週刊READING LIFE vol.92

いつか、振り返る時間のために。《週刊 READING LIFE Vol,92 もっと、遠くへ》


記事:竹下 優(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「沖に出よう」
そう切り出したのは、確かに私の方だった。
 
結婚から3年。
夫婦生活とは、手漕ぎボートで航海に出るようなものだ、と感じている。
日照りや嵐、大波といった困難はいつも突然やって来て
大した装備を持ち合わせていない我々は、その都度、右往左往してばかりいる。
 
そのうえ、“穏やかな日常”という、凪いだ海を前にしても
2人均等に、同じ力で漕がなければ真っ直ぐには進めない。
片方ばかりが頑張っても、ボートの進路は曲がってしまう。
なんとまぁ、面倒で労力のかかることか。
 
入籍を機に、ひとまず海に出てからというもの
この“均等な力”、すなわち“お互いにとって無理のない距離感を把握する”ことを最優先課題としてきた。
とはいえ、私たちはお互い別々の家に暮らしており
顔を合わせるのは月に2-3日程度。
残る時間は全て自分の自由に使えることから、
お互いを思いやり、ボートを進めていくことについて
おそらくは一般的な“夫婦”よりも、はるかに簡単なのだろうと推測する。
 
独身時代と大差ない、穏やかな生活。
そんな、出発地点の砂浜が見える範囲で
のんびりと、たゆたうようにボートを漕いでいた夫婦生活にも
小さな波風が立ち始めたのは、年が明けた頃だった。
 
「このまま続けていても、何も変わらないんじゃないかな。
もう、いっそ病院に行く方が良いと思うんだけど、どう思う?」
 
話を切り出したのは、私。
不妊治療を始めてはどうだろう、と夫に持ちかけたのだ。
 
結婚してほどない頃から、夫は子どもを望んでいた。
私も赤ちゃんを連れて歩く夫婦の姿を見ては
「かわいいなぁ、私もいつかあんな日が来るんだろうな」と信じて疑わなかった。
 
とはいえ、私たちが会うのは月に2-3日。
“ベビ待ちアプリ”で排卵日を予測するだとか
それなりに試みてはみたものの、
現状が変わりそうな気配は微塵も感じられなかった。
 
どこか身体的に問題があるのではないか?と焦る気持ちもあれば
そもそも「子供を授かるために帰ってきてくれ」と夫を呼びつけるのも
本末転倒ではないだろうか?という気もする。
なにより、“子供が出来ない”という課題に対して
答えが見つからないまま、毎月同じことを繰り返すことが
我慢の限界に来ていたのだ。
 
「今月もダメだった」
あと何回離れて暮らす夫にLINEすれば良いのだろう。
 
不妊治療はお金もかかるし、身体的負担もあると聞く。
行く手には荒波が待ち受けているのは百も承知だ。
それでも、科学的な根拠をもって問題の解決に臨む方が、精神衛生上良いのではないか。
荒波を乗り越えた先にしか、まだ見ぬ美しい景色は存在しないのではないか。
そう意を決した上での“出航宣言”であった。
 
「うん、それは僕も良いと思うよ。
実は僕も、病院で検査を受けた方が良いんじゃないかと思ってたし」
夫は意外なほど素直に提案を受け入れ、
我々は意気揚々と沖へ目指してパドルを握ったのであった。
 
「そう、旦那さん単身赴任なのね。
じゃあもう手っ取り早く人工授精に踏み切って良いんじゃないかしら。
2人とも検査の結果、身体的な問題はありませんから
ひとまず5回、チャレンジしましょうね」
 
不妊治療を専門にする病院を訪れてから2週間。
私と夫は驚くほどトントン拍子に検査をクリアし、
第一ステップといわれる、人工授精に踏み切ることとなった。
 
医学的に「今が絶好のチャンス!」というタイミングで
事前に採取した精子を、カテーテルで子宮の奥に送り込む。
極めて原始的な方法で、自然妊娠と大差ないという。
 
けれど、その“医学的な絶好のチャンス”を活用することが
我々にとってみれば何よりも高いハードルだったのだ。
人工授精は劇的な課題解決方法に思えたし、
明日にも子供を授かれるのではないかと心が躍った。
 
「なーんだ、思ってたのより100倍簡単じゃん!」
こんな事なら、荒波に飲まれる心配なんかしないで
さっさと航海に繰り出せばよかったのに、私ったら。
 
ところが。
お察しの通り、世の中はそう甘くはないのである。
 
「今月もやっぱりダメでした」
「うーん……チャンスはあと2回だっけ?」
「そう。ここからは妊娠する確率、もうあがらないんだよね」
 
最初の人工授精から5ヶ月。
途中、新型コロナウイルス流行による診療の中止を挟みながら
“妊娠する確率が最も高い”と言われる2回を経て
妊娠確率が横ばいとなる、3回目の処置を受けた。
 
あと2回。
あと2回で妊娠しなければ、より高額で、時間的拘束も強く
身体的負荷の高い治療に切り替えなければならない。
人工授精だって、毎月5万円近い出費だというのに。
既に15万円以上使っても、現状は何も変わらない。
 
何よりも、夫婦揃って“身体的問題は何も見つからない”というのに
どうして科学的な方法をとっても妊娠しないのだろう。
何がいけないの? 私が悪いの?
どうして多くの人が自然に出来ることが、私には出来ないの?
 
焦る気持ちばかりが強くなり、私は“検索魔”へと変貌した。
 
処置から生理が来るまでの間、
「今回こそ妊娠しているのではないか」と期待をこめて
“妊娠 超初期症状”と検索エンジンに打ち込む。
めまい、胃もたれ、微熱……
残念ながらどれも思い当たらず、1人で落ち込み、ベッドにもたれこむ。
 
“人工授精 何回”と調べては
60%以上の人が2回目までに妊娠している、というグラフを見つけて
悔しさのあまりスマホを壁に投げつけた。
 
夫は検査結果に異常が無かったのだから
もし妊娠できなければ、原因は私にある。
私の何がいけないの?私はどうすれば良いの?
 
その頃からだ。
友人が妊娠や出産の報告をくれるたびに
自分が責められているような気持ちになったのは。
 
かろうじて「おめでとう!」と心から言うことが出来る。
けれど、その後家で1人になると、どうやったって
「あの人は出来るのに、どうして私は……」とモヤモヤした気持ちが首をもたげるのだ。
 
この先、治療をステップアップすれば
こんな気持ちをもっと強く、何度も、抱くハメになるのは目に見えている。
励ましてくれる夫に対し、きっと信じられないような罵詈雑言で八つ当たりすることだろう。
容易に想像できる荒波を前に、ひとつの考えが浮かんだ。
 
「浜へ引き返したほうが、良いのではないか?」
 
もといた場所に戻ってしまえば、
子どもは文字通り、本当に“天からの授かり物”となる。
毎月のモヤモヤから解放されるはずだ。
 
それにそもそも、私は本当に、心から“我が子が欲しい”のだろうか?
子育てをしている友人が幸せそうで羨ましいとか、
親に孫の顔を見せてあげたいとか、
子どもを望む理由はいくつかあるけれど
本当に子供、つまり1人の人間を何十年にも渡って
育て上げる覚悟はあるのだろうか。
 
仮に子どもに恵まれたとして、
その子に病気や障害があったら?
「無理に治療したからだ」と自分を責めたり、後悔したりしないだろうか。
どんな見た目でも、性格でも
心から我が子を“愛しい”と100%の愛で包み込むことは、できるのだろうか。
 
今ならまだ引き返せる。
どうするべきなんだろう、と悩んでいた時、母の一言を思い出した。
 
「あんたのことは心配ばっかりしてたけど
友達もいて、結婚もして。
今では“大したことなかった”って思えるわね」
 
そう、当時の母と同じような年齢にさしかかった今なら分かるけれど
私はたいそう“育てにくい”子どもだった。
 
父が留守がちなせいで、今でいうところの“ワンオペ育児”だった母は
1人で2人ぶん、きっちり子どもを躾けねばと気負ったところがあったのだろう。
特に第1子の私に対してはとても手厳しかった。
大きな声で怒られる事も、手をあげられる事も珍しくなかった。
 
そのため、とにかく“怒られないようにする”事だけを考えるようになった私は
息を吐くように嘘をつく、とにかくその場をやり過ごすことだけを重視するようになり
家でも学校でも「何を考えているか分からない、人を傷つけてもなんとも思わない」性格になった。
その報いか、私には幼稚園から、中学を卒業するまでの間に“友達”と呼べる人は1人もいなかった。
 
その後すこしずつ、自分の身の振り方を反省し、性格は多少改善されていく訳だけれど
毎日、学校へ行くのが憂鬱でたまらなかったあの頃は、
未だに「1秒足りとて思い出したくない」負の歴史なのである。
 
一度、母に「私にはどうやってあなたを育てたら良いのか分からない」と泣かれたことがある。
小学5年生か、6年生の時のことだ。
 
母の誕生日に、校区外のスーパーまで歩いて行った。
貯めたお小遣いでケーキを買おうと思ったのだ。
「お誕生日おめでとう」とケーキを渡すと、たいそう喜んでくれたのだが
「こんな遠くまで、どうやって行ったの?」と不思議そうに訊かれた。
正直に、歩いていったと言えば良かったのだろうが
校区外に1人で行った事が分かるときっと怒られるに違いない! と焦った私は
「○○ちゃんの家に遊びに行ったとき、お母さんが連れて行ってくれたの」と嘘をついた。
「そうなの、良かったね」と母が微笑んだので、ホっと胸を撫で下ろしたのだった。
 
しかし、翌日、学校から帰ると、母は玄関に仁王立ちしている。
どうやら学校へ行っている間に、○○ちゃんのお母さんにお礼の電話を入れたようなのだ。
当然、「何のことでしょうか?」と言われ、母は気まずい思いをしたわけだ。
 
「どうしてそんな、しょうもない嘘をついたのよ!
嘘をつかれてもらったケーキが嬉しいと思うの!?」
 
鬼の形相だった。
「校区外に出たって知ったら怒られると思うから」なんて
口が裂けても言えそうに無い。
ずっと無表情で黙りこくっていると、母の目に涙が滲んだ。
 
「私のせいなの? 私が怒るのがいけないの?
でも“嘘をつく”のはいけないことくらい、もうあなたにも分かるでしょう?
どうして何回言ってもやめられないの?」
 
嘘をつくのが良くないことくらい、分かっていた。
でも、怒られるかもと思うと、口から滑り出るのだ。
母が悪いわけではない。
怒られる非が自分にあることも、分かっている。
それでももう、がんじがらめになっている今では、どうしようもないのだ。
 
なんとか説明しようと思っても、当時はうまく言葉にできなかった。
母を責めるつもりは毛頭無いけれど
自分自身を持て余していたのだ。
もう今更、どうしろって言うんだ、と。
 
20年以上の時が経ち、今なら分かる。
母がどれだけ思い悩んでいたかも、
幾度となく、人知れず自分を責めたかも。
 
それでも、母は私を見捨てなかった。
とびっきり怖いお母さんだったけれど、
小さな頃から100冊以上の絵本を読み聞かせてくれたし、
100点のテストを持って帰ったら必ず褒めてくれた。
クリスマス、誕生日、運動会、学期末……
折に触れ子ども達の大好きなメニューを、こぼれんばかりに食卓に載せてくれた。
全ては、子どもの小さな両手では受け取りきれないくらいの
大きな、大きな子どもへの愛によるものだったのだ。
 
そんな屈折した子ども時代を送ったからこそ、思ってしまうのだ。
「私みたいな子どもが生まれてきても、私はきちんと愛せるのだろうか?」
そして、
「自らの人生を追体験するような“子育て”に、私は耐えられるのだろうか?」と。
 
思い切って、母に聞いてみた。
 
「子どものいる人生って、幸せ?」
 
「幸せに決まってるじゃない!
苦労もあるけど、その倍以上は幸せをもらうし。
大人になった子どもからは、刺激も受けるし、勉強になることもあるし。
何より“思い出”をもらえるのが良いわね。」
 
“子どものいる人生”の集大成である私自身、
確かに紆余曲折あったけれど、今、私はこれ以上ないほどに幸せである。
おかげさまで“友人”と呼べる人もできたし、
ともに荒波を乗り越えんとすパートナーも得た。
仕事もなんとか10年続いているし、両親も健康。文句のつけようがない。
 
だからこそ“失う恐怖”や“変わってしまう不安”ばかりに目が向いていたのかもしれない。
 
確かに、幼い頃にまで振り返りたくはないけれど
仕事を始めてからのこの10年、
「ひぃっ!」と内臓が縮むような失敗もやらかしたし
「もう生きていけない」と思うくらい辛い失恋もした。
それでも、10年という月日を経た、“今”という遠くからあの頃を覗き込むと
そこにはなぜだか、幸せを感じた瞬間と、笑った時に痛いほどあがった自分の口角
そして辛いときにも目いっぱい向かっていった、ひたむきな気持ちだけが残っているのである。
 
あぁ、そういうことなのかもしれない。
 
今を必死に耐え抜く。ひたすら前を目指す。
傍らには夫がいる。
 
たとえ今は辛くても、歯がゆくても、
辿り着いた先が、願っていたものとは違ったとしても。
 
きっと、そこには幸せがあるのだろう。
達成感が、やりきった満足感が、残っているのだろう。
 
だから、私はボートを前に漕ぎ出そうと決めた。
不安が無い、わけじゃない、もちろん。
けれど。
きっと、過ぎ去った時間たちが。
振り返って眺めた時の景色こそが、何よりも美しいのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
竹下 優(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

生まれてこのかた福岡県から出たことのない、生粋の福岡人。
趣味は晩酌、特技は二度寝と千鳥足。

この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2020-08-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.92

関連記事