注文の多い温泉施設
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:那須健史(ライティング・ゼミwith AI 9月開講4か月コース)
「ずいぶん、お約束が多いなあ」
洗い場はなく、石鹸、シャンプーは使えない。
多人数での利用はお断り。
館内では静かに。
食事の提供はなく、酒類の持ち込みは不可。
箱根・姥子温泉のとある日帰り温泉施設のホームページを読んで、そう思った。
療養のための施設であり、一般的な日帰り温泉とは異なるという。
だからこそ、一度行ってみたかった。
岩盤から自然に湧き出す湯に入れる。
古い建物で、昔ながらの湯治の雰囲気も味わえそうだ。
人気があるようで、Google口コミでは高評価がほとんどであるが、低評価もある。
観光客でごった返す箱根で、収容人数の少ないこの場所では、どんな時間を過ごせるのだろう。
先週末、ようやく訪れた。
この施設には、湯床という休むための席を借り、入浴しながら二時間、四時間と過ごす利用方法がある。予約は受け付けていない。
私は十四時ごろの空きを見込んで向かったが、ロープウェイの乗車待ちに一時間ほどかかり、到着は十五時前。
今回は湯床を利用できず、十五時から受け付ける入湯のみの利用となった。
道路から建物は見えない。
看板を頼りに細い道を進むと、古びた建物が現れた。昔の旅館を思わせる佇まいだ。
受付を済ませ、浴場へ向かう。
廊下を歩くたび、ミシミシと音がする。
脱衣場から浴場へ、視界を遮る扉はなかった。
正面には大きな岩盤があり、しめ縄が飾られている。
その岩から、湯がしみ出している。
まるで神社の拝殿のようだ。
私は思わず、二礼二拍手一礼をしてしまった。
施設に求められた作法ではない。岩盤としめ縄を前にして、そうしたくなったのだ。
洗い場もシャワーもない。
かけ湯を繰り返し、四十二度ほどの湯船に身体を沈めた。
石でできた浴槽の湯は、無色透明で、ほとんど匂いがない。
すぐ近くに大涌谷があるが、ここの湯は白く濁ってはいなかった。
私が入っている間、ほかの客は来なかった。
天井の高い浴場には外の光が入る。それでも午後は薄暗い。
目の前には岩盤がある。湯につかっていると、身体から力が抜け、ほどけていく。
はじめは、あれこれ考えていた。
しばらくすると、その考え事が途切れていた。
ただ湯を味わっている。
身体が温まり、汗が出てくる。
湯から上がって腰掛け、しばらく休む。
それから、また入る。
湯の中にいる時間だけでなく、出て休んでいる時間も心地よかった。
二度入浴し、服を着て休憩室へ向かった。
漆喰の壁の部屋に、現代的なデザインの椅子が二脚置かれている。
古い和室を洋間に改めたような空間だ。
建具越しに、小さな水路が見える。
浴場から流れ出た温泉の湯けむりが立っている。
その先には石積みがあり、木々や草、苔が茂っていた。
持参した水を飲み、本を読む。
外を眺める。
人の出入りが少なく、周囲に気を取られることもほとんどなかった。
三十分ほど、そうして過ごした。
入浴と合わせて一時間余り。もう少し、ここにいたいと思った。
もう一度、湯に入りたい。
そして、出て休みたい。
その繰り返しを、もっとゆっくり続けたかった。
湯床を借りて、二時間、いや四時間、できれば終日籠もっていたい。
岩から湧き出す湯が目当てで来た。
実際に過ごしてみると、湯につかり、その余韻のまま休めることにも惹かれていた。
最初にホームページで見た約束事を思い出した。
多人数での利用を断り、静かに過ごすよう求める。
ここが療養のための場所だと、繰り返し伝える。
こうした時間を過ごせる環境を、守ろうとしているのだと感じた。
もちろん、いつ訪れても誰もいないとは限らない。
食事を注文することもできず、大勢で話しながら楽しむ場所でもない。
その過ごし方が自分に合うかどうかは、訪れる前に確かめておきたい。
公式案内では、湯床は全八席。完全な個室ではないが、荷物を置いて休める席がある。
四時間で一人三千二百円。入浴料のほか、浴衣と手拭の貸し出しも含まれている。
別途個室もあるが、数は限られている。
まだ、その過ごし方は体験していない。
けれど、次にしたいことは具体的に浮かんでいる。
弁当と本を持っていく。
湯に入り、浴衣で休む。
畳に寝転がる。
水路の湯けむりを眺め、読みたくなったら本を開く。
そして、また湯へ向かう。
日頃なんとなく疲れていて、自分のための時間をゆっくり取りたい。
そんなとき、湯に入って休むためだけに、休日の数時間を空けてみるのはどうだろう。
この静けさの中で、どんな時間を過ごしたくなるか。それは、実際に身を置いてみないと分からない。
姥子温泉のこの湯治施設が気になったら、まず公式ホームページの「館内ご利用のお約束」を読んでみてほしい。
そこに書かれた過ごし方が、自分の求める時間に合いそうか、確かめてみる。
私も次は、もう少し早く出かけよう。
湯に入って、休んで、また入る。
それだけのための時間を、今度はたっぷり取って。
《終わり》
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