で入院しました。幸い、後遺症はほとんど残りませんでした。右手に少しだけ、細かい作業のしづらさが残った程度です。医学的には、料理をするのに何の問題もない――そう説明されていました。

 

それでも、Mさんは台所に立てませんでした。

 

「怖いんですよ。また倒れるんじゃないかって。それに……もし、前みたいにちゃんとできなかったら、って思うと、包丁を握るのも怖くて。だったら、もう、やらない方がいい」

 

台所は、Mさんの人生そのものでした。だからこそ、「前のようにできない自分」を、そこで確かめるのが怖かったのです。得意だったものほど、失うのがこわい。誇りだったものほど、色あせた姿を見るのがつらい。Mさんの「もう立てない」は、あきらめではなく、自分を守るための、精いっぱいの言葉でした。

 

 

 

私たち作業療法士は、こういうとき、「全部できるように戻す」ことを目標にはしません。それはかえって、その人を追いつめてしまうことがあるからです。

 

大切なのは、料理という大きな作業を、うんと小さく、小さく、ほどいていくこと。献立を考える。買い物に行く。野菜を洗う。切る。炒める。盛りつける。――料理は、本当はたくさんの動作の集まりです。その中から、いちばんハードルの低い、いちばん安心できる「ひとかけら」を、そっと取り出してあげる。それが私たちの仕事です。

 

私はある日、Mさんの台所に一緒に立ちました。ただし、「料理をしましょう」とは言いませんでした。

 

私は冷蔵庫からキャベツを一玉取り出して、まな板の横に置いて、こう言っただけです。

 

「Mさん、これ、ちょっと手でちぎってもらえますか。今日の私の昼ごはん、生野菜が食べたくて」

 

包丁ではなく、手で。料理ではなく、手伝い。「あなたのため」ではなく、「私のため」に。――そのすべてに、意味を込めたつもりでした。

 

 

 

Mさんは、少しためらってから、キャベツに手を伸ばしました。

 

外側の葉を一枚、そっとはがす。それを、両手で、びりびりと、ちぎる。

 

みずみずしい音がして、ちぎれたキャベツが、ボウルの中に落ちました。

 

「……ああ、この音」

 

Mさんの手が、止まりました。

 

「懐かしいわ。この、キャベツをちぎる音。子どもたちが小さい頃、よくお好み焼きをつくったのよ。みんなで台所に集まって、わいわい言いながら。……ずいぶん、忘れてた」

 

そう言うと、Mさんは、二枚目の葉に手を伸ばしました。三枚目にも。もう、私は何も言いませんでした。Mさんの手は、ちゃんと覚えていたのです。四十年のあいだ、この台所でくり返してきた、無数の動作を。

 

 

 

手の記憶、というものがあります。頭で考えるより先に、体が覚えている動き。楽器や自転車と同じように、料理もまた、手が覚えているものです。

 

Mさんが失っていたのは、その手の記憶ではありませんでした。「手を動かしはじめる、最初の一歩」だったのです。キャベツを一枚ちぎるという、失敗のしようもない小さな動作。それが、眠っていた手の記憶を、そっと呼び起こしました。

 

その日、Mさんは、キャベツをちぎっただけです。炒めもせず、味つけもせず、ただ、ちぎった。けれど、私にとっては――そしてたぶん、Mさんにとっても――それは立派な「再起動」でした。

 

 

 

次に訪ねたとき、Mさんは、キャベツの千切りに挑戦していました。その次は、味噌汁を。やがて、「今日はね、煮物を炊いたのよ。よかったら味見してって」と、少し照れたように、小鉢を差し出してくれるようになりました。

 

大根とにんじんの、やさしい味の煮物でした。私は「おいしいです」と言いました。お世辞ではなく、本当に。

 

「前と同じようには、できないけどね」とMさんは言いました。「でも、また台所に立てるようになったのが、うれしくて。私、料理してる自分が、いちばん、私らしいのよね」

 

料理してる自分が、いちばん自分らしい。――その言葉に、作業療法という仕事のすべてが詰まっている気がしました。人は、何かをしている自分を通して、「自分」を確かめているのです。

 

 

 

私自身、体を壊していた時期、簡単な自炊すらできなくなったことがあります。あの頃、久しぶりに、卵を一つ、フライパンで焼いたときのことを覚えています。ただの目玉焼きです。けれど、じゅう、という音がした瞬間、なぜか、少し泣きそうになりました。「私は、また、自分のために手を動かせるんだ」と思えたから。

 

小さな動作には、その人を「暮らしの主人公」の席に戻す力があります。それは、どんな栄養指導や機能訓練よりも、深いところに効きます。

 

 

 

【今すぐできる、再起動の自主トレ】

 

料理という大きな作業を、いちばん小さくほどいた「ひとかけら」を三つ。献立も、火も、包丁も、いりません。手を動かす、その一歩だけ。

 

① 「ちぎる・むく」だけの下ごしらえ

包丁は使いません。キャベツやレタスを手でちぎる、ゆで卵の殻をむく、きのこを裂く――手だけでできる下ごしらえを、一つだけ。びりびり、という音や、指先の感触を、味わってみてください。失敗のない一動作が、眠っていた「手の記憶」を、そっと呼び起こします。

 

② 台所に、五分だけ立つ

料理をしなくて大丈夫です。お湯を沸かす、お茶を一杯淹れる、それだけでいい。台所に立つ時間を、五分だけつくってみてください。かつて何度も立った場所に、もう一度身を置く。それが、「またここに戻ってきていいんだ」という、心の準備運動になります。

 

③ 「料理の音」を一つ、味わう

何かを作らなくても、”音”だけ楽しむ日があってもいい。野菜を切るとんとん、油のはじけるじゅう、お湯のわく、ふつふつ。台所の音を一つ、耳をすませて聴いてみてください。音は、手の記憶といちばん深くつながっています。聴いているうちに、自然と手が動きたくなったら――それが、あなたの再起動の合図です。

 

 

 

もし今、あなたの大切な人が、かつて得意だったことから遠ざかっているなら。あるいは、あなた自身が、そうであるなら。

 

「またちゃんとやろう」と、完成形を目指さなくていいのです。まずは、その作業のいちばん端っこの、いちばん小さな一動作だけを、そっとやってみてください。キャベツを、一枚ちぎるだけでいい。全部やる必要は、まったくありません。

 

手は、あなたが思っているよりずっと多くのことを、覚えています。ほんの一動作が、その記憶の扉を、静かに開けてくれるはずです。

 

再起動のスイッチは、キャベツをちぎる、あのみずみずしい音の中にあります。

 

今日、あなたの手は、何を覚えているでしょうか。

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

 

 

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事