腹を満たしたら、腹がくくれた
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:吉田倫子(2026年5月開講ライティング・ゼミ)
「お申し込みはこちら」
鮮烈な赤いボタンが、デスクトップの壁紙と化していた。
パソコンの画面、右上の11:03という時計の数字が、ぼんやりと視界に入る。
もう、そんな時間か。
朝9時に作業机に向かってから、ただボーッと画面を見つめ続けていた。右手の指先はトラックパッドの上を意味もなく往復する。
合間に左手でスマホを取り、インスタグラムを開く。親指で画面を軽やかにスワイプし、流れてくる写真に深く考えず「いいね!」を5つほど、リズミカルにトントントンと押す。
そしてまたパソコンに目を戻す。
ただ、それの繰り返しだった。
何をそんなにためらっているのか。
上級コースに進みたい。
でも、お金に余裕はない。このところ仕事にも気持ちが乗らず、依頼を断ることも増えていた。
しかも今年は大殺界最後の年。運気カレンダーをチェックしては、
「今は無理せず、省エネで」
と自分に言い聞かせていた。
そんな中で、毎週二千字の課題を書くライティングゼミだけが、生活のペースメーカーだった。書いて、提出して、フィードバックを受ける。その繰り返しの中で、過去のモヤモヤを文章にして人が読める形にすると、自分の中が整っていく。気持ちが成仏して、心がスカッとする。
それに書くことに夢中になっていると、余計なことを考えたり、人のことを気にしたりする暇もない。ものの見方も、人との関わり方も、変わってきた。本当は何をしたいのかも、少しずつ見えてきた。
やっぱり、もっと書きたい。
でも、お金はどうする? 上級クラスに、はたしてついていけるのか。
さんざん悩んだ末、画面の前で固まっていた私が最後に飛び越えようとして飛び越えられないでいたハードルというのが、
「現金で払うか、それともカードで払うか」
だった。
どうでもいい。
心底、どうでもいい。
この酷暑の中、わざわざ現金を払いに行く理由などない。カード決済のほうがいいに決まっている。それなのに、
「現金なら支払った実感があるかも」
「店まで行けばモチベーションが上がるかも」
そんなことが頭に浮かんでくる。大きな人生の決断をしているような顔をしながら、実際には決済方法で立ち止まっていた。
ふと学生時代を思い出した。
テスト前になると、決まって部屋の掃除を始める。本当は勉強しなければならないのに、本棚を拭き、引き出しを整理し、机だけは妙にきれいになる。そして、漫画をチラチラ拾い読みをする。
あれと同じだ。
人は、しばしば本当に向き合うべきことの直前になると、やらなくてもいいことを真剣にやり始める。どうでもいいことまで気になり始める。今回、私の前に現れた最初の壁は、
能力。
お金。
運勢。
そして最後の詰めが、
「現金か、カードか」
そこ?
でも、人は、本当に興味のないことでは迷わない。
もし「宇宙飛行士養成講座」の案内が届いたとしても、支払い方法で何時間も悩むことなんてないだろう。
ということは、私は、とっくにやると決めていたのだ。
煮詰まり果てた末、私は「そうだ、お昼ご飯を食べよう」と立ち上がった。
残り物のゴーヤチャンプルを平らげ、納豆と韓国海苔たれを混ぜて一気にかきこむ。締めは、わさび茶漬け。サラサラとのどをとおって、胃に流れていく。最後にわさびが、つーんと鼻に抜けた。
「ごちそうさまー」
作業机に戻ると、不思議なくらい体が軽かった。壁紙と化している「お申し込みはこちら」の赤いボタンを、迷わずクリックする。
最終段階で認証コードを求められても、今度はもう迷わない。
カチリ。
画面に、
「ご購入いただきありがとうございました!」
と表示された。
はい、終了。
私の心は急に軽くなった。
振り返れば、私が最後まで足踏みをしていたのは、決済方法のせいでも、お金や運勢のせいでもない。
「本気で書くこと」に向き合うのが、怖かったのだ。
一度、童話を書いて、出版社の募集に応募したことがある。
すると、何回か「出版しませんか」と電話がかかってきた。
そのとき私は、
「自費出版系ですよね。それだったら、ハワイに行くほうがいいので」
と断った。そのときは、本当にそう思った。
私はこれまで、ピアノ、茶道、英語、写真と、いろんなものに手を出してきた。
始めるたびに「これだ!」と思い、そこそこまでいく。
そして、いつの間にかやめて、また別のものを探す。
どれも楽しかった。
でも、あとに残らなかった。
本当にやりたいことだけが、ずっと後回しになっていた。
本気でやってダメだったら、自分まで否定されるような気がしていた。
でも今は違う。
書いていると、自分の中で何かが変わっていく。
それが楽しい。
だから、もっと書きたい。
そう思っていたからこそ、私は上級コースの「お申し込みはこちら」の赤いボタンの前で、二時間も立ち止まっていたのだ。
だけど結局のところ、私の背中を押したのは大層な決意などではなかった。
昼ご飯だった。
腹を満たしたら、それまで大きく見えていた能力も、運勢も、お金も、なんとかなると思えてきた。
腹を満たしたら、腹がくくれた。
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