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母が私を置いていった日へ《週刊READING LIFE Vol.369「フリー」》


 

 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

 

 

記事:飯田久枝(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

※こちらの投稿はフィクションです。

「結婚しよう」

その言葉を聞いた瞬間、私は母の背中を思い出した。

窓際の席だった。十二月の夜景が、レストランの大きなガラスに映っている。

向かいに座る直人の手には、小さな紺色の箱があった。

箱は開かれていなかった。

彼はきっと、私が断ったときのことまで考えて、まだ開けずにいるのだ。

「急にごめん」

直人はそう言って、困ったように笑った。

「でも、ずっと考えてた。美緒と一緒に暮らしたい。家族になりたい」

家族、という言葉が、テーブルの上に置かれた。

私はそれを見つめた。

「少し、考えさせて」

直人は一瞬だけ目を伏せた。それでも、すぐにうなずいた。

「分かった」

責めない声だった。

だから余計につらかった。

 

帰りの電車で、私は吊革につかまりながら、母の背中を思い出していた。

灰色のコート。低い位置で結んだ髪。小さな私の手を離し、施設の職員に何度も頭を下げていた背中。

五歳の私は、母が迎えに来ると信じていた。

一週間たっても、一か月たっても、春になっても、母は来なかった。

やがて職員から、母が遠くへ引っ越したらしいと聞いた。

その言葉が何を意味するのか、子どもの私にも分かった。

そして、家族という言葉を信じないまま、大人になった。

誰かを好きになることはできた。

恋人と笑い合うことも、休日を一緒に過ごすこともできた。

けれど、家族になることだけは別だった。

家族は、いつかいなくなる。

大切だと言いながら、ある日突然、背中を向ける。

 

玄関を開けると、部屋は冷え切っていた。

電気をつけ、コートも脱がずに床へ座り込んだ。

バッグの中でスマートフォンが震えた。

直人からだった。

――今日はありがとう。返事は急がなくていいから。

私は画面を伏せた。

返事は急がなくていい。

それは、いつまで待ってもらえるのだろう。

一週間か。

一か月か。

それとも、母を許せるようになるまでか。

押し入れの奥から、古い菓子箱を取り出した。

施設を出る日に、職員から渡されたものだった。

中には、母の写真が二枚と、古びたハンカチ、それから白い封筒が入っている。

母からの手紙。

私はその封筒を、三十年以上、一度も開けていなかった。

読みたくなかった。

謝ってほしくなかった。

仕方がなかったと言われるのも、愛していたと言われるのも嫌だった。

愛していたのなら、なぜ迎えに来なかったのか。

封筒の隅に、見覚えのある字で私の名前が書かれていた。

美緒へ。

指でなぞると、紙の表面がかすかに震えた。

いや、震えたのは私の指だったのかもしれない。

 

突然、部屋の電気が消えた。

停電だと思った。

けれど、耳に入ってきたのは冷蔵庫の止まる音ではなく、遠くで鳴る汽笛と、車のクラクション、それに魚を売る店の威勢のいい呼び込みだった。

目を開けると、私は古い商店街に立っていた。

通りの先には、建物の切れ目から鈍い冬の海が見えた。

潮の匂いに、魚と油の匂いが混じっている。軒先には干物が並び、古い自転車が店先に寄せられていた。

見覚えがあった。

施設の職員に連れられて、何度も歩いた道だ。

角の魚屋も、坂の手前にある小さな電器店も、記憶の底に残っていた。

近くの電器店のテレビに、日付が映っていた。

十二月十四日。

年号を見て、息が止まった。

私が五歳だった年だ。

母に施設へ連れていかれた、あの日だった。

冗談だと思った。

夢かもしれないとも思った。

けれど、頬をつねると痛かった。

吐く息は白く、薄い靴底から冷たさが伝わってきた。

私は走った。

商店街を抜け、大通りを渡り、坂道を上った。

その途中で、私は母を見つけた。

母は灰色のコートを着ていた。

写真の中より若かった。

二十代の終わりか、三十歳になったばかりだろう。

母の隣には、幼い私がいた。

赤い毛糸の帽子をかぶり、小さなリュックを背負っている。

母の手を握り、何かを話していた。

私は足を止めた。

幼い私は笑っていた。

あの日の私は、自分が置いていかれるとは知らなかった。

母は笑っていなかった。

唇を固く結び、何度も幼い私を見下ろしていた。

そのたびに何かを言いかけ、結局、前を向いた。

私は二人の後を追った。

施設の門が見えたところで、母は立ち止まった。

「美緒」

呼ばれた幼い私は、母を見上げた。

「ここで、少し待っていてね」

「お母さんは?」

「お仕事に行くの」

「今日、帰れる?」

母は答えなかった。

代わりに、しゃがみ込んで幼い私のマフラーを結び直した。

「いい子にしていてね」

「迎えに来る?」

母の手が止まった。

ほんの一瞬だった。

それから母は、笑顔を作った。

「うん」

私は思わず声を上げそうになった。

うそつき。

その言葉が喉まで出かかった。

施設の職員が門から出てきた。

母は幼い私の背中を押し、何度も頭を下げた。

幼い私は職員に手を引かれながら、母を振り返った。

母は手を振っていた。

私も手を振った。

建物の扉が閉まった瞬間、母はその場にしゃがみ込んだ。

両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。

私は木の陰に立ち、母を見ていた。

泣けば許されると思うな。

私の中で、五歳の自分が叫んでいた。

母はしばらく動かなかった。

やがて立ち上がり、ふらつく足で坂道を下り始めた。

私は後を追った。

母は小さな公園に入り、ベンチへ座った。

コートのポケットから、しわだらけの封筒を取り出した。

見覚えのある封筒だった。

母は何度も書き直した跡のある便箋を見つめていた。

「その手紙」

気づけば、私は声をかけていた。

母が顔を上げた。

目が赤かった。

「誰ですか」

「通りかかっただけです」

自分でも不自然な言い訳だと思った。

母は警戒するように私を見たあと、便箋をたたんだ。

私は母の隣ではなく、少し離れたベンチの端へ座った。

「さっき、施設にいましたよね」

母の肩がこわばった。

「見ていたんですか」

「すみません」

「関係ないでしょう」

「そうですね」

私は母の横顔を見た。

この人が、私の母。

ずっと憎んできた人。

会いたかった人。

写真の中では分からなかったが、母の頬はこけ、唇は荒れていた。コートの袖口もすり切れている。

けれど、そんなことは理由にならない。

貧しかったから何だ。

苦しかったから何だ。

五歳の私は、母が来ると信じて毎日玄関を見ていたのだ。

「どうして預けたんですか」

母は私をにらんだ。

「あなたに関係ない」

「子どもは、迎えに来ると思っています」

母の顔から血の気が引いた。

「聞いていたんですか」

「迎えに来るって言いましたよね」

「言うしかなかったの」

「うそをついたんですか」

母は便箋を握りしめた。

「迎えに行くつもりよ」

「いつですか」

「仕事を見つけて、部屋を借りて、それから」

「それはいつですか」

母は黙った。

私は抑えられなかった。

三十年以上、言えなかった言葉だった。

「来週ですか。一か月後ですか。一年後ですか」

「分かりません」

「分からないのに、迎えに行くって言ったんですか」

「そうです」

母の声は、驚くほど静かだった。

「私は、あの子にうそをつきました」

その潔さが、腹立たしかった。

「事情があったと言えば、許されると思っているんですか」

「思ってません」

母は即座に答えた。

「許してもらおうなんて、思ってません」

風が吹き、地面の枯れ葉が転がった。

母は便箋を見つめたまま話した。

娘の父親は、妊娠を知るといなくなった。

母は昼も夜も働いた。

けれど、借金は増えた。

頼った男は、最初は優しかったが、酒を飲むと手がつけられなくなった。

やがて、娘にまで手を上げるようになった。

泣いている娘を見て、母は思った。

このままでは、いつか取り返しのつかないことになる。

「なら、その男から逃げればよかったでしょう」

「一緒に逃げるお金がなかった」

「働けばよかった」

「働いていました」

「誰かに頼ればよかった」

「頼れる人がいませんでした」

母の答えは、すべて言い訳に聞こえた。

だから私は、いちばん聞きたかったことを口にした。

「本当は、子どもが邪魔だったんじゃないですか」

母は黙った。

否定してほしかった。

すぐに違うと言ってほしかった。

けれど母は、長い時間をかけてから、うなずいた。

「そう思ったこともあります」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

母は涙を拭わなかった。

「この子がいなければ、どこへでも行けるのにって。何度も思いました。泣きやまない夜に、どうして産んだんだろうって思ったこともあります」

私は立ち上がりかけた。

聞きたくなかった。

愛していたという、きれいな答えを期待していたわけではない。

それでも、母の口から本音を聞くと、五歳の傷が開いた。

「最低ですね」

「はい」

母はうなずいた。

「最低な母親です」

「だったら、どうして産んだんですか」

母は初めて、まっすぐ私を見た。

「産みたかったからです」

「勝手ですね」

「勝手です」

「愛していたんですか」

母の唇が震えた。

「愛していました」

私は笑った。

乾いた、嫌な笑いだった。

「愛していたのに、捨てたんですか」

「はい」

その返事に、私は言葉を失った。

母は言い訳をしなかった。

守るためだったとも、仕方がなかったとも言わなかった。

愛していた。

けれど捨てた。

母の中では、その二つが同時に存在していた。

「私は、あの子を守りたかった」

母は続けた。

「でも、それだけじゃありません。私も逃げたかった。母親でいることから、貧乏から、あの男から、全部から」

「それを子どもに背負わせたんですね」

「そうです」

「その子は、あなたを恨みますよ」

「分かっています」

「ずっと待つかもしれない」

母は目を閉じた。

「分かっています」

「自分は愛されなかったと思うかもしれない」

母の頬を涙が伝った。

「それでも、あそこにいる方が生きていられる」

「生きてさえいればいいんですか」

「はい」

母は小さく息を吸った。

「私を憎んでも、私のことを忘れてもいい。あの子が生きて、大人になってくれたら、それでいい」

私は母を見つめた。

この人を許せるとは思わなかった。

施設で泣いた夜も、参観日に誰も来なかったことも、進学の保証人を職員に頼んだことも、消えはしない。

母の苦しみを知ったからといって、私の苦しみが軽くなるわけではない。

それでも、ひとつだけ、私が信じてきたことが崩れ始めていた。

私は愛されなかった。

だから捨てられた。

そうではなかった。

愛していても、捨てる人はいる。

弱さに負ける人もいる。

愛だけでは、誰かを守れないこともある。

母は便箋を封筒へ戻した。

「その手紙、渡すんですか」

「いつか」

「いつかって?」

「私が、もう迎えに行けないと決めたときです」

「迎えに行くつもりなんですか」

母は答えなかった。

代わりに、施設のある坂を見上げた。

その表情だけで分かった。

母は迎えに行きたいのだ。

けれど、行かない可能性の方が高いことも、もう分かっている。

「その子は」

私は言った。

母がこちらを向いた。

「その子は、生きています」

母の眉が寄った。

「何を言ってるんですか」

「大人になります。仕事もします。自分で部屋を借りて、料理はあまり上手じゃないけど、ちゃんと食べて生きてゆきます」

母の目が大きくなった。

「あなたは……」

私は答えなかった。

母に自分が娘だと告げることはできなかった。

告げれば、母を責めるだろう。

抱きしめてほしいと願うかもしれない。

そんな自分を、私は見たくなかった。

「その子は、あなたを許さないかもしれません」

母は、ゆっくりとうなずいた。

「うん」

「ずっと、許さないかもしれない」

「それでいい」

「でも」

私は声を詰まらせた。

「生きています」

母の顔がゆがんだ。

泣きながら、笑っていた。

公園の景色がぼやけた。

母の姿も、ベンチも、枯れ葉も、白い光の中へ溶けていく。

「ありがとう」

最後に、母の声が聞こえた。

 

気がつくと、私は自分の部屋にいた。

電気はついていた。

壁の時計を見ると、時間は一分も進んでいなかった。

手の中には、白い封筒があった。

私はしばらく動けなかった。

母の真意は分かった。

けれど、許せたわけではない。

かわいそうだったとも思う。

最低だったとも思う。

愛されていたのだとも、今なら思える。

どれかひとつだけが真実なのではなかった。

私はスマートフォンを手に取った。

直人に電話をかける。

三回目の呼び出し音で、彼は出た。

「美緒?」

「今、会える?」

声が震えた。

「会えるよ」

直人は何も聞かずに答えた。

一時間後、私たちは近所の公園にいた。

夜のベンチは冷たかった。

直人は紺色の箱を持っていなかった。

それに少し安心した。

「さっきの返事だけど」

私が言うと、直人は黙ってこちらを見た。

「私、あなたと家族になるのが怖い」

直人の表情がわずかに曇った。

それでも、私は続けた。

「いつか裏切られるかもしれない。また一人になるかもしれない。一度、誰かといる幸せを知ってしまったら、一人に戻ったとき、今までよりずっとつらくなる気がする」

口に出してみて、ようやく分かった。

私は不幸になることより、幸せを失うことを恐れていたのだ。

母が私を置いていった日から、私は誰にも捨てられないように、誰かを信じきる前に逃げる準備をしてきた。

「でも、怖いからって、あなたから逃げたくない」

直人はうなずいた。

「うん」

「結婚したら、必ず幸せになれるなんて約束はできない」

「僕もできないよ」

私は息を吸った。

「それでも、あなたと家族になりたい」

直人はしばらく何も言わなかった。

それから、私の手の上に自分の手を重ねた。

「じゃあ、怖いまま一緒に考えよう」

「そんな返事でいいの?」

「結婚って、たぶん、答えを出すことじゃなくて、一緒に考え続けることだと思うから」

母に会ったときには流れなかった涙が、次々にこぼれ止まらなくなった。

直人は理由を聞かなかった。

ただ隣にいた。

 

家に帰ったあと、私は白い封筒を開けた。

便箋には、短い文章が書かれていた。

 

美緒へ。

あなたを迎えに行くと言ったのに、約束を守れなくてごめんなさい。

あなたを愛していました。

でも、愛しているだけでは、あなたを幸せにできませんでした。

私を許さなくていいです。

どうか、私ができなかったことをしてください。

怖くても、誰かと生きることを諦めないでください。

母より

 

私は便箋をたたんで、窓を開けた。

冷たい風が部屋へ入ってきた。

遠くを走る電車の音がした。

母が私を置いていったあの日と同じように、今も街の時間は流れている。

私はスマートフォンを開き、直人に短いメッセージを送った。

――あの箱、今度はちゃんと開けて見せて。

送信したあと、母の手紙を菓子箱へ戻した。

押し入れにはしまわず、窓辺に置いた。

窓の外を、夜の電車が走っていく。

その音が遠ざかるまで、私は手紙のそばに立っていた。

もう、迎えを待つ子どもではなかった。

 

 

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