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週刊READING LIFE vol.92

ありふれた日々を明日も~加齢なる挑戦《週刊READING LIFE Vol,92 もっと、遠くへ》


記事:岡 幸子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
2020年7月31日、厚生労働省が発表した2019年の日本人の平均寿命は、男性81.41歳、女性87.45歳だった。30年前と比べて女性は5.68歳、男性は5.5歳延びたそうだ。
これが介護などを必要とせず、元気で自立した生活が送れる健康寿命になると男性72歳、女性75歳に下がる。
 
私は、この健康寿命を超えてなお元気な両親と、二世帯住宅で暮らしている。
マスオさんのように穏やかな夫は、出産を機に私の実家での同居を認めてくれた。
以来、フルタイムで働く私は、保育所の送迎から平日の夕食の支度まで、両親に助けてもらってきた。
大きな病気もなくここまでやってこられたのは、ただ幸運でありがたいことだった。
 
この春、コロナ禍で両親の生活も一変した。
父はもともと出不精だったのが、週に一度のグランドゴルフがなくなり、ますます家に引きこもるようになった。
母は、合唱、ダンス、俳句の会など元気に出歩いていたものが全部なくなり、電話とメールだけでは相当ストレスがたまるようだった。
 
私の勤務がリモートワークになり、朝のコーヒーを一緒に飲んでいた5月のある日。
突然、両親の衰えに気がついて愕然とした。
二人とも、急速に老けている……
 
特に父は、なんだか姿勢がおかしい。
まっすぐ立てていないのではないか?
母が
「一日中家にいられると息がつまるから、少し歩いてきてよ!」
と怒鳴っても、なかなか外へ出ていこうとしないのは、歩くのも面倒なほど筋肉が衰えているからではないのか。
 
「お父さん、ちょっと壁に背中とかかとをつけて、まっすぐに立ってみてよ」
 
そう頼んでみた。
 
「まっすぐ立てと言われてもなあ。膝がこう、何というか……あいたた……」
「痛くない範囲でいいからさ。できるだけまっすぐ立ってみて」
「いやあ、肩が全然つかないよ。首が前に突き出ちゃうなあ」
 
なるほど。
こんなに背中が曲がっていたんじゃ、まっすぐ立てるはずがない。
ほんの2か月前までは、もう少ししゃきっとしていたような気がする。
出歩く機会が減って、ますます外歩きに行く気がしなくなってきたのだろう。歩くのもおぼつかなくなっているに違いない。
 
「お父さん、このまま何もしなかったら背中がどんどん曲がって元に戻らなくなるよ。今が分かれ道かも知れない。自分の筋肉でまっすぐに立てるように練習しよう。毎朝10分間、壁に背中をつける姿勢をキープしよう。頭が少しでも壁に近づくように力を入れてみて。ほら、今すぐ一緒にやってみよう」
 
渋っていた父も、私のしつこさに根負けして、壁に立った。
2分、3分、4分……
明らかに、最初より頭の位置が壁に近づいてきた。
 
「すごいじゃん、やればできるよ。頭の位置、ずいぶん後ろに下がったよ。お腹もまっすぐになってきた。自分でもわかるでしょう」
「ああ、わかるね。へぇー、膝がぎしぎしいうのも減ってきた」
「膝が痛くないなら、ゆっくり屈伸できるかな?」
 
10分間、まっすぐ立ったあとに言ってみた。
先日、老人が筋力を保つトレーニングを紹介する本に、毎日ただ屈伸するだけでも効果があると書いてあったことを思い出したのだ。
 
「できるね」
 
ゆっくり5回、軽くこなしてしまった。これには、母も私も驚いた。
 
「ええーっ、できないと思ったよ」
「私は膝が痛くてダメだわ」
 
両ひざにサポーターを巻いている母がうらやましそうに見ている。
 
「あれだ、毎日、風呂掃除しているのがいいのかも知れない。あれが屈伸運動になってるんだろうな」
「だとすると、何でもやってもらうより、買い物とかもできるだけ行った方がいいんだね。それで筋肉が維持されてるんじゃない? 若い頃、テニスしてたのも良かったかもね。テニスの市民講習会、いつまで行ってたの?」
「70近くまでやってたかなあ」
「せっかくだから、お父さん、毎日続けて、できるだけ長く自力で歩くのを目指そうよ。入れ歯もなく、補聴器も使ってないのはすごいよ」
 
褒められて父は嬉しそうだった。
父がやる気を出したのを見て、母も上機嫌だった。
その朝のコーヒーは、いつもよりずいぶんと美味しく感じられた。
 
だが、世の中そう甘くない。
 
6月になり、私が通常勤務に戻った数日後。
職場で息子からのLINEをみて驚いた。
 
『おばあちゃんが突然めまいで倒れ、救急車で病院へ行った。もしかしたら入院になるって』
 
母はそのとき、血圧が180を超え、37.8度の熱があった。あおむけに寝たまま頭をちょっと持ち上げるだけでめまいがして、動けなくなったという。自分の親が脳溢血で倒れて長く寝たきりの生活になったことを思い出して、相当あせったらしい。意識がしっかりしているから脳溢血ではない、とは考えられなかったようだ。小石の波紋が、津波になって戻ってくるような心配症だから仕方ない。
早く救急車を呼んでくれという叫びに父はうろたえながら対応した。
救急隊員の方が到着して、住所や症状などを聞かれると、しどろもどろになってしまったようだ。大学生の息子が家にいたおかげで何とかなった。
 
「コロナか熱中症ですね。3日くらい熱が続くようならご連絡ください」
 
医師に、そう診断されてタクシーで帰宅した。
私が家に帰ったときにはもう、母の症状は落ち着いていた。
 
幸い、翌日には熱は下がったので、コロナではなく熱中症だったのだろう。
念のためその後3回ほど通院した。
母を車に乗せて病院まで送りながら、老齢の母にいまだに頼っている現状を反省した。
息子が生まれて21年間、平日の夕食は母に作ってもらってきた。
仕事で遅く帰っても夕食があり、運んで並べるだけでオッケーという有難い暮らしを続けている。私が気兼ねなく仕事を続けてこられたのは間違いなく母のおかげだ。
母にしても、家族のためになることが張り合いになって元気をキープしてきたと思う。二人三脚でここまできた。
 
いや、三人六脚かも?
母にとって、父の健康を管理することも本人は気づいていない生き甲斐に違いない。
健康寿命を延ばすために大事なことは、栄養バランスの取れた食事と、運動だという。母は父に対してイライラすることが多いようだが、食事と運動に関係することがほとんどだ。要するに、父がいつまでも健康であって欲しいという願いからガミガミ言ってしまうのだろう。怒鳴り声の根底に愛情がある。
父もそれはよくわかっていて、以前、母がいないところで感謝の気持ちを私に話してくれた。そんなこと、絶対に面と向かって言わ
ないのが昭和一桁生れの男だろう。
 
支えあう両親に、寄りかかってきたのは私だ。
けれど、この先は?
そろそろ、私が両親を支える準備を始めなければいけない。
 
だが、できるのか?
 
気づけば、なんと還暦までカウントダウンになってしまった。
中身は20年前と大差ないのに、時間は容赦なく過ぎて身体の衰えは隠せない。
リモートワークから通常勤務に戻った数日後、通勤と立ち仕事が急に増えたせいか、痛かった左膝が急激に悪化して、湿布とサポーターで誤魔化しても歩くのがやっとになってしまった。
 
「加齢ですね」
 
無情なことを医師は言う。
 
「リハビリで少しずつ動かし、腫れが引いたら自宅でできる筋力アップのトレーニングを入れていきましょう」
 
なんと、父にやらせようとしていた筋力アップ、私にも必要になってしまった。
両親が老けたと思っていたけれど……
時間は平等に過ぎていた。
 
健康は空気みたいなものだ。
当たり前すぎて、ふだん感謝などしないけれど。
空気が薄くなって苦しくなって、ようやく空気のありがたさを知る。
身体に不調が出て、初めて健康のありがたさが身に染みる。
 
片足だけでも膝が痛くなってみると、日常生活が激変した。
5分で行けた場所に15分かかる。
階段は手すりにつかまって一段ずつ。
信号は一回待って、青に変わったときから歩き始めて、やっと渡り切れるかどうか。
時に小走りで移動していたのが夢のよう。
ワンフロア移動するにもエレベーターを使うようになってしまった。
 
両膝の痛い母の動きがゆっくりで、家の階段を上るのにも時間がかかる理由がよくわかった。
父が散歩も面倒になって引きこもったのもわかる気がする。どこか痛い箇所があると、ほんの10歩の距離も歩きたくない。
だが、加齢による衰えは、炎症が収まったら痛くても動かさないといけないのだ。
筋力は急速に衰えてしまう。歩けるうちに歩く努力をしなければどうなるか。楽をするために車いすに座ってしまったら、ますます筋力が衰えて自力で歩くのが一層辛くなるだろう。
 
歩けるうちは、両親に自力で歩く努力をしてもらわなければ。
今、私にできる一番の支えは、歩く気力を持ち続けてもらうことかもしれない。
 
8月になった。休日の朝のコーヒータイムに父に聞いてみた。
 
「お父さん、私がいなくても毎日ちゃんとトレーニングしてる?」
「それが、全然してないのよ! テレビばっかり見て、全然動かないんだから」
 
母が怒ったように言った。
 
「今、ちょっとやってみようよ」
「う~ん、もうダメだね。まっすぐ立とうとすると膝の後ろも痛くなる」
 
渋々やってみる父の様子から、ずっとサボっていたことがよくわかった。
 
「屈伸はどう?」
「あー、できなくなってる」
 
ショック!
この2カ月でまた衰えた?
いや、また今日から始めればいい。
まだ動ける今のうちに。
 
「お父さん、去年は一緒に東京までオペラを見にいけたじゃない。コロナが明けたらまた一緒に行こうよ。そのためにも、毎日ちょっとでもいいから歩こう。家の周りだけでもいい。少し行けたら橋までとか」
「私はやってるよ。昨日は途中で足が進まなくなっちゃったから、少し休んで頑張って橋まで行って帰ってきた」
「お母さんは偉い! お父さんも頑張って!」
 
頑張って、もっと遠くへ行こう。
長生きして、人生のもっと遠くへ行こう。
 
父は、あと3年で90歳になる。
母はその3歳下。
この日常を一日でも長く続けたい。
 
2週間後、父はまた屈伸ができるようになった。
その調子だ!
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
岡 幸子(おか さちこ)(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京都出身。高校教諭。平成4年度〜29年度まで、育休をはさんでNHK教育テレビ「高校講座生物」の講師を担当。2019年12月、何気なく受けた天狼院ライティング・ゼミで、子育てや仕事で悩んできた経験を書く楽しさを知る。2020年6月から、天狼院書店ライターズ倶楽部所属。

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2020-08-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.92

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