週刊READING LIFE vol.149

秘密のロブスター天国!《週刊READING LIFE Vol.149 おいしい食べ物の話》


2021/11/29/公開
記事:月之まゆみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
情報も予備知識もない国に旅をしたことがある。
あれは自分でもかなりの冒険だった。
 
日本の書店のほぼすべてに問い合わせたが、その国のガイドブックは、その頃、まだ1冊もなかった。
でもインフォメーションのない予測できない世界だからこそ魅力的なのではないだろうか。
 
そこに何があるかわからない。
そこに住む人は何を観て、何を食し、何に夢見ているのかわからない。
わからないことずくめで始まるのは、恋愛初期の熱にうかされるような興奮と不安に満ちている。
 
あとはそこに飛び込むか、やめておくか。
 
もちろん……。今のようにインターネットのない時代の話である。
 
その国を語る有名なエピソードはたくさんあった。
アーネスト・ヘミングウェイが「誰がために鐘はなる」「老人と海」など代表作を執筆した国。
ホワイトラムをベースにしたカクテル「ダイキリ」や「モヒート」が生まれた国
1990年代 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブというキューバ音楽が1990年代、ワールドミュージックの代表として世界を席巻した国。
革命の英雄でありゲリラの指導者のチェ・ゲバラを輩出した国。
クラシックバレエや野球が強い社会主義共産国。
1950年代、キューバ危機でアメリカという世界一の強国から経済封鎖を受けても、屈しなかった国。
1960年代のヴィンテージのアメリカ車が何度もリペアされながら街中が、古き良きアメリカ時代の文化が現存する国。
コヒーバという世界最高品質の葉巻を生産し、男も女も葉巻を吸うかっこいい国。
 
その国の名はカリブ海に浮かぶ「キューバ」。
国土面積は日本の3分の1程度である。
 
 
そのころ会社員になってから始めて数年続けた社交ダンスをやめたばかりだった。
辞めた理由は単純明快だ。得点ばかり競う競技ダンスにいやけがさしてしまい、ダンスを楽しめなくなったからだ。しかし社交ダンスには未練があった。特に得意としていたラテンダンスへの心の火はまだ消えていなかった。
 
キューバ国立ダンスアカデミーで、キューバルンバとサルサを学べる短期留学があることを知った。簡単なダンス歴の経歴書と書類審査で渡航できることになった。
嫌いになりかけたダンスを本場でも踊れるのだろうか。
ひそかに心を動かされることを期待してキューバに行くことにした。

 

 

 

国立ダンスアカデミーに通って二日目のできごとだった。教室へダンス用のシューズを忘れていったことがある。
シューズをとりに帰ることをつげるとマエストロ(ダンス講師)は私に言った。
「シューズがなかったら裸足で踊ればいい」
「裸足で踊る? 裸足でダンスを踊ったことはないですよ」
「バレエじゃないのだから、シューズがないとダンスが踊れないと誰に教えられたの?」
そういうと講師は全員にはいていたシューズを脱ぐように言った。
そして教室からテラスに私たちをつれだし、風に揺れるヤシの木を指さして風を感じろという。ルンバは土着でうまれたダンスだ。だから自然のリズムを身体で感じて自由に踊れと指導してくれた。
身体の軸となる腰を中心にリズムをおこし、筋肉に余計な力をいれないことで手足がしなやかに伸びて美しく踊れた。踊る相手と呼吸を合わすことで自分の身体の可動域がひろがることも理解できた。
 
一足の靴を脱いで自由になったことで、心からわきあがる感情が冷え切っていた情熱に火をつけ、踊ることの喜びに変わった。
 
その日から今まで当たり前だと思っていたすべてに疑問をもつようになった。
不要だと感じたことは習慣から消していった。
地道では裸足であるくことが多くなったし、化粧もしなくなった。
 
旧市街にアーネスト・ヘミングウェイが通ったといわれる小さなバー「ラ・ボデギータ・デル・メディオ」がある。
天井に小さなファンついた何もないバーだ。
午前中の涼しい時間にダンス学校でレッスンを受け、午後は気が向けばバーのカウンターに座ってモヒートをのむ。
モヒートというカクテルは、キューバ原産のミントに似た「イエルバフエナ」というハーブをトールグラスにたっぷりと入れる。ハバナクラブのラム酒にシュガーとライムを加えソーダで割たモヒートは、うだるような湿気の多いハバナの気候によくあった。
さっぱりとした口当たりでいくらでも飲めたし、消耗しがちな体力を砂糖が補ってくれた。イエルバフエナの香りは噛むと深みのある爽快な香りが口いっぱいに広がった。
舌は疲れを知らずで素材がシンプルなほど味覚がどんどん研ぎすまされる。
その味は二度とかえらない夕日の残照や身体をすりぬけて逃げていく潮風を連想させた。
 
小さな店でファンのかき回すなまあたたかい風を受けながら、すぐにじっとりと汗をかく。さしだされた一杯のモヒートを合図に、いっさいの思考エンジンのモーターを停止して、グラスのなかのハーブの鮮やかな緑にただ見惚れる。
手の空いたバーテンと少ししゃべるが時計などなく、時間の感覚はすでにない。
いつも3倍目のグラスが空になるのをきっかけに、下宿まで裸足で歩いて帰り午睡をとるのは最高に贅沢な時間だった。
そんなことを繰り返しながら瞬く間に夢の時間は過ぎ去った。

 

 

 

あれはキューバを離れる前日のことだった、私は空港に近い街のホテルに宿を移した。
 
ホテルに入るとき、ドアマンが私の荷物をタクシーの運転手から受け取りながら小声で言った。
「ランゴスタ(ロブスター)……」それは私にも聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
チェックインを済ませ部屋に荷物を運び入れたポーターと二人きりになると、私は気になっていたことを聞いた。
「ランゴスタ(ロブスター)って言った?」
 
ポーターは食べたいかと聞いてきた。私がうなずくと、ポケットから紙切れをとりだし時間と住所を書いて差し出した。
そしてホテルからの送迎付きで料金を伝えたが、その価格はレストランに表記されているログスターの4分の1の値段だった。
 
キューバはロブスターを養殖し、主産業としてカリブの諸外国へ輸出することで外貨獲得に力を入れていた。そのため外国人向けのレストランのロブスターの価格は欧米諸国並みに高価な食材だった。しかしその利益は全て国に吸収されるので、一部の市民が密かに食材を売りさばいているとうわさでは聞いていた。
 
その日、約束までの時間、プールサイドで本を読んだりして過ごしたがなぜか落ちつかなかった。
時間になってホテルをでた私をみてドアマンが口笛を吹くと、暗がりのなかから一台の車が現れて私のまえで停車した。真面目そうな老人が私を見たのでさっと車に乗り込む。
住所が書かれたメモを運転手にわたすと、何もいわずに車をだした。
 
走ること20分。海沿いの民家がぽつりぽつりと点在する街灯もほとんどない村に入った。運転手は減速してメモの番地を確かめながらゆっくりと走る。
そして小さな平屋の家で止まり、ここだというが、家には明かりもついておらず人の気配がしない。
運転手は呼び鈴を押せといい、1時間後に迎えにくるからといって私を一人残して去っていった。呼び鈴を押すが人はなかなかでてこない。
だまされたのか? どうすればよい。もう一度、押してみた。数分待たされたあと、奥から人の気配がした。そして開いたドアの向こうに小柄な白髪の老婆が一人でむかえて私を家に招きいれた。
 
リビング兼ダイニングの広間のテーブルの上には、レース編みの白いテーブルクロスがかかっていた。壁際には使い込まれ、もはやアンティークと呼べる年代物の美しいミシンがおいてあった。部屋の設えで手芸好きな女性が住んでいるようで、工夫をほどこした飾りつけで温かい印象を与えていた。
次の間には老人がロッキングチェアに腰かけながら、白黒のテレビを観ていた。そして寝室を抜けてパティオと呼ばれる中庭にでたところで、私は息をのんだ。
 
そこは感じの良いリゾートレストランだった。市民が個人宅をレストランに変えてヤミでロブスター料理を提供していると聞いていたが、本当だったのだ。
 
さっき通り抜けてきた質素な室内と違い、カラフルなクロスがかかったテーブルをレモンの木が囲み、色とりどりの豆電球で屋根や木々を飾っているので室内も適度に明るい。
テーブルはほぼ満席で、客のほとんどは外国人だった。
しかもテーブルの上には肉料理やパスタなどホテルのレストランよりバラエティに富んだ食事が並んでいる。
席に案内され早速、女性が注文を取りに来る。あらかじめ話が通っていたのかロブスターの料理法を聞かれて、飲み物が運ばれる。メニューなどなかった。
奥のキッチンでは友人達か家族なのか、数人の女性たちが忙しそうに料理の腕をふるっていた。
植え込んだ植樹を上手に使い、トタン屋根で中庭を覆っているので、明かりが漏れなければそこがレストランだとは誰も到底想像できなかった。
 
ハバナの最後の夜。
 
それはサプライズな夕食の夜だった。漁師が潜ってとってきた水揚げされたばかりのロブスターを待つ。
しばらくするとバターとレモン汁でソテーされた茹で上がったばかりのロブスターが、大皿に盛られてサラダと一緒にでてきた。
 
キューバの海は日本を囲む海のように穏やかではない。岸壁にはいつも白い波しぶきが立ち、荒々しく島を打ちつけ波頭をつくっていた。
そんな荒波の海で育ったロブスターは実に身が引き締まっている。
 
あれはいつだったか、モルディブの島でナイト・ダイビングをしたことがあった。
ダイバー仲間が面白いものが見れるからと誘ってきたのだ。
4人で1組となって夜の海を潜った。水深30mまで潜ると、水温がぐっと下がり潮の流れが強くなる。
先にもぐったダイバーがふりかえって私に合図した。私も岩の下にもぐるとアッと息をのむ。深海のなかで無数の赤い目が光っていたからだ。
それは宝石のルビーのように美しい輝きだったが、一方でテリトリーを侵され、眠りを妨げた侵入者へ対する敵意にみちた目でもあった。
怒りにみちた無数の美しい目の輝きはその後もずっと頭からはなれなかった。
 
目の前のロブスターはむっちりと身がつまっていた。
添えられたレモンのかたまりをぎゅっと絞って、はじく白い身にナイフをいれ、口に運ぶ。バターのコクが淡白な肉と絡み合い、レモンの酸味が鼻孔にとどき食欲を誘う。舌のうえの咀嚼物をつかまえようと卑しいくらいに食欲が胃から駆けあがってくる。食べることがやめられない。
 
魚の旬などわからないが、ただもう命を食べているという実感のとりこになる。
潮の匂いは人の体液にどこか似ていて、ときおりすえた匂いが鼻孔をくすぐった。
のどに冷えた安物のワイン流し込むと、ゆっくりとロブスターのくだけた肉が胃に沈み込むが、いくらサラダやパンをかきこんでも一旦、火のついた食欲は止まらない。
そして自分はこんなに飢えていたのかと実感すると目頭があつくなる。
 
その時だった。
中庭の灯りとキッチンの灯りが同時におちてあたりが真っ暗闇になった。
 
闇におちても誰も物音一つたてない。
密告者の通告で警察の捜査の手がおよんだのだろうか。
 
玄関の入り口で、住人と話している男のスペイン語がかすかに聞こえてくるが何を話しているかわからない。
暗闇のなか誰も物音をたてない。いつ扉から警察が入ってくるかわからないので息をこらしている。
 
政府を裏切って、こっそり密漁され水揚げされたロブスターは飢えた外国人の胃袋を満たしていた。政府が利益を搾取するなら、市民も笑顔でしたたかにそれに応えて、おおらかに裏切るその気持ちも理解できる。
 
見つかれば私も罰金を払わされるか警察署に連行されるだろう。
私はむしろ最後の夜にこんなスリリングな舞台裏を見せてくれたキューバ人に感謝さえ覚えた。
 
人生でおこるすべてに意味があるとは思えない。
しかし人生に意味をなす何かを経験したいと思うからこそ、私は導かれるまま流れているのだ。
 
そしてこの期に及んでも私の食欲はしぼむどころか、目の前のロブスターが気になって仕方がない。連行されるかもしれない怖さよりも、残りのロブスターが取り上げられることに異常な執着を感じた。
これは私のロブスターだ!
私は履いていたサンダルをテーブルの下で脱ぎ捨てた。
 
キューバにいる間に食したものは、すべて土地の匂いと新鮮な命が結びつき、食の連鎖を感じさせてくれた。そのほとんどは簡素な家庭料理だったにも関わらず、自然の原色を目で味わいそして舌にわずかに残るけものの匂いを美味しいとまで思えるまでになっていた。
 
暗闇のなかにロブスターの鮮やかなオレンジ色の甲殻が浮かび上がる。そのなかに透明感のある真っ白の肉がまだのこっている。
暗闇のなかで私は指先で赤い殻からつるんとロブスターの身をむいてちぎる。
そして口へ運び、噛み切るとぶつぶつと繊維が切れるが、歯茎を押しかえすほどその弾力は図太い。
身をひきちぎる指先に白い身の弾力と温かさが手に残る。
暗闇のなかでなまなましい匂いが立ち上がる。
なんておいしいのだろう!
闇のなかで素手で食べる禁断の海の宝石。
数時間前まで生きて、意志をもって動いていた動物の体液の匂いが指にのこり、それを時々匂っては指先を舐めた。
 
その時、パッと庭に明かりがついた。
皆、まぶしそうに目を細めて周りをみている。
女主人が戻ってきて、もう安心してくださいと告げた。
 
そして私の皿にはもう何も残っていなかった。
手と口の周りがソースでベタベタになってだったので、すかさずナプキンで口を拭う。
一度脱いだサンダルをテーブルの下でごそごそと履いた。
 
そしてそろそろ迎えに来ることだと何事もなかったように席を立った。
 
あの奇妙な経験の後、私は本当に美味しいものは時折、素手で食べるようになった。
指先からも食感を味わえることができるとわかったからだ。
 
食材の美味しさは舌と目と匂いだけではなく、だまされたと思ってもっと自由に指先の感触も加えてみることをお勧めする。
完成した料理の皿に手を突っ込むはしたなさが、今までとは全くちがう美味しさへの気づきを生むかもしれない。
 
そうそう、最後にキューバは今やロブスター天国と呼ばれ、ロブスターは主要な観光資源になっているらしい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
月之まゆみ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

大阪府生まれ。公共事業のプログラマーから人材サービス業界へ転職。外資系派遣会社にて業務委託の新規立ち上げ・構築・マネージメントを十数社担当し、現在、大阪本社の派遣会社にて新規事業の事業戦略に携わる。
2021年 2月ライティング・ゼミに参加。6月からライターズ倶楽部にて書き、伝える楽しさを学ぶ。
ライフワークの趣味として世界旅行など。1980年代~現在まで、69カ国訪問歴あり。
旅を通じてえた学びや心をゆさぶる感動を伝えたい。

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2021-11-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.149

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