メディアグランプリ

『そのうち、は来なかった』


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:AKIYO (26 年 9 月ライティングゼミ with AI)

※ ノンフィクションですが、人名は仮名にしています

 

「喜久江さんがね、昨日亡くなったそうなの」

 その訃報を聞いたのは、酷暑のお盆の夜だった。母からかかってきた電話で話しながら、久しぶりに出た叔母の近況が、すでに帰らぬ人だということに驚き、胸が痛んだ。

 「認知症が始まってるって聞いてたけど、急になんで?」

 「コロナにかかっちゃって、3日後に亡くなったそうよ」

 思いがけない母の返事に、息を飲む。コロナウイルスによる緊急事態宣言が終わってから2年の年月が流れ、世間的にはそろそろ終息と思う頃だった。

 「お父さんがコロナにかかったのと、数日違いだね」

 奇しくも父もほぼ同じ時期に感染し、入院中だった。一命は取り留めたものの、入院は長くなるだろうと家族で話し合っている最中の出来事だった。

 「お葬式の連絡が来ているから、一緒に行きましょう」

 告別式の日時を確認し、待ち合わせを決めて母の電話を切った。

 

 告別式の朝、電車に揺られながら車窓の外を眺めた。真夏の太陽に照らされて木々の深い緑が光を反射して、すでに眩しいくらいだった。

 そういえば、叔母とはよく電車に乗って遠くへ連れて行ってもらったっけ。

 

 私が小学生のとき、祖父が商売をしていて、私たちの家族も同居していた。そしてよく、叔母が従兄妹を連れて遊びに来てくれた。

 「AKIYOちゃん、元気? ちゃんとご飯食べてる?」

 少し低めで、よく通る声。目鼻立ちがはっきりした美人だった。叔母は、男二人、女二人の4人の子供を育てていたから、きっと声が通ることは大切だったのだろう。

 「相変わらず痩せてるなぁ。今度旅行行ったら、美味しいものいっぱい食べようね」

 

 叔母は、いとこのうち女の子だけを集めて、よく祖母と一緒に旅行に連れて行ってくれた。年の近い女の子ばかりが並んで座れば、静かにしていられるはずがない。学校のこと、好きなアイドルのこと、流行っているテレビ番組のこと。話題は尽きず、笑い声はどんどん大きくなる。

 「もう少し静かに! 声を落として!」

そのたびに、叔母のよく通る声が飛んできた。私たちは首をすくめて顔を見合わせ、ほんの数分だけ小声になる。けれど、すぐにまたくすくす笑いが始まってしまうのだった。

 

 最後に一緒に旅行したのは、私が中学生の頃だった。行き先は千葉の海。夕食のあと、誰かが「夜の海が見たいね」と言い出した。幸い大人と子供で別の部屋割りだったので、大人たちに気づかれないよう、私たちはこっそり旅館を抜け出した。

 「夜の海って、なんか迫力あるよね」

 暗い水面から、波の音だけが寄せてくる。近くの旅館から漏れる光が頼りの薄暗い闇の中で砂浜に並んで座り、電車の中のにぎやかさが嘘のような小さな声で、私たちはとりとめのない話を続けた。

 「いいね、東京じゃないって自由」

 「私たち、もう子供じゃないもんね」

 どれくらい経っただろう。気がつくと、すぐ後ろに叔母が立っていた。いつもなら真っ先に飛んでくるはずの、あのよく通る声はなかった。叔母は叱りもせず、静かに私たちを連れて帰ってくれた。

 あの頃の叔母は、今の私よりずっと若かったはずだ。夜に抜け出した私たちに、苛立ちも感じただろう。それでも叔母は、声を荒げなかった。

 それが、叔母との最後の旅行になった。

 

大人になると、それぞれの暮らしに追われ、叔母や従兄妹たちと会う機会はなくなった。叔母に認知症が始まったらしいと聞いたときも、そのうち顔を見に行こうと思ったきりだった。

 

そのうち、は来なかった。

 

 祭壇の遺影は、見覚えのある大きな目で笑っていた。焼香の列に並び、お坊さんの読経を聞きながらも、なぜか私の脳裏には、ずっとあの夜の波の光景が行きつ戻りつしていた。

 

 精進落としを終え、母と私がタクシーに乗り込もうとしたときだった。

 「今日はありがとう! またね!」

 背中から、少し低めのよく通る声が追いかけてきた。振り返ると、従兄妹たちが喪服の裾を気にしながら駆けてきて、大きく手を振っていた。午後の強い日差しが、黒い肩を白く光らせている。その真ん中で、大きな目をくしゃっと細めて笑う顔。

 叔母だ。

 息が止まった。ハッとして、もう一度見直す。そこにいたのは、叔母そっくりに成長した従妹だった。考えてみれば、私たちはもう、あの夏の叔母よりずっと歳をとっている。従妹が叔母に見えただけか。

 「いま、喜久江さんがいたような気がしたね」

 隣の母が、独り言のように呟いた。私は返事をせず、その言葉を不思議な静けさで受け止めた。

 タクシーが走り出す。窓の向こうで、従兄妹たちの手がいつまでも揺れていた。車が走り出すのにつられて、走り出しそうな勢いだった。

もう子供じゃないんだから。いいよ、走らなくて。

蝉しぐれに混じって、遠くで波の音が聞こえた気がした。

 

 叔母は、ちゃんとここにいたのだ。あの夜、何も言わずに私たちを迎えに来てくれたように。

 「ちゃんとご飯食べて、元気に過ごすのよ」

 耳の奥で、懐かしい声がした。

 

≪終わり≫

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