両親の死と乳がんと《週刊READING LIFE Vol.26「TURNING POINT〜人生の転機〜」》
記事:安光伸江(READING LIFE編集部公認ライター)
「おい、バスカード貸せ~や」
2016年5月末の土曜日、父はいつになく上機嫌だった。
定年まで勤め上げた会社の、課のOB会があるという。高卒で大企業に入り、学歴がないことで苦労した父が、最後に課長をしていたところだ。その仲間が昼から集まって、おいしいお酒を飲むらしい。無類の酒好きの父のことだ。わくわく感があふれていた。
「帽子をかぶるんとかぶらんのと、どっちがええかの」
にこにこして帽子をかぶったりとったりして見せる。父は若い頃から髪が薄く、というかはっきりいってハゲなので、買い物に行く時などは必ず帽子をかぶっていた。ところがなぜかこのところ髪が増えている。なにかしたんだろうか? 帽子がなくても、まぁ見苦しくはない程度に生えている。
「そんなんどっちでもええやないの、はよ行っといで!」
いつもなにか変なことをして喧嘩ばかりしていた父を、ちょっと邪険に扱ってしまった。そして私は母がほぼ寝たきりになっている部屋にいた。
「行ってくるど」
玄関で父の声がした。一瞬、「これで最後になったらいやだな」と変な気持ちになったのをはっきり覚えている。まぁそんなこともないよね、とすぐ打ち消したけど。
さて父は午後から買い出しに行く予定だったのに、3時くらいになっても帰ってこない。遅いなぁ。じゃぁ私が先に鮭の切り身(朝食の定番メニュー、というか私は鮭を焼くのと卵焼きしか作れない)を買ってきましょうか、とゆめシティに出かけた。かば田という専門店で切り立ての鮭の切り身を数枚買ってくるのが私流だ。そしてかば田の袋をぶらさげて家の門のところまで来ると、ケータイが鳴った。知らない番号だ。
「安光……伸江さんの携帯ですか?」
父の会社の部下だった人らしい。なんでも父が飲み会のあとで階段で転び、意識は最初あったものの、救急車で病院に運ばれたという。病院まではバスで一本ではあるけどだいぶ遠いので、私は行けない、といって兄と叔父にまかせることになった。
家に入ると、母のところにも電話があったらしく、パニックを起こしていた。まだその時は私は父が死んじゃうなんて思いもしなくて、頭を打ったんだったら2階で寝るのはもう無理かなぁ、どこに寝かせようかなぁ、なんてのんきなことを考えていた。
県内の遠くから兄が帰ってきた。病院から持って帰った父の服と靴をぶら下げていた。兄は医療関係者なので、主治医の先生と話をして、延命治療はしないと決めたらしい。母と話しているのは、葬儀はどうするか、というような話だった。
ちょっと待って
お父さん、死ぬの? 帰ってくるんじゃないの? さっき意識あるって言ってたのに。
うつ病持ちの私は事態がちゃんと受け止められなかった。まだお薬もがんがん飲んでいた頃だ。翌日は父の弟妹が病院に集まってお別れをしたらしいんだけど、私は生きて帰ってくるものと思っていたしとにかく受け止められなくて病院に行けなかった。
そしてその翌朝
夜中に心臓が止まった、という連絡を受けた。遺体はもう葬儀場に運ばれているということだった。
うつ病持ちの私は人前だとパニックを起こすといけないから葬儀には出たくないと兄に言った。母も寝たきりで車椅子を借りたりいろいろしないといけないから、人前に出るとみんなに迷惑をかけるのがいやだといって葬儀に出ないと言った。そんなこんなで兄が喪主になり、叔父や従姉といろいろ相談して葬儀の手配をしていた。
私と母はとにかくパニック状態だった。
それでも母は枕経に連れていってもらい、私は納棺の儀に出た。お通夜は母に食べさせないといけない大事な用事があるのでご無礼した。
そして葬儀の日、親戚が迎えに来てくれて、母も私も出られることになった。ちょこんと車椅子に座っている母は、ことさらに小さく見えた。私は精神安定剤をこまめに飲んで、パニックを起こしている様子を見せないようにふるまっていた。
葬儀が終わり
荼毘に付して
お骨を拾い
家に、お骨になった父が、帰ってきた。
かぶって行こうかどうしようか、と迷っていた帽子は、ピアノの上に置いてあった。
それ以来、母に食事をさせるのが私の使命になった。
父の生前は、食事の準備をするのはするけど、私だけ先に食べて、あとで両親が二人で食べるのが常だった。なんとなくテーブルに二人までしか座れない感じだったから。
だけど父が亡くなってからは私と母と二人で食べるようになった。
母はさみしがり屋の甘えん坊なので、私がいないと決して食べない。スタバでお茶をしていても、母に食べさせるためにお昼にはちゃっちゃと帰らないといけない。束縛でもあったけど、責任感のようなものも芽生えてきた。
父の葬儀の時、精神安定剤でドーピングしながらも、なんとか人前でいい子にしていられたのも自信になった。そして母を食べさせる責任。少しずつ、少しずつ、社会参加しているような感じになってきた。
いろいろな手続きは忌引の休暇をとったのか? 兄がだいぶやってくれたのだけど、なんだかんだいって同居の娘である私もいろいろ手続きにいかないといけなくなった。うつ病患者にこんな作業をやらせるなんて無茶だよ、と思ったけれども、なんとかやりとげた。土地家屋の相続は、叔父曰く「もういっぺんあるからの」ということで、なんとなく先延ばしにしちゃった。「義姉さんあと10年は生きんど」というのだ。兄には家があるから、まずは母が継いで、その後私が家を相続するのはなんとなく暗黙の了解だったけど、とりあえずこのときはなにも手続きをしなかった。遺産も相続税がかからない絶妙な金額だった。
それ以来母と二人暮らしをがんばっていた、のだが
親戚がなんとなくうちに出入りするようになり、ある日従姉に胸の異変を相談したら、次の日にすぐ病院につれていかれた。乳がんだった。だいぶ進行しているけれど、手術ができるギリギリのところだという。といっても母を家で一人にしておくわけにはいかない。なので病院側でもいろいろ手続きをしてくれて、レスパイト入院というのか、介護する人が介護できない状況の時に入院という形で預かってくれる、という制度を利用することになった。介護認定も併行して行われた。
母を預けておいて、私は乳がんの全摘手術を受けた。母はいないけど従姉や叔父・叔母が立ち会ってくれて、入院中もいろいろケアしてもらった。お見舞いの人もたくさん来てくれた。
その頃からか、うつ病がよくなっていることに気がついた!
SSRIという抗うつ剤は勝手に減らしたらいけないからコンスタントに飲んでいたけど、頓服の精神安定剤を飲む頻度が明らかに減ってきたのだ!
いろんな人とふれあい、手厚くケアしてもらったり、責任持って母の面倒をみたりすることが、うつ病にもいい影響を与えるとは、自分でもびっくりした!
そんなわけでうつ病はだいぶよくなり、下手くそながら母の世話もがんばった。下の世話はしない、風呂には自分で入れ、食堂に自分で食べに来い、という条件だからたいした世話ではなかったけど、それでも毎食母と食べないといけないというのは案外プレッシャーではあった。介護認定もされて母のところに訪問介護の人も来てくれるようになり、外界との接点もあったから、精神的にもあまり追い詰められなくなった。
ところが訪問介護が入って1年ほどたった頃から、母の具合が悪くなった。食べたものを吐いてしまう。粗相をすることも増えた。風呂にも自分で入れなくなり、訪問介護の看護師さんに入れていただくようになった。
どんどん弱っていく母。私にできることは、朝の卵焼きを作ることと夕食の惣菜を買ってくることだけで、刻み食とかおかゆとか作ってあげられなかったから、それで吐くのかなと心配もした。粗相をするのにパニックも起こした。介護うつ寸前だった。いや、うつがぶり返していたかもしれない。つらくてつらくて、何度も病院に相談に行った。
そして母をショートステイに入れて私は少し休みなさいということになり、ショートステイ先で刻み食を食べさせてもやはり吐くし、帰る日の前に血便がみつかった。医療の方に回した方がいいということで、ショートステイから家に連れて帰ったその足で、叔父の車で病院に入院させた。私はもうどうにもならない状態だった。兄も「家での介護はもう無理じゃないか」という意見だった。どこか施設に入れるかな、なんて話も出ていた。
が、病院でも吐くので検査をしたら、肝臓に腫瘍がみつかった。大病院で検査をしたらがんということだった。あちこち転移していて、積極的治療をするよりこのまま穏やかに逝かせた方がいいという話だった。
その頃の話はライティングゼミで事細かに原稿に書いたので、思い出すのもつらいのだけれども
父の死後、母と密な時間を持つことによってだいぶよくなっていたうつ病が、一時期悪くなりかけた。看護師さんが気を利かせてくれて、私のために訪問看護が来てくれることになり、いろんないろんな話を聞いてもらった。
そして年があけてすぐ、母は緩和ケア病棟のある病院に転院し、そこで8日後に死んだ。
父の死は突然だったが、母の死は受け止めるために時間があった。その分「ママが死んじゃう」という恐怖を長い時間味わったわけだけど。
母の死後、相続などの手続きはわりとすんなりできた。兄ともうまく話し合いがつき、あまりもめることもなく、今度は土地家屋の相続手続きもちゃんとした。兄になにがしかの遺産を渡したけど、働けない状態の私のために、大半は私名義になった。
家となにがしかのお金を受け継いだあと「この家は私が守る」という責任感のようなものが芽生えてきた。両親が私のために残してくれた家。相続税はかからない額でしかないけど、治療に専念してもしばらくは暮らせる程度のまとまったお金も残してくれた。無駄遣い、しちゃいけん。だけど母が死ぬ前「なんでもおねぇちゃんの好きなようにしていいのよ」と言っていたように、私の裁量ですべて使えるようになり、いろんな自己投資もした。
その間にも、乳がんの方の主治医や、精神科の主治医、そして訪問看護の人、外来の看護師さんなど多くの人の世話になった。がんになったり肉親が死んだりすると、それだけで精神的に落ち込む人も多い中、私の場合は以前から精神科にかかっていたおかげで、手厚いケアを受けることができた。そのおかげで今はけっこう明るく暮らしていて、がん患者であることを忘れていることすらある。
ということは私の転機は両親の死だったのだろうか。あるいは、長年暮らした東京から実家に帰ってきたこと、それ自体が最初の転機だったかもしれない。実家に帰って長いこと引きこもっていたけれど、父が車をやめ、自分で外に出るようになり、買い物に出るようになり、そして父と母が相次いで亡くなったことで、この家を守って強く生きていこう! という決意のようなものができたから。
父の生前はよく喧嘩をしていたけれど、今は感謝の念しかない。お父さんがこの家を建ててくれたから、私がいま雨風をしのいで生きていられる。母も、死ぬ直前、最後の最後まで、私を愛してくれた。
両親との別れ、そして乳がんになったことが、私にとっての人生の転機だったんじゃないかな、と思っている。ひとりになっちゃったけど、これからは両親への感謝の念を持ちつつ、うつ病や乳がんともうまくつきあって、それなりに元気に過ごせたらいいな、と思っている。
がんばるぞ。
❏ライタープロフィール
安光 伸江(READING LIFE公認ライター)
山口県下関市出身・在住。下関西高、東京大学卒業、東京藝術大学大学院修了。
大学卒業後は東京で声楽・器楽の伴奏ピアニストや音大非常勤講師などの音楽活動をしていたが、2008年9月に病気療養のため実家に帰る。その後2016・2018年と両親を看取る。2016年乳がんの全摘手術と抗がん剤を体験した乳がんサバイバーでもある。ライター、セラピストの卵、ブロガー、素人投資家。
天狼院メディアグランプリ 21st season 総合優勝。週間1位複数回。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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