この世とあの世の間の世界へ行って、起きたこと―境界の島 波照間島―
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:松原大修(2026年5月開講ライティング・ゼミ)
「何もすることがない。
いや、正確にいえば、何もしなくてもよかった」
海へ行ってもいい。昼寝をしてもいい。自転車で島を一周してもいい。何もせず、ただ風に吹かれてもいい。
朝、鳥の鳴き声で目が覚める。お腹が空いたらご飯を作る。海へ行きたくなったら、自転車に乗る。暑くなったら帰って寝る。夕方になったら商店へ行き、刺身があれば買う。夜になったらお酒を飲む。
京都にいた時、休日に何もしないと、1日を無駄にしたかのような気がしていた。
朝起きるのは10時を過ぎてから。まだ眠いからと、もう一度布団に潜る。次に目を覚ますと13時を過ぎている。枕元のスマートフォンを手に取り、SNSを眺め、ショート動画を見て、ニュースを何気なく読む。そうしているうちに、外はどんどん暗くなっていく。
「今何時?」
そう思った時には、いつも19時を過ぎていた。
「やばい。今日何もしていない」
せめて今日という日に何か残そうと言わんばかりに、急いで服を着替え、夜の京都へ飲みに出かける。
旅行をするときも、それは変わらない。
早朝に起き、眠たい目をこすりながら始発の電車へ乗る。
せっかく旅へ行くのだからと、行きたい場所をいくつも地図に保存する。旅先に着いても、1分1秒が惜しい。写真を撮ったら時計を見て、残り時間を確認する。
「あと1か所くらい行けそうだな」
そう思って次の場所へ向かう。
私は、波照間島でも同じことをしようとしていた。
前日に石垣島へ入り、朝8時の船で波照間島へ渡る予定だった。
島に着いたら、宿へ荷物を置き、ニシ浜で泳ぐ。その後、着替えて夕日を眺める。
行きたいお店はすべて予約し、最後は星空を眺める。1週間も滞在するのに、それらをたった1日でやり切ろうとしていた。旅先にまで日常を持ち込もうとしていた。
けれど、実際にはそううまくいかなかった。
初日から予定は崩れた。電車の大幅遅延で飛行機に乗れず、関西空港駅に降り立った時には、乗るはずだった飛行機が頭上を飛んでいった。
なんとか翌日のうちに波照間島へ辿り着いた。
「ニシ浜、居酒屋、日本最南端の碑へ行きたい。だから宿のチェックインは30分以内に済ませなきゃ」
そう思っていた。けれど、宿へ向かう途中、島の人と話しているうちに時間が過ぎていく。
その途中で、お土産屋さんの方に、ウミガメが見られる場所を教えてもらったり、島の人口と同じくらいいるヤギの話を聞いたりした。
ようやく部屋に入る頃には、暑さと疲れで身体は限界だった。そのままベッドに横になり、眠ってしまった。
17時頃、刺身が商店に並ぶと聞き、5分前から店で待った。けれど、17時を過ぎても出てこない。
17時10分、20分……。
次第に、自分の予定が島の時間に負けていく。最初は焦っていた。でも、予定通りにいかないことが続くうちに、「まあ、いいか」と思うようになった。
いつの間にか、時計を見る回数も減っていた。
不思議なことに、何かをしようとするのをやめてからの方が、いろんなことが起きた。
翌朝、私はニシ浜へ向かった。
昨日、お土産屋さんの方に教えてもらった場所を目指して、海へ入る。ウミガメがよく現れるのはお昼前後らしい。でも、なぜかその日は朝から泳ぎたいと思った。
20年ぶりの海水浴。波に身体を委ねながら沖へ泳いでいくと、前から大きなカメがやってきた。水族館で「当館イチの長寿ガメです」と紹介されていそうなほど大きなカメだった。
夜になると、島の居酒屋にいた。
予約していた居酒屋が臨時休業になり、宿のオーナーさんに勧められた別の店へ向かった。
生ビールを飲んでいると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「おやっさん、予約してないけどいい?」
振り返ると、昨日のお土産屋さんの方だった。
「カメには会えたかい?」
そこから、台風やお酒、釣りの話で盛り上がった。
都会では、事前に予定を合わせなければ人に会えない。
でも、この島では、約束していない人と何度も出会う。
波照間島に来て3日目。
その日は、行き先を決めず、自転車を走らせていた。
気がつくと、誰もいない浜に辿り着いていた。ペムチ浜というらしい。
誰もが憧れるような白い砂浜と、珊瑚の上に浮かぶ水色の海が広がっている場所ではない。岩がゴツゴツしていて、電波も入らない。
私は自転車を停め、砂浜に腰を下ろした。別に、何かをするために来たわけではなかった。
どれくらい、そうしていただろう。時間を忘れて、ただ座っていた。
人の声も、車の音も聞こえない。聞こえるのは、波と風の音だけ。
何も起きなかった。
以前なら、こんな時間を「無駄」だと思っていたのかもしれない。
でも、この時は、それでいいと思えた。
それから1週間後、私は京都にいた。
駅の電光掲示板には「次の電車まであと何分」と表示され、スマートフォンからは絶え間なく通知が届く。街はいつも通りガヤガヤしている。
「いつもの日常に戻ってきた」
そう思った。
京都には何でもある。
けれど、波照間島で感じていた、あの満たされた感覚がない。
都会は、「もの」が多すぎる。
電車の時刻。スマートフォンに届く通知。街を埋め尽くす音や情報。
波照間島から戻って、初めてそう思った。
それまで当たり前だと思っていた日常の方に、どこか違和感を覚えた。
波照間島には、何もなかった。
いや、正確にいえば、何もしなくてもよかった。
あの島で、私は「何もしない」という贅沢を知った。時計を見なくても、予定を立てなくても、何かをしていなくても、1日はちゃんと過ぎていく。
そんな時間の中にいると、波照間島は、もしかすると、誰もが当たり前だと思っている日常から、ほんの少し離れた世界のように思えた。
だから私は、あの島で起きたことを、もう少しだけ書いてみようと思う。
『境界の島―波照間島―』
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