メディアグランプリ

支えられてきた


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:仲西悠歌(京都天狼院 「作家デビュー」プログラム)

 

深夜、台所の灯りだけをつけて、マグカップにお湯を注ぐ。

「これでいいや」と小さく声に出してみる。喉の奥がすうっと溶けていくのがわかる。何かを投げ出したいわけではなかった。中学生の私は、何かできないたびに「恥ずかしい」「どうして自分はこうなんだろう」とひとりで勝手に追い詰めていた。期日に追われ明日までに体育祭で踊るパートを覚えなきゃいけないのにクラスメイトのスピードに弾き出されそうになっては、足元をすくわれていた。今はもう「まあ、いいか」と思える。順を追ってひとつずつ片付ければいい。生きているうちに死ぬまではできるようになりたい。それで御の字じゃないか。そう思えるようになったのは、あの人の姿をみてきたからだ。

部屋の壁には、十数年前のアイドルのポスターが、画鋲で一枚だけ留めてある。角が少し黄ばんで、紙の端が反り返っている。職場の同僚も、新しくできた友達も、このポスターのことは知らない。普段の私の持ち物には、推しの痕跡なんてひとつもない。けれど、この一枚だけは剥がせないまま、きっとずっとこのままだ。

中学3年生の頃の教室は、いつもどこか薄ら寒かった。誰が誰とつるんでいるか、誰がどのバンドを聴いているか。休み時間になるたび、目に見えない採点表が配られているような場所だった。テレビの向こうのアイドルを好きになることは、いちばん格好の悪いことだとされていた。「うわ、そっち側にいったんだ」後ろの席で誰かが笑ったとき、私は机の木目をじっと数えていた。余計なことを言って標的になりたくなくて、耳をふさぎたい思いでいっぱいだった。

その頃の冬の夜、たまたまつけたテレビの隅っこで、彼が歌っていた。まだ丸みの残る頬に、汗で額に張り付いた前髪。「国民的アイドルになりたいです」カメラをまっすぐ見据えて、そう言って笑った。愛想笑いじゃない。自分が立っている足元の先を、一片の疑いもなく信じ切っているキラキラした目だった。同い年の男の子のその剥き出しの光に、視線が縫い付けられた。笑われたって構わない。この人がどうやって大人になっていくのか、その時間をちゃんと見ていたいと思った。

母に頼み込んで、新幹線に乗せてもらった。大阪から東京へ。東京国際フォーラムの駅を出ると、どんよりと曇った空から、細かい冬の雨が降っていた。長い列に並び、手に入れたのは一本のうちわだけ。ホールの照明が落ち、暗闇の中にペンライトの海が広がった瞬間、息が止まった。ステージの真ん中で踊る彼は、教室の中で息を潜めていた私にとって、生まれて初めて目にした「発光体」だった。アイドルというより、音楽という厳しい仕事の現場で、同い年の人間が必死に働いている。その姿を見ているうちに、自分の「好き」をちゃんと見つけたいと思うようになった。

彼は雑誌のインタビューでも、ステージの上でも、自分の言葉で歩いてきた道を話す人だった。かっこつけず、迷いも悔しさもそのまま差し出す言葉に触れるうち「言葉で何かを伝えること」そのものに惹かれていった。進路の選択科目を選ぶとき、仲のいいグループの子たちはみんな「体育」を選んだ。誰も知り合いがいないと分かっていながら、迷わず「国語」の教室へ行った。分厚い文庫本を抱えた、個性を大切にしている人たちが集まっていた。好きな小説の話を、誰にもからかわれずに話せる友達ができた。3年間本棚の奥にしまい込んでいた本を、もう一度最初から読み返す日々が始まった。彼が、私の日常に言葉の種を蒔いてくれたのだ。

けれど、彼らの道は平らではなかった。メンバーの脱退、活動休止、新しい仲間の加入。 形が変わるたび、彼は逃げずに真ん中に立ち続けた。年下の新メンバーが自信なさそうに縮こまっていると、的外れな答えを返してしまっても決して笑わず「うん、そうだね」とまるごと受け止めて肩を抱いていた。だからこそ、大切に育てていた仲間が事件を起こしてグループを去り、世間から一斉に槍を投げられたとき、見ているこちらの胸まで削られるようだった。


バッシングの中、アリーナのステージに立った彼らは、いつもより少し小さく見えた。 それでも、客席一面の光を見つめた彼の声は、力があった。「待っててくれて、ありがとう。信じてくれて、ありがとう」「ずっと応援してくれてきた人たちの言葉も大切にしたい。五人の歴史も大切にしたい」そのとき、すとんと胸の重荷が降りた。世間中の全員に好かれる必要なんてないのだ。目の前にいる人を信じて、今できることをひとつずつ、死ぬまでに自分の足でできるようになれば、それで十分じゃないか。転びながら、傷だらけになりながら、それでも一歩ずつ歩幅を刻む彼の姿を見て「焦らなくていいんだ」と思い出すことができた。

いまの私の暮らしには、彼らの痕跡は何ひとつない。黒いパンツに、白いTシャツ。どこにでもいる、目立たない格好。街の不動産仲介の仕事を選んで、毎日いろんな人に物件を預かり、投資の相談に乗っている。仕事でうまくいかなくて、自分って本当にちっぽけだなと落ち込んだ帰り道。足元がぐらつく夜。部屋に戻り、壁のポスターを見る。あんなに理不尽な目に遭っても、あの人はちゃんと立って歌っている。なら、私も私の場所で、自分の足で立たなきゃいけない。


今は、文章を書きたいと思っている。 賞がほしいわけでも、誰かにちやほやされたいわけでもない。あの頃の私のように、教室の中でクラスメイトの言葉が気になり、できない自分を責めて下を向いている誰かに、「大丈夫だよ、ゆっくりでいいんだよ」と、小さく手を振るような文章を書きたい。たったひとりに届いて、その人の呼吸が深く、生きやすくなってくれたら、書く意味は足りる。


ふと、十五歳の冬、雨の東京国際フォーラムでうちわを抱えて縮こまっていた日のことを思い出す。あのとき私が選んだ人は、今も立ち止まりながら、誰よりも優しく力強い顔をして歌い続けている。だから、何も怖がらなくていいのだ。あの人が信じてくれる人のために歌うように、自分で選んだこの場所で、言葉を紡ぎながら生きていく。


手の中のマグカップから、白い湯気がふわふわと揺れている。ふうふうと息を吹きかけて、少し冷めてからゆっくりと一口飲む。


 できないことだらけの自分でも、まあこれでいいや。ここからだ。台所の灯りを消して部屋へ戻ると、カーテンの隙間から差し込む街灯の薄明かりに照らされて、ポスターの中で彼が包み込むように柔らかく微笑んでいた。

≪終わり≫

 

 

 

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2026-10-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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