人生で一番最初の短い旅でかいた恥《週刊READING LIFE vol.132「旅の恥はかき捨て」》
2021/06/29/公開
記事:赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
目の前に置かれたボタンだけが私の命の綱だった。
無機質なベージュの柄に橙色のボタンを握りしめて横になる。
来たきたキタキタキタ、イタタタタ……
寄せては返す痛みは恐怖心を駆り立てる。
次はもう乗り越えられない。痛みが盛り上がるたびに、もう無理、もう無理とつぶやく。
ぎゅっと目をつぶり全身に力を入れた時に、バシャンと液体が放出された感覚がした。下半身が生温かく濡れ、不快さが足元から上がってくる。
破水だ。
握りしめていたスイッチを押した。ピリリリという場違いに間の抜けた音の後に、ガチャと音がして、枕もとのスピーカーから雑音にまじって声が流れてきた。
「どうしましたか?」
のんびりと看護師さんが答える。どうしましたか? じゃない。こっちは、用があるから押してるんだよ。
「あの、破水です。多分、破水しました。液体が出てます」
必死に声を絞り出した。私は、冷静な声を出せているだろうか。
「あら、すぐ行きますね」
のんびりした声の看護師さんが少しだけ緊張感を帯びた。
入院した特別室はとても広い部屋だった。
私は、ここで生まれて初めての出産を迎えようとしていた。
病院についた時には、まださほど痛みはなかった。初産だし、まだ長くかかるかもしれないと告げられた。でも、さんざん脅かされたけど陣痛なんて大したことないのかも、余裕じゃん、と思っていた。
私が落ち着いているので、まだ、しばらくは動きがないと思ったのだろう。着替えなど一通りの世話をして、看護師さんは部屋を後にした。
大きな部屋にポツンと一人きり。
夜の湿った空気が病室を冷やしていた。広いうえに暗くて寂しさが迫ってきた。その間にも陣痛の間隔は短くなり、強さも増していく。
このままどうなるんだろう。でも、まだ看護師さんを呼べるほどではないし。
冷静な自分が不安に襲われる自分を抑えつけた。大騒ぎするのは恥ずかしい。スマートに産みたい。でもその一方で、陣痛はだんだん激しくなり、不安と恐怖の自己記録を更新していった。
もう、耐えられないと思ったその時に、破水したのだ。
ああ、よかった。これならナースコールしても恥ずかしくない。
そう思った。
昔から、親の影響なのか、恥ずかしいことは悪、と思ってきた。親に何か良くないことを報告すると、必ず「恥ずかしい、そんなことしないで」と言われてきた。だから、私にとって恥ずかしいことは禁止事項だった。
こんなに苦しくても心細くても恥ずかしくない理由や言い訳を探していた。だから、ようやく破水がきてホッとした。
なのに。
看護師さんは慌てて入ってきて、いろいろなところに触ったりしながら、ちょっと笑った。
「これは、破水じゃなくて、おしっこですね。尿もれしちゃったのね」
陣痛のまっただ中だったら、よかったのに。
不幸なことに陣痛と陣痛の合間で意識はしっかりしていた。
耳にまで血が集まり、穴があったら入りたいくらいだ。今なら、オイシイからネタにしようと、ほくそ笑むこともできるが、当時はもう顔から火が出る思いだった。
破水じゃなくて、尿もれだなんて!
とはいえ、看護師さんにとっては日常茶飯事なのだろう。特に嫌な顔も馬鹿にすることもなく「また、何かがあったら呼んでくださいね」と言って出て行った。
スライド式の扉がスーッと閉じた時に、また次の陣痛の波がやってきた。引き留めることもできなかった。
もう、失敗できない。今度こそ呼ぶタイミングを間違えられない。
でも、怖い怖い怖いコワイ。涙が出てきた。
出産ってなんて心細いんだろう。
私、このまま本当に母親になれるの?
子供を守ることなんてできるの?
いざという時に助けを求められるの?
産む前から、どんどんネガティブになる心と、陣痛の苦しさが目まぐるしく入れ替わった。
それから何時間が経ったのだろうか。あまりにも大きな感情の揺れと痛みの繰り返しに理性は飛びかけ、まともな判断もできなかった。
サーというドアのスライド音がして誰かが入室してきた。
定期巡回で看護師さんが回ってきたのだ。
「陣痛、どんなですか?」
「助けて下さい」
「え?」
看護師さんはぎょっとしたようにカルテから顔をあげて、私を見つめた。
「たすけてくださいー、こわいー」
最後まで声にならず、最後は嗚咽を上げてなきじゃくった。
私が記憶する限り、大人になって本気で助けを求めたのは、あの時が初めてだったのではないか、と思う。
「母は強し」と言うけど、子供が生まれただけで何が変わるのだろうって思っていた。
私の一番大きな変化は、間違いなく人に助けを求められるようになったことだ。
あの時に、無我夢中で助けてと叫んでから、私の生き方は格段に楽になった。
それまで、ママ友と呼べる人もおらず、育児で頼りにできる人もいなかった。自分のためにわざわざ人に声をかける必要はないと思っていたけど、母親になると子供のために人に話しかけることができるようになった。
今までは、なんでも自分で調べて、自分で結論を出して、自分で正しいことをしなければいけない、と思っていた。人に迷惑はかけてはいけないし、優秀でいないといけなかった。
でも、母親という仕事はそれを許してはくれなかった。
どんなにしっかりとおっぱいをあげたとしても理由もなく泣き出すし、自分がどんなに寝たくても子供が寝てくれなくて途方に暮れることもあった。
あまり大きな失敗もなく、ソツなく生きてきた今までの人生なんかこれっぽちも役に立たなかった。誰かに助けを求めなければ、何もできない。
子供が咳をすればおろおろするし、熱が出ればいても立ってもいられない。
自分だけで解決できることなんてほとんどなかった。
でも、勇気を出して教えて下さい、助けて下さいと言えば、誰かは必ず助けてくれる。
世の中は自分が思うほど厳しくないということにも気付いた。
求めればちゃんと与えられるのだ。
子供達と生きていくことが、手を差し伸べてくれる人達との繋がりになり、私の社会が出来上がっていった。
誰かに助けてもらった恩に感謝していたら、誰か困っている人を助けてあげようと思えるようになる。もらったら誰かをサポートすることで恩送りをする。
自分が子育てや日々の生活で培った知恵をみんなにシェアしていくことで、自分の仕事まで生まれるようになった。
私の親として育つ過程の旅は、自分の仕事や社会貢献にもつながり、私の生きやすい場所が育っている。
次第に、恥をかくことにもためらいがなくなっていった。別に死ぬわけじゃないし、むしろ、恥ずかしい思いをしてもこれネタになるよね、みんながそれで元気になるなら、オイシイじゃないか! くらいの気持ちになっていった。
子供という潤滑油があるから、私の世界は優しくてあたたかい世界になった。
だからこそ、日本の社会の不寛容さが心配になっている。ニュースではスキャンダルでしょっちゅう誰かしらが謝り、袋叩きにされている。完璧を捨ててみんなで補い合えばきっとあたたかい社会になるだろうに。
でも、私もあの出産で助けてもらってなかった経験がなかったら、きっと今頃、まだ完璧な生き方にこだわってたのかもしれない。
「ごめんなさいね、初めての出産だから心細かったですよね」
「助けて下さい」と叫んだ私に、ちょっとだけ待ってくださいね、そう言い残して、看護師さんは急いで外に出ていった。再びパニックに陥りそうになったが、嗚咽が残っているうちに、すぐに看護師さんは戻ってきて、椅子を出して座り、私の手を取って謝ってくれた。
「夜勤だとどうしてもスタッフが少なくて雑用が多くなっちゃうんです。でも、助けてって言ってくれたから、傍にいますからね。もうすぐ赤ちゃんに会えますから、かんばりましょう」
もう、ナースコールの心もとない棒を握る必要はなかった。看護師さんの手を握って、陣痛の波を乗り越えながら、不思議と心地よさを感じられるようになった。
看護師さんの手のぬくもりと優しい声がだんだん遠のいていく。意識があるのに不思議だ。気づいたら、私は暗くて狭い場所にいるような感覚になっていた。
周りは脈を打っていて、とても狭い。
少しずつくるり、くるりと回りながら、慎重に前に進んでいく。なかなか進めなくて力をこめたり、バタバタもがく。しばらく進むと、不意にジェットコースターのように勢いがついて明るいところにズルズル、と抜け出した。
「生まれました、生まれましたよ」
手を握ってくれていた看護師さんが耳元で声を上げて、ようやく我にかえった。
ああ、生まれてきた。
息子の出産だったのに、私が生まれた時の記憶を思い出した不思議な体験だった。
人生で一番最初の短いけど大きな旅。
息子と一緒に母親としての私も生まれた旅。
「息子さん、うんちまみれだったので、先に洗いますね」
かっこよく産みたいって思っていたのに、私は尿もれするし、生まれてきた息子はうんちまみれだし……なんともはずかしすぎる!
あーあ、なんだか、うまくいかないもんなんだな。
心の底から笑いたいのに、笑う元気もなかった。
きっと看護師さんから見たら変な顔をしていたことだろう。
恥ずかしいことだらけだけど、旅の恥はかき捨てということで、よしにしよう。
別にいいじゃない。だって私も生きているし、彼も無事に生まれたんだもの。
恥ずかしくたって死なないんだ。
これからは、この子のために沢山恥をかいていこう。
そうやって私は親としての旅を進めて行くんだろうな。
広くて暗くて寒かった部屋の温度がいつしか上がっていた。
人が傍にいるだけで、寂しさも怖さも不思議と消えていた。
□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
広島県在住。慶応義塾大学文学部卒。フリーライター力向上と小説を書くための修行をするべく天狼院のライティング・ゼミを受講。小説とイラストレーターとのコラボレーション作品展を開いたり、小説構想の段階で監修者と一緒にイベントを企画したりするなど、新しい小説創作の在り方も同時に模索中。
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