ある女中の独白
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:牡丹(ライティング・ゼミ 1DAY濃縮講座)
奥様は、たいそうお美しい方でございます。
お心もまた清らかで、いつも穏やかに微笑み、他人を悪しざまにおっしゃることなど、ただの一度もございませんでした。
まるで純白の花が、そのまま人の姿をとったかのようなお方でございました。
旦那様も、奥様を白い薔薇とお呼びになりました。
「君を蝕む穢れの蟲は、僕がすべて退けてあげよう」
「まあ、私が白い薔薇?」
奥様はそのたび、初めて聞いた言葉のように目を輝かせます。
世間では、幸福な恋人たちと呼ぶのでございましょう。
ある夕暮れ、広間から何かの砕ける音がいたしました。
駆けつけますと、亡くなられたお祖父様の形見の置時計が、床に散らばっておりました。金色の針が一本、旦那様の靴先に落ちております。
奥様が何より大切になさっていた時計でございます。
旦那様は蒼白なお顔で、うっかり倒してしまったのだと、長々と事情をお話しになりました。お詫びというより、言い訳に聞こえました。
奥様は破片を見下ろし、それから旦那様を見上げられました。
そして、微笑まれたのでございます。
怒りを隠した笑みでも、悲しみを堪えた笑みでもございません。それはそれは晴れやかなお顔でした。
「構わないわ。もうゴミになってしまったのだもの」
「あれほど大切にしていたじゃないか」
「ええ、以前はね。でもあなたが、お祖父様との思い出への執着から私を救ってくださったのよ。これで私は、もっとあなたとの愛に生きられる」
旦那様のお顔が、みるみる歪みました。
奥様がお立ち去りになったあと、私は破片を拾い集めました。背後で旦那様が呟いていらっしゃいます。
「本当に純粋なのか。あれほど大事にしていたものを壊されて、眉一つ動かさないなんて」
私は返事をいたしませんでした。
それから旦那様は、奥様を試すようになりました。
花壇を踏み荒らし、ドレスを裂き、装飾品を叩き壊す。奥様はそのたびお許しになり、あなたさえいれば何も要らないと微笑まれました。
そのたび、旦那様のお顔は絶望に染まってゆきました。
そして、屋敷の猫が死にました。
奥様が我が子のように可愛がっていた猫でございます。いつも奥様の膝で喉を鳴らし、歌が始まると椅子の下へ逃げ込んだ、あの猫。
廊下の隅に横たわる身体は、四肢を不自然に曲げ、口元に白い泡を残しておりました。
旦那様が部屋から出ていらっしゃいました。寝間着の襟は乱れ、頬はこけ、目だけが妙に光っておりました。
「僕が毒を盛ったんだ」
私は奥様のお顔を見ました。
ああ、あれほど可愛がっておいでだった猫。
奥様は少し首を傾げ、それからおっしゃいました。
「人以外に注ぐ愛なんて、所詮、本当の愛ではなかったのね。あなたが教えてくださったのだわ」
そして、お気に入りの恋の歌を口ずさみながら、お部屋へお戻りになりました。
私は猫の亡骸を抱き上げました。もう温かくはございませんでした。
歌声は廊下の果てまで響いてまいります。
振り返ると旦那様は、顔を押し潰すほど強く、両耳を塞いでいらっしゃいました。
翌朝、籠の小鳥が死にました。
三日後には子犬が死にました。
池の鯉も、腹を上にして浮かびました。
奥様はそのたび、愛の深さをお語りになりました。
そして、ある日。
骸骨のようにやつれた旦那様が、血の滴るナイフを握って、奥様の前に立たれました。
「君の母親を殺したよ」
私は息をのみました。
奥様は、にっこりと微笑まれました。
「ああ、親から巣立ってこそ、一人の女としてあなたを愛せるのね。ありがとう」
旦那様は喉が裂けんばかりに叫ばれました。
「心がない! お前には心がない!」
奥様は静かに聞いていらっしゃいました。
やがて旦那様は拳銃を取り出されました。
「お前は空っぽだ。ガラス細工だ。俺が愛したのは、お前に映った俺自身の愛だった!」
奥様は、ただ旦那様を見つめていらっしゃいました。
「これで終わらせぬ。せめて俺の血で、お前を穢してやる!」
銃口が旦那様ご自身に向きました。
私は声を上げようとしました。
銃声が響き、思わず目を閉じました。
目を開けると、旦那様が倒れておいででした。
頭から流れ出た血が、絨毯の模様を少しずつ塗り潰してゆきます。
奥様の白いお召し物にも、赤い飛沫が散っておりました。
奥様はその染みをご覧になりました。
それから、旦那様をご覧になりました。
そして、それきりでございました。
ああ、旦那様。お気の毒な旦那様。
あなたも、あの薔薇を穢すことはかなわなかった。
私は広がる血溜まりを、ただ見つめておりました。
しばらくして、旦那様のご友人がお見えになりました。
訃報を聞いて奥様をお慰めにいらしたのでございます。
「あなたは純粋で清らかな、白い薔薇のような方だ。僕があらゆる穢れから守ってあげよう」
「まあ、白い薔薇。私が白い薔薇?」
奥様は、初めて聞いたようにお喜びになりました。
その晩、夜風に乗って奥様の歌声が聞こえてまいりました。
それは、古い異国の恋の歌でございます。
ひと節が終われば、また初めのひと節へ。奥様は同じ旋律を、何度でも、初めて歌うように嬉しそうに口ずさまれるのでした。
私は窓から薔薇園を見下ろしました。
薔薇は咲きます。清らかに、美しく。
その根元には、土に還った蟲の骸があるのでございましょう。
蟲は薔薇の香りに誘われ、群がり、朽ち、やがて花を肥やす。
そしてまた、新しい蟲がやって来る。
ああ、繰り返すのでございますね。何度でも。
ガシャン。
遠くで、何かが砕ける音がいたしました。
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