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 【連載第42回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》―顔を洗えなくなった男性が、もう一度“自分”と目を合わせた朝―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

顔を洗わなくなる、鏡を見なくなる。それはだらしなさではなく、しばしば「自分を見たくない」という心の防衛です。今の自分と向き合うのがつらいから、そっと目をそらす。だからこそ、ふたたび鏡をのぞき込み、そこに映る自分と目が合った瞬間には、大きな意味があります。それは「まだ、ここに自分がいる」ということを、自分自身が認めた瞬間だからです。

 

——

 

洗面所の鏡には、うっすらとほこりがかぶっていました。

 

長いあいだ、誰もそこに立っていなかったのだと、ひと目でわかりました。

 

Sさん(55歳)。会社員として長く働き、二年前にうつ病で休職。その後、退職し、今は自宅で療養している男性です。訪問リハビリの依頼が来たとき、紹介状にはこう書かれていました。「身辺の清潔動作の低下がみられる。洗面、整容への促しをお願いしたい」と。

 

Sさんは、無精ひげをのばし、髪はぼさぼさで、寝間着のまま、暗い居間に座っていました。目には、力がありませんでした。

 

「先生、正直に言うとね」

 

Sさんは、私を見ずに言いました。

 

「顔を洗う意味が、わからないんですよ。どこにも行かないし、誰にも会わない。汚れたって、困る人はいない。……鏡なんて、もう何ヶ月も、見てない。見たくないんだ、自分の顔なんて」

 

その言葉は、静かでしたが、深いところから出ていました。「見たくない自分」がそこにいる。だから鏡を避ける。鏡を避けるから、身なりも整わない。整わないから、ますます人に会いたくなくなる。――その悪循環の底で、Sさんはずっと、うずくまっていたのです。

 

 

 

洗顔や整容は、作業療法の世界で「セルフケア」と呼ばれる、基本的な生活動作のひとつです。けれど、この動作の本当の意味は、清潔さそのものにはありません。

 

顔を洗い、鏡を見て、髪を整える。この一連の動作は、「これから、外の世界と関わる自分」を準備する行為です。言いかえれば、身なりを整えることは、「社会の中の自分」に、スイッチを入れることなのです。

 

Sさんが顔を洗わなくなったのは、身体が動かないからではありません。「社会の中の自分」に、もう一度スイッチを入れる理由を、見失っていたからでした。

 

だから私は、「顔を洗いましょう」とは言いませんでした。かわりに、こんな提案をしました。

 

「Sさん、この洗面所、少し掃除しませんか。鏡がくもってると、なんだか気分も晴れないでしょう。私も手伝いますから」

 

顔ではなく、鏡を。自分ではなく、場所を。――そこから始めることにしたのです。

 

 

 

私たちは一緒に、洗面所を掃除しました。ほこりを拭き、床を掃き、鏡を磨きました。Sさんは、最初は気だるそうでしたが、鏡がだんだんと透明になっていくのを見て、少しずつ、手が動くようになりました。

 

そして、鏡がすっかりきれいになったとき。

 

Sさんは、思わず、その前に立ちました。

 

磨いたばかりの、くもりひとつない鏡。そこに、Sさん自身の顔が、はっきりと映っていました。

 

しばらくのあいだ、Sさんは、何も言いませんでした。ただ、じっと、鏡の中の自分を見ていました。ひげがのびて、やつれて、疲れた、五十五歳の男の顔。長いあいだ、見るのを避けてきた、その顔を。

 

「……ずいぶん、老けたなあ」

 

Sさんは、ぽつりと言いました。それから、少しだけ、口元をゆるめました。

 

「でも、まあ、生きてるな。ちゃんと、ここにいるわ」

 

そう言うと、Sさんは蛇口をひねって、両手で水をすくい、顔を洗いました。何ヶ月ぶりかの、洗顔でした。

 

冷たい水が、顔をつたって落ちていく。Sさんは、タオルで顔を拭きながら、もう一度、鏡を見ました。今度は、目をそらしませんでした。

 

 

 

「見たくない自分」と目を合わせる、というのは、とても勇気のいることです。人は、うまくいっていないときほど、自分の姿を直視できなくなります。それは弱さではなく、心が自分を守ろうとする、自然な働きです。

 

だからこそ、鏡の中の自分と、もう一度目を合わせられたとき。それは「今の自分を、そのまま受け入れてもいい」と、自分自身に許可を出した瞬間なのだと思います。

 

Sさんは、鏡の中に「ダメになった自分」を見たのではありませんでした。「やつれてはいるけれど、まだ、ちゃんとここにいる自分」を見つけたのです。その小さな発見が、Sさんの再起動のスイッチになりました。

 

 

 

それからのSさんは、毎朝、顔を洗うようになりました。ひげをそり、髪を整え、やがて「散髪に行ってきた」と、さっぱりした顔で私を迎えてくれる日が来ました。

 

「顔を洗うとね」とSさんは言いました。「一日が、始まる感じがするんですよ。鏡の中の自分に、『今日もよろしく』って言うみたいでね。おかしいでしょう。でも、そう思えるようになったんです」

 

おかしくなんかありません。むしろ、それこそが、いちばん大切なことだと、私は思いました。

 

 

 

私自身にも、鏡を避けていた時期があります。心と体を壊し、「治される側」になったあの頃。鏡の中の、痩せて、覇気のない自分を見るのが、本当につらかった。だから、洗面所では、なるべく下を向いていました。

 

けれど、ある朝、ふと顔を上げて、鏡の中の自分と目が合ったことがありました。情けない顔だな、と思いました。でも同時に、「こいつも、頑張ってるんだよな」と、なぜか、他人事のように、少しだけいとおしく思えたのです。その日から、少しずつ、私は自分と目を合わせられるようになりました。

 

鏡は、ただ姿を映す道具ではありません。「自分と向き合う」という行為の、いちばん身近な入り口です。

 

 

 

【今すぐできる、再起動の自主トレ】

 

「社会の中の自分」に、そっとスイッチを入れ直すための練習を三つ。きれいに整える必要はありません。ほんの少しだけ、自分に近づくことから。

 

① 鏡を、一拭きだけ磨く

顔を洗う前に、洗面所の鏡を、さっと一拭きしてみてください。くもりがとれて、透明になった鏡は、不思議とのぞき込みやすくなります。自分と向き合う、その前に。まずは、向き合う「場所」の方を、少しだけ整えてあげるのです。

 

② 三秒だけ、自分と目を合わせる

鏡の前に立ったら、三秒だけ、映った自分と目を合わせてみてください。どんな顔でもかまいません。そして、心の中で「今日もよろしく」と一言。長く見つめる必要はありません。三秒でいい。その三秒が、自分を受け入れる練習になります。

 

③ 顔に、水をあてるだけ

洗顔料も、タオルも、まだいりません。両手で水をすくって、顔にぱしゃっとあてる。それだけでいい。冷たい水の感触は、ぼんやりしていた頭に、「今日が始まる」という小さな合図を送ってくれます。ちゃんと洗おうとしなくて大丈夫。水に触れる、その一動作から。

 

 

 

もし今、あなたが、鏡を見るのがつらいなら。あるいは、大切な人が、自分の姿から目をそらしているなら。

 

無理に「ちゃんとしなさい」と言わないであげてください。まずは、鏡を一枚、きれいに磨くことから始めてみてください。くもりのない鏡なら、少しだけ、のぞき込みやすくなるはずです。

 

そして、そこに映る自分と、目が合ったなら。どんな顔をしていても、こう言ってあげてください。「まだ、ちゃんとここにいるな」と。

 

それは、今日という一日に、自分でスイッチを入れる、静かな儀式です。

 

再起動のスイッチは、磨いた鏡の、その向こうにいる自分自身の目の中にあります。

 

今朝、あなたは、自分と目を合わせられましたか。

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

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