週刊READING LIFE vol,120

母の病気で思い出した、「あの日」のこと《週刊READING LIFE vol.120「後悔と反省」》

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2021/03/22/公開
記事:大久保 尚(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
母がまた、癌と診断された。ステージ3という診断だった。
 
10年ほど前に、1度目の癌の告知を受け、それを聞いた時にショックを受けて、2度目となる今回はもっと冷静に聞けると思っていたし、その経験から、今まで、散々「今は、癌なんて治る病気になったよ」とか、「癌で死ぬことなんて今後なくなる」なんていう話を母とさんざん言い合っていたが、今回も頭の中が真っ白になった。
 
以下、医者の話の抜粋である。
「現在、腹膜に細かな癌が散らばってできてしまっていて、今のところ、大きさが特定できない。まずは一度内視鏡で腹部を開いてみて、確認をしましょう。その後、抗がん剤の治療をして、様子をみます」
 
「治療については最善を尽くします。あとは、治療の経過をみて対応を考えましょう」
母は助かるのか? という質問に対する医者の答えはこうであった。まるで歯切れが悪い。
 
「癌」その言葉には、やはり独特の魔力がある。「普通の病気じゃ無い」「命に関わる」「治療が大変」とか、勝手に想像をめぐらせてしまう。冷静に考えれば、肺炎だって、風邪だって、こじらせれば死に至るのに、そこまで重大な病気だと思わない。だけど、癌はちがう。ある意味”覚悟”をしてしまう響きがある。
 
現在、母は70代後半。まだまだ元気で、会社の経営者として頑張っている。体調面では、過去にも1度、癌という診断を受けてが、その都度、元気に蘇ってきた。2度目の癌と診断された今でも、元気いっぱいに働いていて、まだまだ口も達者で一見、健常者そのものである。
 
今回、病気が見つかったのは、なぜか、急に本人がメンテナンスのために、一度、全身の細かい検査をしたいと言い出して、血液検査とPETと呼ばれる細胞単位で確認ができる検査を受けたところ、何かおかしい点があると言うことで、再検査したところ発見された。「普通の検査では発見できなかった」と医者には言われて、かなり小さいのかなと思っていたが、まさかのステージ3という判定だった。
 
これからの治療方針としては、まずは、一度内視鏡で手術をして、中の状況を確認し、その後抗がん剤の治療に移っていくということであった。母とは、今更原因を話しても仕方がない。前を向いて治療に取り組んでいこうということになった。
 
「抗がん剤」この響きを聞くと、苦い記憶が蘇る。
 
35年前の2月、父が亡くなった。原因は白血病だった。
私は中学1年生。おぼろげな記憶では、父はいつも健康そのものであり、休みの日は、家庭菜園でいつも畑仕事をしている思い出がある。野球が好きで、特に巨人のファンであり、その影響で私は少年野球をやることになった。父はいつも野球の練習を見にきてくれ、私のプレーを楽しそうに見ていた。父とはよくキャッチボールをしていた。
 
ある日、外で父とキャッチボールをしていると、何かいつもとは違い、父のボールに力がないなと感じたことがあった。当時、父は45歳。そろそろ年齢的に力強いボールは投げられなくなってしまったのかと、そんな寂しい気持ちになったことを覚えている。そして、それから何日もしないうちに、父が熱を出して、寝込んでしまうこととなった。
 
風邪ならば、すぐ治るだろうと思っていたのだが、なかなか治らずにしばらくの間寝込んでいた。私は中学での野球に夢中で、朝も早く、夜も遅かったので、あまり気にしていなかった。
 
しばらくして、いつも通り家に帰ってみると、家に誰もいない。いつもいるはずの母も姉も家にはおらず、また、帰ってくる気配もなかった。書き置きもなく、夕飯もない。当時は携帯電話などなかったから、そうなってしまうと連絡の取りようがなく、私は、ただただ不安な気持ちのまま、寝床に入って寝ることにした。
 
翌朝、起床すると、母がいつも通り朝食を作ってくれていた。
「何もない普通の日常」
それがまた始まったと思ってほっとした記憶がある。
 
そして、朝食を取りおわり、学校に支度をしようとしたところ、母に呼ばれた。
 
「少し、そこに座りなさい」
「昨日、お父さんの調子が悪いから、大きな病院に連れて行ったの。そうしたら、色々な検査が必要で、夜までかかってしまって、帰りが遅くなっちゃった」
「お父さん、白血病にかかっちゃった。先生によると、あと半年だということだった……」
 
その後の言葉は覚えていない。「えっ? なんだって?」私は、はじめ理解ができなかった。ついこの間まで普通に元気だった父があと半年? 理解ができなかったが、世の中が一瞬で暗転した。
 
「なんでうちのお父さんなんだ?」
「家族はどうなるのだろう」
「うちのお金は大丈夫なのかな?」
「この先普通に生きていけるのかな?」
というぐちゃぐちゃな感情が押し寄せて来て、その場で泣き崩れてしまった。
 
学校に行く気もなくなってしまったが、一番辛いのは母なのだと思い、できるだけ普段と変わらない生活をするように努めることに決めた。ただ、通学の途中や、授業中など、父のことを思い出してしまい、突然泣き出してしまった。
 
当時、白血病は、今と違って根本治療は骨髄移植しかなく、基本的にはもう治らない病気ということであった。初めの数ヶ月は父の体調も安定し、なぜ自分が入院しているのかわからないということを言っていた。私たち家族は、父に病気のことを告知せず、別の病気で入院していると伝えていたのだ。私も毎日、学校が終わると病院に行くという生活を続けていたが、父が元気であるので、だんだん毎日行くことが面倒くさくなってしまった。元気だからいいだろうと思っていた。
 
それは、突然起こる。
 
ある日、いつも通りに学校が終わり、父の病室に行くと、昨日まで元気だった父が、ぐったりと横になって寝ていた。いつも見舞いに行くと体を起こして元気にしていたので、寝ているのは珍しく、どうしたのだろうと思っていた。そして母が言った。
 
「今日から抗がん剤を使ったの」
 
母が言うには、当時の白血病の抗がん剤は、一旦体の細胞を全部殺し、それから再生を促すこと頼ると言う、賭けに等しいような治療だった。このまま死を待つか、抗がん剤にかけるか、母によると親戚等と話し合いを続け、抗がん剤を使うことにしたと言うことだった。ただ、それまで元気にトイレなどにも歩いて行っていた父が、抗がん剤を使った直後にトイレに行こうとしたところ、その場で倒れてしまい、歩けなかったということだった。まさに、ガタッと体が弱くなったようだった。
 
父は、その後、回復することがなかった。
 
だんだん、抗がん剤の影響なのか、口の中が乾いてしまい、もううまく喋れないような状態になってしまった。私も、「その時」がいつ来てもおかしくないという覚悟を決めなくてはならなくなった。
父も自分でそのことを悟ったのであろう、ある時、私を手招きして呼び寄せた。
そして、もうしゃべれない状態にも関わらず、私に何かを話しかけた。
 
「xxx???」
「え、何? なんて言ってるの?」
「xxx???」
「わからない。何?」
 
父は、話が伝わらないとわかると、悲しそうに、顔をそらしてしまった。
 
「自分は、父の息子なのに、父が最後の伝えたい言葉がわからなかった……」
私はそのことを猛烈に反省し、そして、程なくして父が亡くなった後、強烈に後悔した。
 
同時に、病気を恨んだ。そして、抗がん剤を憎んだ。
 
私は、今でもこの取り返しのつかない十字架を背負って生きている。少なくとも、母には同じ思いをさせてはいけないと思い、母に迷惑をかけることはもちろん、なるべく母の期待に応えるべく努力を続けた。
 
母の手術は無事終了し、いよいよ抗がん剤を投与して対処するという治療に移った。手術後の経過も良好で、手術翌日には早速歩き始め、1週間で退院していた。その後も会社に出社していたし、声にも針があったので、ぱっと見は健常者の人と何も変わらないように見えた。その母が、抗がん剤治療に移る。父の時の経験があるので、私はとても不安になった。もう元気な母と会うことはないのではないかと心配した。もちろん、私以上に母は父のことを近くで見ていたので、もっと不安に感じていた。
 
抗がん剤の治療は1週間の入院が必要だという。現在、コロナの影響で基本的に入院患者の面会は不可となっているのだが、いてもたってもいられなくなり、母のお見舞いに行くことにした。病院に着くと、やはり、病室に入るのは許されず、入れるのは病院の待合室までとのことで、そこから、一応母に電話してみようと携帯電話で連絡をしてみた。すると、母は元気に待合室まで行くといって、歩いてやって来た。
 
正直、拍子抜けするとともに、ほっとした。
現在の抗がん剤は、体がガタッと来るような強い副作用のものはあまりなく、体の痺れ、気持ち悪さ、脱毛などの副作用があるものの、それを抑える薬も多く、母もそれほど重い副作用はなく、思った以上に元気でよかったと安心した表情で言っていた。
 
今の抗がん剤の進歩はすごいと思うと同時に、35年前にこの抗がん剤があればなと、ふと思ってしまった。私の母は、父が亡くなった時、ただのファミリーレストランのパートだった。あまり、その頃の話をしてくれなかったが、最近、その当時の事を話してくれるようになった。
 
当時、母は、とにかく、私と姉に対して母子家庭だから子供たちに絶対に無理をさせたくない。なんとか生活を立て直すという気持ちで頑張ったと言っていた。レストランでも誰よりも早く出社し、窓から床まで毎日綺麗に掃除をし、会社で初めてパートから社員になり、レストラン撤退し、職がなくなると保険屋で働き、2ヶ月で営業所トップの成績をとり、その時にあった縁で、土木建築業の世界に入り、全くやったことのなかったパソコンの作業などを勉強し、そして、40代後半で経営者となった。
 
今も会社を経営しており、生き生きと毎日を過ごしている。病気になった今でも、仕事があるから、塞ぎ込むこともなく、なんとか早くよくなって、またいつも通り仕事をやりたいということを常に言っている
 
一方で、私はその間、なんの不自由も感じることなく生活をさせてもらった。
 
母が2度目の癌になってしまった今、出来ることはなんでもしなくてはと強く思う。今まで育ててもらった恩返しをきちんとしなくてはならない。と同時に、息子として、大きな反省と後悔をすることになってしまった“あの日“、今になって思うと父は「お母さんを大切にして」と言いたかったのではないかと感じる。
 
父の35年越しの思いを引き継ぎ、母が元気になるようにサポートとして行かなければ。そして、もう2度と息子としての反省と後悔をすることの無いよう、母の気持ちを知るために、今まで以上に母と話すことを心に決めた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
大久保 尚(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

埼玉県生まれ。中央大学出身
「マーケティングの力で日本を元気にする」というスローガンのもと、マーケティングコーチ、組織コンサルという個人事業主及び中小企業向けに業績を上げるためのコンサルティングを実施。日本HPおよび、アマゾンジャパンにおいて、トータル20年マーケティング職に従事。特にアマゾンでのマーケティング責任者としての経験を生かし、講師や講座などを実施。
その他、自分が英語で苦労をし、それを克服した経験をもとに、3ヶ月で結果が出る英語コーチとしても活動をしている。

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2021-03-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol,120

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