週刊READING LIFE vol.158

ぶちゃのいる風景《週刊READING LIFE Vol.158 一人称を「吾輩」にしてみた》


2022/02/22/公開
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
※この話は一部フィクションです
 
 
もうどれくらい歩いているのか、わからなくなってきた。
そしてここはどこだ?
 
お腹、空いた……。
なんだか、寒いぞ。
 
あ、あそこに、林がある。
あそこなら、大丈夫かもしれない。
ちょっと、行ってみようか……。

 

 

 

吾輩は猫である。
名前はちゃんとある。いや、正確に言えば、ちゃんとあった。
 
吾輩が生まれたのは18年前。といってもこれは猫の時間だから、人間の時間でいえば1年前らしい。人間の時間と猫の時間は違うから、たった1年で吾輩は18歳になっているようだが、正直若いのか年寄りなのかがよくわからない。話がややこしくなるのでここでは人間の時間で考えることにする。
 
最初は小さい箱の中のようなところに入れられて、その中をウロウロとしていた。
1ヶ月ほどして、突然身体を持ち上げられて部屋に移された。そこは前よりは明るくて、景色がガラス越しに見えるようになっていた。でもそれは限られた時間だけだった。
「ごはんだよー」
朝になって、ある時間になると一斉にあたりが明るくなる。しばらくするといつもおねえさんがやってきて吾輩の部屋にある皿に食事をくれる。水も足してくれる。腹を満たして少しのんびりしていると突然チャイムが鳴り出すんだ。そしてこんなことを言う。
「……おはようございます。本日はご来店いただきありがとうございます。開店のお時間になりました……」
ありがとうございますのセリフが終わっても音楽はそのまま流れている。するとどこからともなく人がわらわらと現れて、ゆらゆらと動いているのが遠くに見える。しばらくは何も変わりはなくて静かに過ごしているが、その静けさが突然破られる。
「ねえ、見てー! この子、かわいくない?」
「ほんとだー。まだ赤ちゃんでしょ?」
「だよね。……まだじっとしてる。あ、こっち見た! かわいい〜」
吾輩の部屋の前面がガラスになっていて、一日のうち、そこから必ずといっていいほど人がのぞき込む。初めはどうするのかよくわからなかったから、吾輩の部屋の前にくる人たちをぼんやりと眺めていた。
「……わぁ、かわいい〜。ほら、こっち、こっち!」
そのうち、吾輩の部屋のガラスをドンドンと叩く人も出てきた。もう、びっくりするじゃないか。そんなに大きくない人だ。そういうときは決まって大きい人がやってきて注意をしていた。
「あの、お客さま、猫ちゃんのガラスは叩かないでくださいね」
「ああ、すみません。……だめでしょ、『叩いたらいけない』ってここに書いてあるじゃない」
「はぁーい」
大きい人が小さい人に何か言っている。部屋のガラスを叩かれるとうるさくてどうしようもない。寝ていても起こされてしまうから、そういうのが来ると本当に迷惑だ。
 
吾輩の部屋のガラスから見える景色は毎日違った。ごはんをくれるお姉さんたち以外は誰一人として同じ人は来なかった。朝は静かに始まって、昼ごろは入れ替わり立ち替わり人がきて落ち着かず、また夜を迎えると静かに暗くなる。静か→うるさい→静かの繰り返しの日がしばらく続いた。そんな日常が変わるときがやってきた。
「ねえ、この子、かわいくない?」
「そうだね」
その日吾輩の前に現れたのは、若い男女の二人連れだった。二人は吾輩と、隣の部屋にいるアメリカン・ショートヘアとを見比べながら何か話していた。
「このアメショーがいいなあ」
「これ? いくら? 20万って、高いって。そんなに金、出せるのか?」
「……無理」
「だったらやめろよ」
「だけど、猫飼いたい。どうしても、飼いたいの」
「そしたら、この5万の子は? こいつなら安くていい」
二人は吾輩をじっと見ている。
「この子はチンチラとスコティッシュフォールドのミックス猫ですけど、かわいいでしょう? お求めやすいお値段になってますよ」
抱っこしてみますか? と、いつもごはんをくれるお姉さんが吾輩の部屋のドアを開け、吾輩を取り出した。二人に吾輩のことを説明している。
「ほんとだ、こっちの子もかわいいじゃない。ねえ、この子ならいいでしょ?」
「オレは面倒見れないぞ。お前、ちゃんと飼えるの? ちゃんと世話できる?」
「面倒、見るから。ちゃんとするから。ね、お願い」
「しょうがないなあ」
こうして吾輩は自分の部屋から出て二人と一緒に暮らすことになった。ペットショップの狭い部屋に閉じこもって毎日じっとして過ごすのはちょっと退屈になってきたところだったから、外に出られて吾輩はホッとしていた。

 

 

 

最初はよかった。
二人とも働いていたから昼間は吾輩だけだ。キャットフードと水さえあれば問題はないから、どちらかが帰宅するまで吾輩はひとりぼっちで過ごす。
「ただいまぁー、ロミオ! 寂しかった? ごめんねーいつも置いてけぼりで」
帰ってくると同時に女は吾輩を探して抱きかかえた。そして女は吾輩にロミオと名前をつけた。なんでもかっこいいのだそうだ。
「ロミオ、ごはんだよー」
キャットフードを食べる吾輩を見ながら、女は仕事の愚痴をよくこぼしていた。
「今日は、めっちゃムカついた客がいてさあ。めっちゃ腹立った。ロミオだけだよこんなこと聞いてくれるのは」
そう言って女は、吾輩を抱き上げると自分のベッドの脇に潜り込ませ、そのまま眠ってしまうのだった。
 
こうしてゆるゆるとした毎日は、永遠に続くかのように見えた。
しかしある頃を境に、吾輩のことを猫可愛がりだった女が次第に吾輩を遠ざけるようになっていた。女が帰ってきて吾輩がすり寄って行っても相手をしてくれないのだ。
やがて女は暇さえあれば寝込むようになった。
「お前、ロミオの餌、忘れただろ」
「あ、ごめん。朝から吐き気しかしなくて」
「お前が世話するって言っただろ」
「でも、気持ち悪くて何にもできないよ。しょうがないじゃん」
「いくらつわりだからって、オレは猫あんまり好きじゃないから餌なんてやらないぞ」
「えー、それ冷たくない? ひどい!」
「そんなこと言われたってお前が飼いたいって言うから飼ったんだぞ。ちゃんとやれよ」
女は男によく叱られ、その度にすまなさそうに吾輩の餌と水やりにきた。
「ごめんねロミオ。あんまり触ってあげられなくて」
そんなことを言いながら、でも女は吾輩に触れることはなくなった。
 
その次の週末のことだった。
男が吾輩を抱き上げて車に乗せた。どこに行くかもわからず揺られて、やがて車は止まり、男はドアを開けて吾輩を抱き上げた。
「ここなら川が近いし、まあいいか。……悪いなロミオ。お前だったら、そこそこかわいいから幸せになれるよ。じゃあな」
男は吾輩を段ボールに入れ地面に下ろし、そして去っていった。
(え、ちょ、ちょっと待てよ。なんで、ここに来たんだよ)
 
女は男の子どもを妊娠して、つわりで吾輩のことを一切受け付けなくなっていた。女と男は相談して、吾輩を家に置いておくわけには行かないと結論を出した。そして男は多摩川の河原に吾輩を捨てに来たのだった。
段ボールの中には、いつものキャットフードと毛布が入っていた。吾輩はフードを少し食べて、寝るしかなかった。もしかしたら女が「ロミオごめんね」と言いながら来てくれるんじゃないかと思っていた。でも、どんなに待っても、女は来なかった。

 

 

 

男が残していったキャットフードを食べ尽くした吾輩は、河原から脱出することにした。川べりだから水はあるけど食べ物がない。お腹が空いて、腹ペコで、とにかく力が入らない。
とぼとぼと歩き出してしばらくするとあたりが賑やかになった。いい匂いもする。もしかしたら食べ物があるんじゃないか? そう思って匂いの方に歩いて行くと、食べ物が道に落ちているじゃないか! ラッキー! 吾輩はその食べ物に駆け寄って夢中で食らいついた。
「野良猫だ! こら! あっち行け!」
コンビニの外に置いてあるゴミ箱からはみ出した、スティックパンの食べかけをガツガツ食べていた吾輩をオーナーが見つけたのだった。棒みたいなものを持ってぶたれそうなのがいやで吾輩は走り出した。
(腹が減ってて、誰も食べないからいいかと思ったのに、なんだよ! けち!)
そこから行った先で食べ物を探しては追い払われ、公園で子どもたちにあちこち撫でまわされておもちゃにされ、高校生には石を投げられ、その度に吾輩はその場所から移動していた。
(なんで吾輩がこんな目に合わないといけないんだよ! 吾輩が何したっていうんだ)
嘆いても吠えても状況は変わらない。誰も吾輩を迎えになんて来なかった。
(人間なんて、どんだけ勝手なんだ)
吾輩は怒っていた。自分を繁殖させたブリーダーに。うまいこと言って売りつけたペットショップのお姉さんに。自分を買い取って、散々猫可愛がりをした挙句にぽいっと捨てた男女カップルに。仕舞いには、人間という人間に。
怒りながらも、でも生きないといけない。生き延びるために吾輩は、自分の居場所を探し求めて雨の日も晴れの日も歩き続けた。
 
何日経ったかわからないくらいの日々が過ぎて、吾輩の目の前に林が現れた。
都会の中でも自然が残っているところはあるものだ。庭園の敷地の中にある、まだ残っている林があって、建物も適当にある。
(ここだったら、雨露をしのぐことができるかもしれない)
吾輩はしばらくここで寝泊まりすることにした。下手にずっと野宿だと誰にいたずらされるかわからないので、建物に匿われているような感じの方が吾輩にとっても楽である。そこで過ごして数日経って、吾輩の頭の上でこんな会話がされていた。
「……この子、野良猫なの?」
「いや、首輪はくっついているから、飼い猫じゃないの?」
「毛並みがきれいだし、人を見ても逃げないから、飼い猫かもしれないけどね。今度うちで飼ってる猫の餌持ってこようか」
「それいいよね。そうしてあげて」
建物は公共の施設で、声の主はそこで働く人たちだった。彼らは翌日水とキャットフード、そして皿も持ってきて、吾輩の前に置いた。久しぶりに見たキャットフードだ。わーい! 嬉しいな。キャットフードなんていつぶりだろう。吾輩はがつがつとフードを食べ、そして施設の林のなかを自由に散歩した。男女カップルに捨てられてからというもの、その日の食べ物にも困っていたのでありがたかった。結局吾輩は施設の人がくれる食べ物を毎日食べた。どんなに食べても食べてもお腹が空いていて、もっとくれ! もっとくれ! と言えるものなら言いたかったくらい、美味しかった。
「この子、よく食べるよね。たぬきみたい」
「毎日ここで過ごしているみたいだし、たぶんだけどどこかの飼い猫で、飼い主は事情があってこの子を手放したんだろうね」
「すごいぶちゃいくな猫ちゃんだけど、人懐っこいからすごい可愛いよね」
「普通猫って人を見ると逃げるのに、この子って近寄ってくるんだよね」
吾輩は、餌をくれるなら誰でもよかったから、ホイホイ近寄っていたけど、そういうふうに見えてたんだ。人懐っこいわけじゃないんだけどな。
「でもさ、この子、このままだとどこかに連れていかれちゃうんじゃない?」
「そうねえ、それは心配だよね」
「古田さん、この子飼えない? 確か保護猫さんを預かるボランティアしてましたっけ?」
古田さんと呼ばれた人も吾輩を見て悩んでいた。
「そりゃ飼ってあげたいのは山々だけど、保護猫の里親だからみんないずれうちからは離れていく。生半可な気持ちだけじゃ世話はできないよね」
「でも保健所に連れていかれて処分されたんじゃかわいそうよね」
「うーん、困ったね。ちょっと考えてみるわ」

 

 

 

翌日のこと。
古田さんが、何やら大きな箱を持っている。
「ほら、こっちおいで」
なんだろう。吾輩は古田さんの声のする方へ歩いて行った。箱の中に餌がある。いつものフードじゃなくて、鶏の匂いがするやつだ! 吾輩は一目散に箱に飛び込んでフードを食べ始めた、そのとき箱の扉が閉まった。
(また、箱に閉じ込められた!)
箱にはいい思い出はない。生まれた時に箱に入れられて、捨てられる時も箱に入れられて、そしてまた箱か! 今度はなんだよー!
「あう!」
吾輩はありったけの声で鳴いた。
「あう! あう! あう!」
鳴いても鳴いても箱は開かなかった。
「あう……」
鳴き疲れるまで鳴いたころ、箱がふわっと持ち上がった。また吾輩は、どこかに連れていかれるのだろうか。

 

 

 

「さあ、もういいよ」
ケージのドアが開いた。
「もう怖がらなくていいよ。おうちに着いたよ」
古田さんの声がする。吾輩は恐る恐るケージから出た。吾輩をロミオって呼んだ二人の家と少し似ている。
「マンションだから少し窮屈かもしれないけど、ここは自由だよ」
古田さんはそう言って吾輩に餌と水をくれた。
「保護猫ちゃんたちが今はいないから、保護してあげるよ。里親、見つけようね」
里親? なんだかわからないけど、吾輩はここならちょっとリラックスしてもいいのかもしれないな。あちこち歩き回っていると、古田さんがまたボソボソとつぶやいている。
「きみの名は、なんだろうね。なんにしようか。前の名前がわからないから適当につけるしかないな。そうだね……。きみは、ぶちゃかわな猫ちゃんだから、とりあえず、ぶちゃにしようか」
ぶちゃ。
まあ、それでもいいか。
吾輩はロミオって言われていたけど、でもそう呼ぶ人はもういないし、ぶちゃって気取らなくてわかりやすい気がする。
今日から吾輩は、ぶちゃだ。
ぶちゃとしての、人生じゃなくて「猫生」を生きるらしい。
生まれ変わって、ほっとしたら、吾輩にも楽しい猫生が待っているのかもしれない。いや、このまま古田さんちの子になってもいいかもしれないな。むしろそうしたいかしれないけどね。ぶちゃとして生まれ変われるんなら、なんでもいいや。新しい猫生を、ありがとう。そう呟くと吾輩はゆっくりとクッションに座り、目を閉じた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。
言いにくいことを書き切れる人を目指しています。

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2022-02-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.158

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