メディアグランプリ

暗闇の演芸場


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:智野のどか(26年9月ライティングゼミwithAI)

 

「ずずっ、ずずずーっ」

暗闇の中で、誰かが勢いよく蕎麦をすする音が響く。

続いて、すっとんきょうな高い声が重なる。

「へーい」

間の抜けた小僧の返事ひとつで、ドッと地鳴りのような笑い声と割れんばかりの拍手が沸き起こる。

 私は掛布団を頭まですっぽりかぶり、手のひらに収まる銀色の小さなポータブルラジオを耳元にぎゅっと押し当てていた。カチリと回した選局ダイヤルの隙間から、ホワイトノイズに混じって聴こえてくるその世界に、心臓の鼓動が早鐘を打っていた。

「早く寝なさい!」

 パチンと部屋の明かりを消され、ぴしゃりと音を立ててふすまを閉められたのは、夜の九時過ぎのことだ。

 当時の私にとって、夜の子供部屋はまるで理不尽な留置場だった。

まだ眠くなんかない。大人のいる居間からは、楽しげなテレビのバラエティ番組の音や笑い声が、薄い壁越しに楽しげに漏れ聞こえてくる。それなのに、子どもという理由だけで真っ暗な部屋へ押し込められ、掛布団の上にじっと横たわっていなければならない。

明日もまた、あの息苦しい教室へ行かなければならない。

 暗がりのなか、壁掛け時計の秒針だけが、カチ、カチと冷たい金属音を刻み続けていた。街灯の光に透けた天井の木目が巨大な怪物のように見え、私以外の全世界の人間が心地よい眠りの中へ旅立ってしまったような、途方もない孤独。あの冷たい夜の底に一人で沈んでいく感覚は、幼い私にとって逃げ場のない深い谷だった。

 そんな夜の唯一の友だちが、枕元のラジオだった。体が弱くて学校を休んで寝ていることの多かった私にとって、退屈な布団の中を満たしてくれる大切なお供。なかでもNHKラジオ第1の『真打ち競演』(1955年放送開始)は格別だった。

 画面はない。出演者の顔も、着物の柄も、舞台のセットも見えない。あるのは小さなスピーカーから流れてくる声と音だけだ。

それなのに、噺家が「ずずっ」と音を立てた瞬間、私の真っ暗な部屋に、湯気を立ち上らせる熱々の蕎麦屋の屋台が立ち現れる。吹き抜ける冬の夜風の冷たさや、丼を持つ親指の熱さまで、肌に触れるように伝わってくる。「へーい」の一言で、叱られて頭をかく小僧の青い丸坊主と頑固親父の呆れ顔が、鮮やかなフルカラーで脳裏に浮かび上がる。

 押し込められたはずの狭い子供部屋が、ラジオのダイヤルひとつで、時空を超えた夢の劇場へと変わっていた。

 なぜ画面すらないラジオが、これほど鮮明に心を奪い、孤独から救い出したのか。

視覚情報が何ひとつないにもかかわらず、なぜ私たちはテレビを見る以上の熱量で、その風景に没頭してしまうのか。

 その答えを手に入れる鍵は、とてもシンプルな場所にある。

現代の私たちは液晶画面に囲まれ、高精細な映像とテロップによって、あらかじめ感情の行き先まで指定されたコンテンツを浴びている。情報が100パーセント差し出される快適さの中で、私たちは夜の静けさに理由のない疲労感や焦燥感を抱えてはいないだろうか。

 もし今、画面の光に心が疲れているなら、今夜寝室で試してみてほしい行動がある。

部屋の照明を落とし、スマートフォンを裏返して光を完全に遮断する。そしてNHKラジオの公式アプリ「らじる★らじる」の聞き逃し配信を開くか、音声配信で昔の落語を一席だけ再生し、イヤホンを耳に差し込むのだ。選ぶ演目は、蕎麦をすする名場面がある『時そば』でも、小僧の返事が響く長屋の噺でもいい。

 耳だけに神経を預けたとき、なぜあのワクワクが甦るのか。昭和の名人・五代目古今亭志ん生が客の想像力を信じてまるごと包み込み、立川談志が1965年の著書『現代落語論』(三一書房)で客に「脳みそをフル回転させて付いてこい」と挑んだように、落語の舞台はいつだって聴き手の頭の中に立ち上がる。

 差し出される手がかりが声と音だけだからこそ、足りない雪の色や蕎麦の湯気の匂いは、私たちが自分自身の記憶から持ち寄って埋めるしかない。暗闇の中で噺家と息を合わせ、自分だけの大道具や照明を脳内に組み立てたあの夜、私はただの観客ではなく、物語の景色を一緒に立ち上げる共犯者になっていたのだ。

 もちろん、誰にでも即座に効くとは限らない。映像の過剰な刺激に慣れた現代の私たちにとって、最初は耳だけに集中することがもどかしく感じられる夜もあるだろう。

けれど画面の光を消した瞬間、目の前の暗闇はもはや退屈な寝室ではなくなる。

 大人になった今でも、時おり夜の静寂に押しつぶされそうになるとき、私は部屋の明かりをすべて消し、あの頃と同じように暗闇の中でラジオの音を鳴らす。

 イヤホンの向こうから届く一本のマイクの息遣いが、閉ざされた部屋の壁を壊し、どこまでも自由な想像の劇場へと連れ出してくれることがあるはずだ。

 あの暗い子供部屋で救われた幼い日の私が、今夜の私へと、そっと手渡してくれたように。

 

《終わり》

 

 

 

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00



■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事