週刊READING LIFE Vol.26

絶対反対を心に決めた時《週刊READING LIFE Vol.26「TURNING POINT〜人生の転機〜」》


記事:山田THX将治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

2年前、憲法改定に関する講演会とその後のオフ会に出席した時のこと。にわかに、改憲論議が出始めた頃だ。近くに着席していた、学生らしき若者と会話した。
「山田さんは、改憲に反対なのですか?」
私は、少々驚いて反応した。何故なら、私が若かった時代の若者は皆、護憲派だったからだ。現代から見ると、やや左派的に見えたことだろう。
私は、その若者が、少々強硬派に見えたことに、驚きを隠せなかったのだ。
「では、日本が攻めてこられたら、君は志願でもするのかい?」
「はい。日本も戦える国になった方が良いと思います。そうしたら、この前の災害の時等でも、もっと支援が出来ると思うのです」
私が若かった時に比べて、実に立派な考えの持ち主だった。
その日はちょうど、東日本大震災が起こった3月11日だった。
 
昭和の時代に東京の下町で育った者としては、昭和20年のその前日、3月10日に未明にあった“東京大空襲”の影が最近、薄くなってしまった様な気がして、少々心残りだ。
私が、以前住んでいた東京都江東区を中心に、10万人もの方々がたった一晩で亡くなり、100万人規模の被災者が出たのだから。
もう74年も前のことだし、私の親世代が被災した最年少であることから、風化というか、歴史の一部になってしまうのは仕方が無いことなのかも知れない。
でも、その悲惨さを実体験として受けた当事者から聞いた世代としては、少々忸怩(じくじ)たる思いとなってしまうのだ。
 
私が小学生の頃、3学期も終盤になる3月10日には、必ず全校で空襲から逃げ惑った方のお話を聞いたものだ。
今でも、鮮明に覚えている、ある女性の体験談がある。
 
その女性は、学校の近くの商店街でその当時、履物屋さんを営んでいる方だった。私の両親よりほんの少し年長だった筈なので、昭和5~6年の御生まれだったと記憶している。私達がお話を聞いた当時は、40歳に至っておられなかった筈だ。小学校時代、同じ商店街に住んでいた私は、その女性と顔見知りだったので、竹田さんという方で地元の生まれ育った方だと認識をしていた。
普段からしょっちゅうお会いしている方に、そんな過去があったなど、お話を伺うまで知る由もなかった。
 
“東京大空襲”があった昭和20年(1945年)当時、竹田さんは女学生(今でいう、中学生)だった。切迫した戦況で、そんな年端も行かない女学生でも、勤労動員として借り出されたそうだ。
14・15歳の竹田さんは、2㎞程離れた所にある『墨東病院』で、代用看護婦として学校で勉強する代わりに働いていたらしい。それ程までに、当時の人員は不足していたのだった。
墨東病院は、当時から大きな総合病院で、現在でも同じ場所に在る。私も含めて多くの地元民は、そこで生まれた位、下町では有名な病院だ。今では、都内に数軒ある『東京ER』として知られている都立病院だ。
 
女学生だった竹田さんは、そこで主に障碍(がい)者の世話をする係を言い付けられていた。幼い竹田さんには、相当な重労働だったことが想像される。
でも、病院での動員は、食事の心配をしなくて済むので、人気の職種だったとも仰っていた。病院には、食糧が不足していた時でも、備蓄が有ったことの証明だ。
 
昭和20年3月9日、竹田さんは、その夜の当直当番だったので、夕方に家を出て午後5時過ぎに墨東病院に入った。
障碍をお持ちの患者さん達の、夕食と就寝の世話をし、自分も夜11時には仮眠に入っていた。ウトウトし始めた時、けたたましい『空襲警報』に起こされた。それまでにも何度か空襲警報を聞いたことは有ったが、子供にもわかる切迫感が大人達から感じられたらしい。
何処へ逃げたらいいのか迷っていると、持ち場の班長をしている大人の女性から、障碍者数人を連れて逃げる様に命令された。
「障碍者は防空壕にも入れてもらえないんだ」
毎日世話をしている患者さん達が可哀そうで、竹田さんは泣きたくなったそうだ。しかし、悲しんでいる余裕は無かった。遠くで爆発音が聞こえ始め、少しづつ近付いているからだった。
 
竹田さんは、持参した防空頭巾を被り、風呂敷に近くに在った薬と包帯・綿布、そして水筒を包み袈裟に掛けた。今でいう、ショルダーバックにしたのだ。誰を連れて行こうかと思ったが、竹田さん自身もまだ幼かったので、そう多くは連れて行けなかった。
脚が悪くて歩けない4歳のアキラ君に防空頭巾を被せ背負った。
いつも優しくしてくれていた、認知症のお年寄り、ヒデさんを見付けたので手を掴んだ。そして、知的障碍が有る同い年位の少年、カズト君が「僕も連れてって」とせがんで来た。
もうこれ以上は無理だと考えた竹田さんは、アキラ君を背負い、右手でカズト君、左手にヒデさんを連れて、病院の外へ飛び出した。
 
火の手はもう既に、直ぐ近くにまで迫っていた。墨東病院を出ると30m程で、京葉道路に出ることが出来る。関東大震災後に敷かれた京葉道路は、当時から70mもの道幅が有り、防火帯の役目をしていた。何か有ったら京葉道路へ逃げる様にと、竹田さんは病院の大人達に言い聞かされていた。
逃げる人波に押され、幼い竹田さんは、三人の障碍者を連れ千葉方向に逃げようと思い、病院の横を流れる川に掛かった橋を渡った。川を渡れば少しは安全かと思い、少しでも川から離れようと急ごうとしたが、4人連れではどうにも思う様には進めなかった。
300m程、東に進んだ時、一行の直ぐ脇、京葉道路の真ん中に焼夷弾が落ちた。
「逃げろー!」
誰かの声に即されて、竹田さんは急いだ。しかし、中学生とはいえ子供一人を背負った上、足元がおぼつかなくなった老婆と、身体は元気だが上空を飛んでいるであろう米軍の飛行機に興味を示してしまう少年を連れてでは、小走りになるのがせいぜいだった。
直ぐ先に、京葉道路に掛かる貨物線鉄橋(現在でも現役)の下に身を隠した。背負ったアキラ君が怖がるので、身体の前に抱きかかえ身を伏せる様にしていた。
 
「こんな所じゃ危ない!」
そぐ側を走って来た大人の男性が、竹田さんを立たせようとした。でも、アキラ君が泣くので、立つことが出来なかった。
「でも本当は、火の中を走って逃げるのが怖くて、立てなかったのです」
小学生を前に、40歳位になった竹田さんは、懺悔するように静かに話した。
 
気が付くと、病院から一緒に連れ出したヒデさんが、周りの人達に紛れて竹田さん達を残し先へ行ってしまった。
「ヒデさん、待って!」
そう叫んだ竹田さんだったが、周りの轟音にかき消されて、声が届かなかった。
竹田さんは、100m程先で数十人の集団の頭上に焼夷弾が落ちるのを見てしまった。
轟音の中で、微かに悲鳴が上がったが、ヒデさんを連れ戻す手立てを、竹田さんが持ち合わせている筈もなかった。悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。
「ヒデさん、ごめん。私が連れ出さなかったら……」
竹田さんは悔やんだが、どうすることも出来なかった。
 
何時間が経ったのだろう。
うずくまっていた三人は、遠くの『警報解除』を微かに聞いた。でも、周りはまだ燃えさかっていた。
「おみずちょうだい」
胸に抱えていたアキラ君が、小さく声を上げた。怪我も火傷もせず安堵した竹田さんは、アキラ君の頭巾を取り、持参した水筒をアキラ君に手渡した。
アキラ君が水筒に口を付け様とした時、今度は東(千葉方面)から来た男が、アキラ君から水筒を奪って走り去った。
「なんてひどい!」
と、竹田さん思った。
 
「いざとなったら、誰も信用出来ない。人間は、命が掛かると『鬼』になる」
小学生の僕等に、どんなに困っても人の道を踏み外すなと、竹田さんは言葉を強くして訴えてくれた。
 
水筒を奪われたアキラ君は、再び泣き叫んだ。竹田さんは、何とかなだめ様とした。すると、隣に座って居たカズト君が、背負って来たリュックを下ろし、中から水筒を出してこう言った。
「これ、あげる」
優しいカズト君は、躊躇いもなく自分の水筒をアキラ君に渡してくれた。安心したアキラ君は、不自由な脚で何とかカズト君の後ろに回り込み隠れると、安心して水を飲むことが出来た。
「水筒を持って来てくれたんだ。有り難う、カズト君」
竹田さんが礼を言うと
「まだ、あるよ」
と、カズト君は自慢気にリュックの中身を竹田さんに見せた。
中には、水筒がもう一つと、握り飯二つ分ぐらいの“干し飯”(ご飯を干して保存用にしたもの)、そして缶詰めが一つ入っていた。
「ヒデさんがくれた。おおきくなるように、あんたがたべろって」
知的障碍が有るカズト君には理解出来なかったかもしれないが、竹田さんには、将来のある若者に自分の食料をくれたヒデさんの優しさが、痛いほどわかったそうだ。
「有難う。もう少し、明るく成ったら食べようね」
竹田さんは、カズト君にリュックを返しながら、礼を言い、
「でも、缶切りが無いと開けられないね」と言った。
カズト君とアキラ君に、わずかな笑顔が戻った。
それから三人は、身を寄せる様に固まった。三月の朝は、まだ寒かった。
 
その缶詰めはカズト君が、拾って来た金属片で開けてくれた。中身は、豆の煮物だった。空腹だったので、竹田さんはとても美味しく感じたそうだ。
 
二日後、三人は、探しに来た病院の職員に見付けられ、焼け残った墨東病院に戻ることが出来た。
「よく生きてたねぇ」
医者にも誉められた。
 
「どんな時でも、水と食料は大切よ」
幼い僕等に、竹田さんは教えてくれた。戦争の悲惨さと共に。
 
私が、絶対に反戦派になろうと決めた時だ。私は、竹田さんに戦争は絶対悪だと教えられたからだ。
 
世の人は全て、反戦派だとは思う。好んで戦争をしようなんて考える者は、この世にはいないと思うからだ。しかし、実体験者の『生の声』は語り続けないと、いつしか風化してしまうものだ。
2年前の講演会で出会った若者にも、竹田さんの様に実際に戦争を体験した方の、貴重な体験を話しておかねばならない。立ち話で出会ったばかりの若者に、竹田さんの話を全て伝える時間は無い。
そこで私は、こう若者に告げた。
「私は、昭和中期に東京で生まれ育ったので、戦災や大きな自然災害とは無縁で生きてこられた実に幸運な世代の者だ。もし徴兵制が敷かれたとしても、既に兵隊に取られる齢でもない。そんな者が、君たち若者を戦争に向かわせる可能性が生じることに、加担する訳にはいかない。よって、私は護憲派だ」
そして
「先に言っておくが、もし、日本が攻めてこられて、君たち若者が守ってくれなかったとしても、あまんじて受け入れる覚悟は出来ている。戦争とは無縁だった者が、君たち若者に戦争へ行けとは言えない」
と付け加えた。さらに、こう言った。
「戦争は、尋常ではいられなくなると先輩から聞いてきた。尋常ではないのは、兵士になった者が、合法的殺人が可能になるからだ。私は君に、そんな権利を与えたくはない。そして君が、合法的殺人の標的になるのは、とても耐えられない」
 
知り合ったばかりの若者は、私に礼を述べながら握手を求めてきた。
私は、ためらいも無く応じた。私の伝えたいことが、この若者は理解してくれたからだろう。私は、安堵の気持ちになった。
 
振り返ってみた若者の顔は、少しだけ凛々しく見えた。

 
 

❏ライタープロフィール
山田THX将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
READING LIFE 公認ライター
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり

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2019-04-01 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.26

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