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家に歯ブラシがなかった頃


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:よもぎもちもち(2026年5月開講ライティング・ゼミ)

 

 深夜に目が覚めた。

 スマホの時計を見ると、三時だった。今日のお産はどうだったかな。陣痛で入院した人がいたはずだけど、順調に進んでいるだろうか。そこまで考えて、見上げている天井が自宅のものであることに気づいた。そうだ、今日は当直ではなかった。ここは自分の家だった。

 起き上がって、洗面所に行く。歯磨き用のコップには、私の歯ブラシが立っている。私はそれをとって、コップの水を一杯飲んだ。

 私は昔、歯ブラシが一本もない家に住んでいたことがある。あれは、もう十年以上前だ。私が産婦人科医になりたての頃だ。

 

 当時、私は週に三日か四日は病院に泊まっていた。

 医師の当直というのは、夜中もずっと起きている仕事ではない。四畳ほどの無機質な当直室でひたすら待つ仕事だ。当直室には、ベッドと机だけが置いてある。何も起きなければ、一度も起きないまま朝になる日もある。ただ、もし患者さんの急変や、何か不都合があれば、院内用の電話が鳴る。シャワーを浴びている最中でも、弁当の蓋を開けてまさに一口目をほおばる瞬間でも。赤ちゃんの状態が悪くなったときの電話は、看護師の声が半音上がる。その電話を受けたら猛ダッシュで分娩室に向かう。だから、歯を磨いて横になっても、体のどこかはずっと起きたままになっている。

 特にお産の進行が危うい人がいるときは、だいたい深夜三時くらいに自然と一度目が覚める。すぐには眠れないので、看護師さんの詰所に顔を出す。そのお産がどうなりそうか、困ったことはないかを聞き、それから部屋に戻る。

 朝になれば、そのまま外来が始まる。夜眠れなくても、寝ぼけ顔のまま診察室に座るわけにはいかない。産婦人科の医師、特に男性医師にとって、身なりはとても大切だ。

 

 当時の私は、若い医師というのは病院に生息しているものだと思っていた。

 家にいる時間より病棟にいる時間が長い。そんな日々が続いているとやはり心も身体も疲れてくる。だから、少しでも快適に負担少なく、暮らせるように、私は病院に様々な物を持ち込むようになった。

 最初は枕だった。病院の枕は薄くて、寝心地が悪かった。しかも、いろんなおじさんが使っているからか何だか独特のにおいがする。当直では、眠れるうちに眠っておかないと、翌日にとても後悔することになる。だから私は、医師の控室のロッカーにマイ枕を入れた。当直のたびに、そこから引っぱり出して当直室へ運ぶ。次は化粧水を置いた。髭剃りを置き、爪切りを置いた。マグカップを置き、常温の水を並べた。歯ブラシは、家から持ってきた一本を使った。

 私の当直グッズは、日ごとに充実していった。

 ある日曜の夜、私は数日ぶりに、一人暮らしのアパートで寝ることになった。

 鍵を開けると、部屋の空気が冷えていた。郵便受けから抜いてきたダイレクトメールの束を、机の上に放り投げる。冷蔵庫を開けると、扉のポケットに醤油のボトルが一本あるだけだった。洗い終わったタオルは一枚しか残っていなかった。久しぶりに湯船に浸かり、髪を乾かしてから歯を磨こうと洗面所に立った。と、コップに何も入っていない。歯ブラシがない。引き出しを開けても、鞄を探しても出てこない。そうだ、病院のロッカーに置きっぱなしにしていた。そのとき思い出した。

 改めて、部屋を見回した。ベッドの上には、丸めたバスタオルが枕の代わりに置いてある。マイ枕は病院にある。化粧水の瓶があった場所には、丸い跡だけが残っていた。爪切りも、お気に入りのマグカップも家にはなかった。

 

 二十二時を過ぎていた。コンビニで新しいのを買おうか、と一瞬思った。けれど最寄りのコンビニは、病院とちょうど同じくらいの距離だった。私の自転車は、病院に向かっていた。医師の控室のロッカーを開け、歯ブラシに手を伸ばしたところで、隣に掛かった白衣が目に入ったので私はそれに袖を通した。廊下に出てエレベーターに乗り、病棟の階のボタンを押した。スタッフの詰所は、この時間でも昼のように明るい。顔を出すと、看護師が振り返った。

「先生、今日はお休みじゃなかったですか」

「そうですね」

 そう答えて、私はその日のお産の状況を聞いた。陣痛の来ている人が一人いた。私の外来に何度も来ていた人だった。部屋に寄ると、その人は目を開けていた。お腹に手を当てると、ちょうど硬くなるところだった。まだ時間がかかりそうですね、と伝えて部屋を出た。詰所に戻り、椅子に座ってカルテを少し書いた。書いていると、病棟がにわかに騒がしくなる。さっきの人の赤ちゃんの心音が下がっているという。ついさっきまで、何ともなかったのに。今日の本当の当直の上級医が眠そうに来て私に言う。

「先生、これから帝王切開になるけど、参加する?」

「やります」

 即答して、その人のもとへ向かう。手術が始まり、赤ちゃんが取り出される。産声が上がるまでの数秒が、いつもより長い。結局、お母さんも赤ちゃんも無事だった。

 手術を終えて帰り道、コンビニでビールを買った。出産祝いのビールを一缶飲んで寝ようとすると、そこで結局、歯ブラシを持って帰ってくるのを忘れたことに気づいた。明日でいいや。めんどくさくなって、その日はそのまま寝た。

 結局、その歯ブラシが家に帰ってきたのは、もう数日後のことだった。

 

 今は年をとって、当直の回数が減った。

 たまに医師の控室の洗面台の前に立つと、見覚えのない歯ブラシが何本も並んでいる。マグカップがあり、洗面グッズが置いてある。私のものは、端っこに追いやられている。手を触れずに、私はスタッフの詰所へ向かう。今夜どうなりそうかを聞き、何かあれば家にいても電話してください、と言って、家に帰る。

 今、自宅には、自分の枕も、マグカップも、化粧水もある。

 それでも、三時に目が覚めると、一瞬わからなくなる。

 コップに立った歯ブラシを見て、今夜も家なのだと思い出す。

 

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