週刊READING LIFE vol.125

人生終わったと思った時《週刊READING LIFE vol.125「本当にあった仰天エピソード」》

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2021/04/26/公開
記事:赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
人生終わった……。
 
四十三年の人生でそう思ったことが一度だけある。
 
それは、高校生の時のこと。
いつも通り帰宅するために、駅から歩いていた。
 
病院の横道を抜け、コンビニの前の横断歩道を渡り、公園の遊歩道を抜けたら、我が家のあるマンションにつく。そこまで緩やかな上り坂が続いている。
 
緩やかな勾配でも歩けば少し汗ばむような陽気だった。遊歩道脇の草も青々と茂って、うっそうとしていた。
 
教科書が入った重い鞄を持ち直しながら、公園の遊歩道をゆっくりと歩いていた時、不意に、背中にぐっと圧力がかかった。
 
そう気づいた次の瞬間に、胸の前あたりもぐっと圧迫される感覚を覚えた。
 
人に羽交い絞めにされている、ということに気づいた時に、耳元でこう囁かれた。
 
「ヤラせてくれないと刺す」
 
とっさに声を出そうと思った。普段は無駄にデカイ地声よ、今こそ威力を発揮するときだ……!
 
でも、次の瞬間に絶望に変わっていた。残念ながら、腹の底から湧き出るはずの声は、緊急事態には全く役に立たないということに気づいた。いざという時には声は出ない。
 
その時になってみないとわからないことってたくさんあるものだな。
非常事態なのにのんきなことを考えているものだと今になって思うのだが、予想できない出来事にあうと、脳もパニックを起こしていろんな思考が錯綜して適切な行動を起こせないということがあるのかもしれない。
 
とにもかくにも大ピンチだった。
 
羽交い絞めにされた胸元には、腕とは違う何か固い柄が触れている実感がある。目線を下に落として確認することができなかったが、それが凶器なのかもしれない。顔の見えない人はただ脅しで言っているわけではないのだ。
 
刺されて死んじゃうんだ。
ぽろっと涙がこぼれたことに驚いた。
こぼれた涙の感覚をなぞるかのように、次々と涙があふれてきた。
 
涙を感じて、また死ぬんだということをさらに自覚して涙が出る、という感じだった。
 
かすれた嗚咽を聞いたのか、それとも落ちた涙が腕に当たったのか、不意に後ろの気配が変わった。あきらかに動揺した雰囲気を感じた。
 
ゆるんだ腕の力を感じて私はするっと圧迫から抜け出した。あっけないくらいに簡単に逃げることができて拍子抜けしたくらいだ。
 
目の前にいたのは、ごく普通の男子高校生だった。
気弱な雰囲気さえ感じる。
しかも手に握っていたのは包丁や大きなナイフではなく、ごく普通のカッターナイフだった。
 
そのあまりにも心もとない様子や攻撃力の低い凶器にさらに拍子抜けした。
 
「あの、付き合ってほしいんです! 前から好きだったんです」
 
おもむろに彼は私に告白した。
 
いやいやいやいやいや!
数分前に私に投げかけてきた言葉を考えるとどう考えても受け入れられないでしょ!
しかも、前から好きだったとか言われても、私があなたの存在を知ったのは今なのだ。
 
そうは思ったものの、無下に断った後に再び生命の危機にさらされるのも怖い。無言で彼のことを見つめ返すしかなかった。
 
どうしたらいいんだろうか。
 
これって『if』じゃないか。『世にも奇妙な物語』の後に始まった、その当時にやっていたテレビ番組で、タモリが司会を務めていたのを何回か見たことがある。岐路に立った時にどちらを選ぶかで人の運命が全く変わるというドラマ仕立ての内容だが、まさに今、私は、『if』の岐路に立っているんだ。
 
付き合ってという言葉にもしYESと言えば、いつ態度が豹変するかわからない、素性もわからないこの青年と付き合わなければいけない。でも、もしNOと言えば、この場で刺されるかもしれない。
 
非常事態は乗り越えたが、相変わらず絶望的な分岐点に立たされていることを自覚した。
 
こんな決断、高校生の私にはできないよ。
 
無言で立ち尽くす私の様子をYESだと勘違いしたのか、青年はそっと私の手を握った。
 
しっとりと汗ばんだ手の気配を感じた時、彼も緊張しているのだということに初めて気づいた。その手つきは実に不器用だった。
 
混乱の限りをつくして、されるがまま手を握られてた時に、ようやく脇に人が通りかかった。
 
助かった!
 
その影に助けを求めて見あげたとき、愕然とした。
 
通りかかったのは、私の弟だった。めちゃくちゃニヤニヤしながら、無言で私達の横を通り過ぎていく。
 
そのニヤニヤで考えていることがすぐにわかった。
弟よ、勘違いだ! 姉はピンチなのだ。
 
いや、手を握られている姿を見たら、確かに勘違いするかもしれない。
 
緊迫した空気の読めない弟が、さも空気を読んだ風に去っていく姿を見つめ、ようやく私の身の回りの空気が現実を取り戻して動いたような気がした。
 
緊張しすぎて、全く役に立たなかった声帯がようやく機能してくれた。
 
「ごめんなさい、弟が先に行ってしまったので、私も行かなきゃ」
 
意外と冷静な声が出た。極力刺激しないようにそっと彼の手を外し、礼をして、急いで走って弟を追いかけた。
 
弟自身は全く役に立たなかったが、弟が通ってくれたおかげでYESでもNOでもなく逃げることができたことには感謝している。
 
怖かったから後ろは振り返らなかった。でも、カッターの彼は、それ以上追いかけてくることは、なかった。

 

 

 

それ以来、カッターの彼に会うことはなかった。
 
でも当時の場面はまるで印象的な映画のワンシーンのように私の記憶の中に保存されていて、ふっと思い出すことがある。
 
非現実的な場面というのは、妙にリアルな肌感覚で保存されるものだ。そんな記憶は後にも先にもあの出来事以外にはない。
 
もちろん、悲惨な目にあったわけではないからこそ、保存されている場面はひどい悲しみや辛さなども伴っていないことが不幸中の幸いだと思う。
 
それでも、レイプ被害についての警視庁のサイトを見ていたら、私に残る記憶は案外、レイプ被害者に近いものなのだな、ということを実感する。この事件について、親に全く打ち明けることができなかった。被害者の多くは、身近な人になかなか伝えられないということはよく聞く話だ。
 
同じサイトには、レイプの被害による二次被害を抑えようというテーマのもとに、社会がレイプについて誤った認識を持っていると指摘されていた。その項目の中のひとつに、
 
「“被害者が抵抗すれば、レイプされなかったはずだ”という思い込みがあるのです。実際には、被害者は恐怖感から凍りついたようになってしまい、声をあげることすらできないことが多いのです」
 
と書かれ、抵抗しなかったから合意の上だったと裁判では主張されるのだという文言が続いていてバットで殴られたような衝撃だった。
 
声すら上げられないということは、私がまさに実体験したあの時の状況そのものだ。もしも、被害にあった上に、近しい人に助けを求めること自体も苦痛を伴い、その上、合意の上などと主張されたら何重にも苦しめられることになっていたのかと思うとゾッとする。
 
その他にも、被害者は若い女性に限らず、乳幼児から高齢者、男性でも被害にあうケースがある、とか、性犯罪は衝動的なものではなく用意周到に計画されているものなのだ、とか、精神的におかしな人が加害者になるわけではなく、ごく普通に社会生活を送っている人が加害者になりうるのだ、とあって、読めば読むほどレイプ犯罪にまつわる問題は難しいことに気づかされる。
 
子を持つ母親になった今、自分が被害にあうこと以上に2人の娘たちがそういう被害に合う可能性もあるのだということが恐ろしいなと思うし、それ以上に、中学生になった息子が、あの気弱な彼のような行動に出たらどうしたらいいのか、とも思ってしまう。
 
カッターの彼はどこからどう見ても普通の青年で、どちらかというと血気さかんというわけではない、大人しい人柄だった。
 
彼は、あの時どうしてあのような行動に出たのだろう。
 
私の涙に動揺して腕をほどいてしまうくらいに弱気だった彼が、なぜ人を脅かすような行動にでたのか。
 
警視庁のサイトに書かれていたように、用意周到に私のことを狙おうとどこからか見ていたのだろうか。前から好きだったというのも本当なのか、言い逃れのために行き当たりばったりだったのかもよくわからない。彼が言うように本当に前から私のことを見かけていて好きだったとしたら、そっちを先に言ってくれたほうがいいにきまっているじゃないか。
 
脅す前に、告白してくれた方がまだ印象は悪くなかったはずだ。
後ろから羽交い絞めは恐怖でしかないけど、しかるべき段階を踏んで後ろから抱きしめてくれるのなら、けっこうドラマチックで感動的な場面になるはずだ。
 
当時は、彼の気持ちはつかめなかったし、彼の気持ちに近づきたいなんて思う余裕はなかった。
 
けれど、三十年近くたった今、中1になった息子が確実に彼の年齢に近づいていき、だんだん考えていることもうまくつかみとれなくなってくるにつれて、カッターの彼のような不可解な行動を起こしたらどうしようとひっかかるようになった。
 
そうなって初めて、彼は何に追い詰められて私にカッターを突き付けるような行為に及んだのか知りたくなったのだ。
 
レイプの加害者は、性欲ではなく支配欲からその罪を犯すという文章も読んだ。彼自身が、何かに虐げられていて、そのつらさから逃れるために私を支配しようとしたのだろうか。
 
カッターの彼は、私のことが本当に好きなだけだったの?
実は、家庭や学校で何か嫌なことでもあったのでは?
自分のモヤモヤした思いを打ち明けられる友達はいなかったのか?
 
あの当時はパニックで必死だったから、彼の顔はあまりはっきりと覚えていなかった。だからよけいにその姿を息子と重ね、私は、記憶に残った彼に話しかけてしまう。
 
つらかったのかな。
悲しかったのかな。
怒っていたのかな。
 
それでも、結局、彼が私を解放してくれたのは、彼を育んできた過程の中に人を傷つけることにためらう気持ちがきちんと育っていたからだ。最後の最後で自分がしていることに動揺するくらいの理性が残っていて、踏みとどまることができたのだ。
 
人生終わった、と一度は思った私も彼のすんでの理性のおかげで、何もトラウマになるようなことはなく生活できているのだ。
 
今、彼はどのように過ごしているのだろうか。その後、彼とは出くわすことはなかったが、この日本のどこかで、自分が人にカッターを突き付けてしまったことに罪悪感を抱えながら、その過ちを経験に真面目に生きているのなら、それでいい。
 
どうか道を外さずに生きていてほしい、心から願わずにはいられない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県在住。慶応義塾大学文学部卒。フリーライター力向上と小説を書くための修行をするべく天狼院のライティング・ゼミを受講。小説とイラストレーターとのコラボレーション作品展を開いたり、小説構想の段階で監修者と一緒にイベントを企画したりするなど、新しい小説創作の在り方も同時に模索中。

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2021-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.125

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