もう行けない品川の頂
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:曽我真(26 年 9 月ライティングゼミ with AI)
「おとなりは、空いているのかしら」
背後から声をかけられて振り向くと、椎名林檎似の女性が微笑を浮かべていた。
ショートボブにスレンダー体型。
くびれた腰の辺りで合わされた両の手に、小さなポーチを持っていた。
私はその日、品川プリンスホテルの39階のバーにいた。
数日前に、学生時代から七年以上付き合っていた彼女と別れたばかり。
やさぐれていた私は、仕事終わりすぐに一人暮らしの部屋へ戻りたくなかった。
どこかで鬱屈した気分を発散してから帰宅したい。
私が高揚する場所は、単純に高層ビルの最上階。
東京中の夜景を見下ろせるバーといえば、ここ。
特に羽田に離発着する夜行便を、際限なく眺めることのできる南側がお気に入りだ。
「どうぞ」
と隣の席に手のひらを差し伸べる。なぜか緊張もせず、さらりと応えることができた。
すっと腰を下ろした彼女は、最初からテンションが高かった。
「それで、お兄さんはどんなお仕事をしているの」
そう尋ねながら、おしぼりを持って近づいてきたバーテンダーにも声をかける。
「えっと、スプモーニで。アルコール強めにお願い」
私は、相手が矢継ぎ早に話しだすとテンションが下がってしまうタイプだ。
「都内の法律事務所で裏方やってる」
答えをはぐらかしながら横目で観察する。座っている姿勢はいい。背骨がしゃきっと立っていた。
「そっか。でもそんなお堅い職業の人には見えないかも」
何気ない言葉にも観察の跡がある。私は当時、法律事務所での経理担当という自分の職業に対して違和感を持っていた。
情熱が持てない。使命感もない。おまけに彼女にも振られたばかり。
公私ともに自信を無くしたサラリーマンには、耳の痛い指摘だった。
「だよね。ここんところ上手くいかないことが多くて。飛行機でも観よっかなって」
「あ、ここから? よく見えるよね。きたきた」
他愛もない話を続けながら、いちじくのドライフルーツを勧めてみる。
彼女は小皿に触るだけで手を付けない。
「私はね、小児科医。明日慶応大出身者が集まる会合があって……」
「へぇ。お医者さんなんだ」と応えるあたりから、ウィスキーのアルコールがひときわ頭に効いてきた。
私は性根が下衆く出来ている。社会的なステータス、といった記号に弱い。
有能そうな横顔。難関医大卒の女医さん。
同年代の話題を快活によくしゃべるから、こちらは聞き役に徹せられる。
今夜はアルコールをがんがん入れて、美女といっしょに夜間飛行の機体を眺めていれば気分最高や。あわよくば……そんな心持ちで一時間も話を聞いていたら、彼女も酔いが回ってきたのだろう。
「カンファレンス明日だから、ここで一泊するんだけど。部屋で飲み直さない?」
とワントーン落とした声でささやかれた。
「いいよ。部屋行って、飲み直そっか」
お返しの台詞も、なぜか無理なく口から滑り出す。
会計を済ませ、エレベータに無言のまま乗り込む。
隣に居ても目を合わせないのは、お互い下心のせいだろう。
彼女が押した⑦の階で降りて、ホールにでる。
長い廊下を歩いていると、ふとした不安に襲われた。
『シャイニング』という映画をご存じだろうか。
作家志望の主人公ジャックは、山奥のホテルに家族で長期滞在している。
オフシーズン中は雪で孤立する場所なので、冬期の管理人が必要なのだ。
必要な仕事道具はタイプライターだけだし、静かな環境で執筆ができる。家族にも息抜きをさせられる。
好条件が揃ったバイトだったが、次第に異変が起きてジャック自身が狂っていく、という物語だ。
左右シンメトリーな廊下に息子のダニーが登場して、小さなカートで遊び回るシーンが印象的だ。
カートがゴロゴロと進んでいく。
(シャイニングの廊下を歩いとるみたいやな……)
ここまで、都合良くいきすぎている。
傷心で一人佇んでいたら、女性から声をかけられたこと。
好みの体型。綺麗な鎖骨周り。
医者というステータスのある職業。
既に予約済みの部屋があること。
お膳立てが整いすぎているのだ。
私は、少し心を落ち着かせようと考えた。
鍵を回し、部屋に入ると彼女は靴を放り出す。ベッドに寝そべって「ん、酔ったかも」なんてつぶやいている。
私は部屋の照明を目一杯明るくして、ポットでお湯を沸かすことにした。
コトをいたす前にお茶ぐらい準備して、心の余裕を見せたかった。
部屋には小さな丸テーブルがあり、ソファの椅子が向かい合わせで配置してある。
そこに座り、ティーバッグのお茶を淹れ、湯飲みを用意して「ちょっと話そうよ」と声をかける。
ベッドから起きた彼女は私の正面に座る。
すぐにでもベッドインしたそうな雰囲気を醸し出しながらも、湯飲みを手に取り「ありがとう。美味しいね」と話しかけてきた。
このときである。
私の顔に何かが当たった。
アルミホイルを軽く握ってボール状にしたようなものが、顔に向かって投げつけられたような気がした。
「このタイミングでお茶って」
としゃべり出す相手から、また空気の固まりが投げつけられる。
異臭もした。
私は、その原因を探ろうと彼女を見据えた。
判明した。
正面から見て分かった。
口の中の上下ほとんどの歯が、黒く欠けていた。ほぼ虫歯だったのだ。
バーにいたときは横並びで窓ガラスに向かって話していたから、分からなかった。
口臭とか言うレベルではない。物理的に変な空気が顔にぶつかる感じだ。
(これはまずいぞ)心の底でそう呻くと同時に、頭がフル回転し始める。
この口で医者は嘘や。キスもできん。まして最後までとか無理……待てよ……バックならいけるのか。いや、終わった後のピロートークが出来んやろ。退散か。修羅場は避けたい。優しく撤退、これしかない。
そう判断したら、素早く行動に移す。おもむろに立ち上がり、丸テーブルの向こうに近づく。
キスを期待した彼女は顎を向けるが、顔を通りすぎて、自分の口を彼女の耳元に付ける。
「立って」
そうささやいてからお姫様抱っこする。やさしくベッドに運んでシーツを剥ぎ取り、そっと真ん中に置く。
シーツを上にかけ直し、照明のスイッチを一番暗くする。耳元で、今日一番の甘い声を振り絞る。
「今日はもうお休み」
そう言い残し、ドアへ移動し廊下にでる。音を出さないようゆっくりと閉める。
エレベータまで30メートルはあっただろうか。
窓と廊下と各部屋のドア。左右シンメトリーな空間には、人っ子一人いなかった。
10分前感じていた映画のイメージに間違いはなかった。
シャイニングのあの廊下だ。平静を装いながらも、早歩きになる。
ホールに到着しても⑦階にはエレベータはいない。
『下』ボタンを連打する。まだ来ない。また連打する。
廊下の遠くで、ドアの「ガチャ」と開けられた音が響いた。
焦った私は、さらに『下』ボタンを何度も押し込む。
ようやく到着したエレベータに滑り込む。
ドアが閉まり下降する。①階のドアが開く。
何事もなかったかのように表情を整える。外に出たら品川駅へ一目散だ。
途中振り向くと、夜空を背景に黒々とそびえ立つ建物が見えた。
シャイニングの主人公、ジャックの滞在先の名前は確か、オーバールック・ホテル。
私はこの恐怖体験以来、品川プリンスに寄りつかなくなった。
39階のバーの名は「Top of Shinagawa」。
離発着する飛行機を一望……オーバールックすることのできた、品川の頂だ。
ここは2017年に営業を終え、全面改修が入り、名前が変わった。
このバーへはもう、行くことができない。
≪終わり≫
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