ゼミ

金曜19時半、600円で出会う銀座の人情


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:じゃくりん(26年9月ライティングゼミwithAI)

 

「ここは初めて? 頭、洗うよね」

そう声をかけられたのは、10月はじめの金曜日。夜7時半を少し回ったころだった。

声の主は、少し離れた場所で体を洗っていた女性だ。白髪で、くるくるとしたくせ毛のショートカット。中肉中背の、初老のおばさま。たぶん、常連さんだと思う。私がまごついているのが、背中越しにも分かったのだろう。

「私もう出るから、場所を交代しましょう。そこに座って待ってて」

 

その日の朝のことを、少し話しておきたい。

なんとなく体が重い朝だった。一週間の疲れが、まとめて肩に乗っているような金曜日。

会社へ向かう足取りも、いつもより重かった。

 

銭湯に通い始めたのは、この9月からだ。始まりは、毎日の通り道にある表参道の清水湯。都会のまんなかに、銭湯がある。それが気になって、入ってみた。

コンパクトながら湯船が4種類あり、サウナもある。閉店の23時近くでも、幅広い年代の人でいっぱいだ。意外なほどの勢いに、初めは少し緊張した。

 

何度か通ううちに、ほかの銭湯ものぞいてみたくなった。銀座湯は、その日が初めて。

中に入ると、少し高めの台に、昔ながらの番頭さんのような方が座っている。今どきではない、その姿に、ホッとした。

脱衣所はこぢんまりしているが、お風呂エリアは広々としていて、銭湯のイメージそのもの。壁には、清水湯にはないタイル絵。女湯の絵は、隅田川の花火。黒いタイルを背景に、オレンジやピンクの花火が鮮やかに広がる。その一瞬をずっと眺めながら、過ごすことができる。富士山を見たときと同じように、心が弾んだ。先客は、旅行中らしい若い二人と、常連さんらしい女性が一人。

 

洗い場で、私はさっそく立ち止まった。清水湯なら、どの席にもシャワーがあり、温度も自分で決められる。ここは違った。蛇口は、押している間だけお湯や水が出る形。よく見ると、シャワーが付いている席は限られている。どこに座ろうか。広すぎて迷った。

そこへ、あの声だった。

 

席を譲ってもらってから、気がついた。あの人は、シャワーのある席を空けてくれたのだ。番頭さんの掃除の手間が増えないように、頭を洗う場所を一か所にまとめるよう促してくれた。

少し待っていると、また声がかかった。

「椅子と桶を、その白いボトルで洗いましょう」

白いボトルの中身は、ボディーシャンプーだった。

「いろんな人が使ってるから、洗ったほうがいいと思って」

言ってみた、という口ぶりだった。押しつけるでもなく、黙って見ているでもない。

ちょうどいい距離で、教えてくれた。

 

交代してもらった席に座る。

温度設定のない湯は、どれくらい熱いのか。

ドキドキしながら赤色のボタンを押して、恐る恐る手を浸してみた。

あれ、熱くない。逆にほどよい熱さだ。

てっきり熱いお湯を水で調節するものと思い込んでいた。

客が温度を選べないぶん、お店のほうで先に整えておく。その心配りに感心した。

お湯をかけ、頭を洗っていると、もう一度声がした。

「一人になっちゃうけど、また誰か来るからね。お風呂、出たり入ったりすればいいよ」

わざわざ、自分が出ていくことを伝えに来てくれたのだと思う。

 

気がつくと、銭湯は私ひとりになっていた。大きな湯船に、体を沈める。誰もいない。私と、お湯だけ。

天井から、ぽたり、と水が落ちる音がする。

湯船の底からは、泡がボコボコと湧き上がってくる。手足が、自然に伸びていた。体がほどけていくのと一緒に、心まで銭湯のすみずみへ広がっていく。

「は〜」

声が、勝手にもれた。

あとは、まわりの音に耳を澄ませるだけ。何も考えない時間だった。

芯から、ゆっくりできた。

 

湯上がりに、ドライヤーを使おうとして手が止まった。現金が要る。あいにく、持ち合わせがない。髪はタオルで拭くだけにして、銀座の街へ出た。

本当は、少し寄り道をするつもりだった。ところが、歩くうちに眠気がやってきた。そのまま家に帰って、すぐに寝た。

翌朝は、自然に目が覚めた。心も体も軽い。朝の日差しが、清々しかった。

前の日の朝、あんなに重かった気持ちが、すっかり軽くなっていた。

 

入浴料は、600円。

お湯なら、家の風呂でも沸かせる。けれど、知らない人がくれる優しさと、「また誰か来るからね」のひと言は、銭湯でしか出会えない。

あの金曜の夜、私を一番温めてくれたのは、お湯ではなかった。名前も知らない、常連さんのひと言だった。

 

次はどこの暖簾をくぐろうか。今から少し楽しみにしている。

もし今週、なんとなく体が重い金曜日が来たら。会社帰りに少しだけ寄り道をして、近くの銭湯に入ってみてほしい。戸惑っても、大丈夫。きっと誰かが、そっと教えてくれる。

≪終わり≫

 

 

 

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