価値観を洗い流してみる
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:海良夏楓(かいらなつか)
「羊毛の鞍敷パッドと化繊のものと、馬にとって違いはありますか?」
「ありません」
「じゃあ手入れが簡単なほうがよいですね、化繊にします」
「……」
「あ、違いますか? 馬にとって差がないなら、洗濯機で洗えるほうが楽だなって」
これは私と、乗馬クラブの師匠との会話です。師匠は私より25歳も若いのですが、精神年齢は私より上に感じます。
彼は、いい加減な返事はしません。いつだって誠実です。そしてリップサービスもしません。
黙っているということは、私の言ったことに対して肯定できない何かがありそうです。
「見た目も案外大事ですよ」
そう一言だけ言い残して、その場を去りました。
見た目、確かに。新しいうちは、羊毛も化繊も、フワフワしていますが、でもきっと、年数が経てば、化繊はゴワゴワしてくるでしょう。羊毛は、専用の洗剤で洗うように書いてありますが、正しくお手入れすれば、フワフワが続くかもしれません。
私はさっき、なぜ「手入れが簡単」という基準だけで即決しそうになったのだろう。
30代になったころ「食器洗い機は絶対に人生を変える」という本を読み、その年の冬のボーナスで、さっそく食器洗い機を買いました。
生活が好転しました。と同時に、私のモノ選びの価値が変わりました。
食器選びの基準は「食洗機対応」と書いてあるかどうか、それが最初の関門であり、それさえクリアしていたら百点満点です。もう悩む時間すらもったいないのです。
箸も器も、素敵とか可愛いとか、見た目は二の次になりました。
そうやって、家事負担を極力減らして、仕事にうちこむ人生でした。
だから馬具を選ぶ時も、合理性を選ぶことに迷いはありませんでした。
そこに師匠の沈黙、初めて私に考えるという余白が生まれました。
何でもサクサク決めて、次のことに向き合うというリズムに慣れてきた私には、その余白に、清らかな湧水が流れ込んできて、熱くなった頭の中がクールダウンしていくのを感じました。
ここで気づいたのです。
長い間、物の良し悪しを、合理性を最大の価値として決めてきた自分の価値観。
これ、本当の私の価値観だったのかしら。
師匠の沈黙、そして「見た目も案外大事ですよ」の言葉を信じて、羊毛がフワフワしている鞍の下に敷くパッドを購入しました。
そして30年もの間、判断基準にしてきた価値観に、少しさびしさを覚えたのです。
私は何をそんなに急いでいたのかしら。
色々なものをそぎ落として、シンプルに生きて、捻出した時間は仕事に没頭する時間に消えていきました。
もちろん引き換えに、手に入れたものもあるでしょう。
だからこそ、合理性を最優先することに何の疑問も持たずに生きて来たのです。
師匠が暗に勧めてくれた羊毛のパッドは、とてもフワフワで触り心地がよいです。
馬の背中には、最初に「ゼッケン」というキルティング地の薄い座布団のようなものを載せます。その上に、鞍の形に合わせたボアというフワフワの敷物を敷きます。その上に鞍を載せます。
鞍の黒色を白い羊毛のボアが縁取ります。
新しい羊毛のボアの上に自分の鞍を載せて、跨ったとき、とても気分があがるのを感じました。
跨った位置から見えるボアは、鞍の前橋からはみ出るこぶし大程度なのですが、ここがフワフワだと、くすぐったいくらい嬉しくなるのです。
見た目が大事ってこのことだったのね。
白い羊毛は汚れが目立ちますが、天然の羊毛というのは静電気が起きないせいか、払うだけで比較的汚れが付きにくいです。
そして専用洗剤でのお手入れですが、この時間がまた楽しいのです。
ぬるま湯に専用洗剤を入れたところに羊毛ボアを浸します。
ゆっくりと手で優しく撫でながら、汚れを落としていきます。
丁寧に洗い流し、日陰でゆっくりと乾かします。
乾かす時も手で空気を含ませながら乾かしていきます。
すると新品のように真っ白でフワフワになります。
この手入れの時間こそが、私に必要なゆとりの時間だったのです。
何も焦ることはありません。
真っ白なボアに縁取られた鞍にまたがって、馬の背に揺られながら考えます。
「本当の私は、合理的が好きなんかじゃない」
食洗機を導入したころから、私の人生はいつも全力疾走、わき目も振らずにフル回転していました。
でもそろそろ回転数を落としてもよいのかもしれません。
本当の私は、色や形が美しく、料理を引き立たせてくれるような器で食事がしたかったのでしょ?
そんな風に、鞍を縁取るボアが教えてくれました。
還暦を迎え、定年とともに勤務日数を減らしました。
食洗機で得たものに感謝しながらも、ここからは少しゆとりの時間を楽しみながら、自分が本当に大切にしたいものを冷静に見つめて、価値観も丁寧にゆっくりと洗い流してみます。
そうしたらきっと、真っ白でフワフワなボアから新しい人生が飛び出してくるような、そんな気がします。
「先生、この羊毛のパッド、すごくいいです。跨るたびに気分があがります」
「でしょ? 見た目は大事です」
ああ、この師匠の頭の中は、いつも清流が流れているんだろうな。
≪終わり≫
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