週刊READING LIFE vol.163

あの夜真っ白いモヤのなかで全裸ダンスしたお兄さんは、今何をしているのだろう?《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「事実は小説より奇なり」、という言葉がある。
現実世界で予期せぬことが起きれば誰にも口にする、徹底的に使い古された言葉だ。
 
それでも大人になった僕は思う。
あんなに不思議な夜を、僕は知らない。

 

 

 

2000年5月9日。僕はとてつもなく浮かれていた。
野球だ。野球のせいだ!
 
なんてったって、イチローだ!!!

 

 

 

当時小学3年生になった僕は、阪神ファン(というより、ただの激烈なアンチ巨人)の父の影響で、毎日野球に夢中だった。
 
当時はテレビの野球中継も、まだまだ元気だった。
必ずといっていいくらい、チャンネルを回せば地上波でジャイアンツの試合が放送されていた時代だった。
 
自営業の父は、きまって19時半になると、軽トラの音を響かせて帰ってくる。
そこからは毎晩、野球三昧だった。
地上波で試合がない日も大丈夫だった。
なぜなら、我が家にはBSもあったのだ!
 
だから僕はほぼ毎日、父とテレビを見て野球(というより、にっくきジャイアンツを倒すこと)に夢中だったのだ。父が取引先からもらってきたケーブルテレビか何かのプロ野球選手名鑑は、読みすぎてボロボロになっていたくらい、僕は野球を観るのが大好きだった。

 

 

 

ある日、そんな父が超特大のビッグニュースを持ってきた。
 
「おい、今度イチローが来ぅぞ!!」
 
——ナマで、イチローが見られる!!!
 
これは、正直都会の人にとってはとくべつ難しいことではなかったであろう。
当時、イチローはオリックスにいた。ホームタウンは神戸だ。試合の半分はビジターゲームだ。全国各地を飛び回っている。
 
しかもイチローは野手でバリバリのレギュラーだ。ほぼ毎日、試合に出る。運が悪くなければ、ナマで見ることは決して難しくない。
 
だが。
 
僕の住むところは、人口日本最小の県「鳥取」だったのである。
 
2022年現在、人口約55万人。
 
日本を100人しかいないひとつの村に例えたとき、鳥取村の人口は「ゼロ人」になるという。そんなひときわ不名誉な県である。
 
だからナマでプロ野球を見るなんて、結構とくべつなことだ。
 
いちおう幸いなことに、鳥取には2~3年に一回、プロ野球の巡業があった。
でも、その試合はだいたいセ・リーグだった。というより、中国地方で人気があるのは広島と阪神だということで、対戦カードはいつも決まって広島対阪神だったのだ。

 

 

 

ところが、今年はなんとオリックスだ。
あの超スーパースター、イチローをなんとナマで、それも鳥取の片田舎で見られるのである!!!

 

 

 

イチローが来ることを知った父の行動は、いつになく早かった。普段家族サービスをほっぽり出して子どもたちをどこにも遊びに連れていこうとせずパチンコに明け暮れている親父が、ここぞとばかりに発奮した。
 
速攻で、家族4人分のバックネット裏のチケットをとったのである!!
 
——イチローを、ナマで、しかも目の前で見られる!!!
 
僕はイチローが楽しみすぎて、「その日」がくるのを指折りかぞえて待った。
楽しみすぎて、日課の野球ゲーム「パワプロ」でも、そのときはオリックスばかり使ったぐらいである。
 
そして、ついにその日はやってきた。

 

 

 

時計はの針は18時を指した。20分後のプレイボールを目前にして、近鉄とオリックス、両チームのスターティングラインナップが発表されようとしている。
山陰地方で人気があるのは、基本、巨人・阪神・広島の3球団だけである。ぜんぶセ・リーグだ。だから両球団に罪はないが、山陰の人たちにとって、パ・リーグの選手にはそんなに馴染みがなかった。
 
まずは先攻、近鉄のスタメン発表だ。みんなが知っている「3番・中村紀洋」と「4番・ローズ」のところだけ、やや大きな歓声が上がった。
 
そして、オリックス。球団専属のスタジアムDJの、コールが始まる。
1番・田口。まばらな歓声が上がったあと、2番バッターの発表で沈黙。3番・谷で少し盛り返す。
 
……そして。
 
「4番、ライトフィールダ-。イッチロオオオ・スゥズゥキィィィ!!!!!」
 
獣のような唸り声が、そこかしこから上がった!!!
 
僕はもちろん、近くでタイガースの野球帽をかぶっている野球少年も。
後ろの席の、ヨボヨボのじいちゃんも。
斜め前の、きれいなお姉さんも。
 
心はひとつだった。
 
「いちろおおおおおおお!!!!!」
 
みんな腕を突き上げて、叫んだ!
 
一塁側も三塁側も、年齢も性別も価値観も、なにも関係なかった。
スーパースター登場のワンコールだけで、球場はひとつに溶けた。

 

 

 

試合がはじまった。
観衆は、イチローで完全に酔っていた。
 
もはや勝敗を超越した試合が、そこにはあった。
 
打てば喜び、抑えれば盛り上がる。
みんな、「野球」という行為そのものを、ただ純粋にたのしんでいるようだった。

 

 

 

そんな磁力のせいだったのだろうか?
 
ここから、次々と不思議な現象が起こりはじめる。
 
1回の裏。
 
近鉄の先発ピッチャー、前川の制球がまったく定まらないのである。
0回3分の2、被安打5、四死球5。とんでもない乱調であった。
 
最初は打線大爆発で喜んでいた観衆も、空気が変わった。
 
「あれ、これ。……もうイチロー、やる気なくなるんじゃ……?」
 
6点目ぐらいから、球場は葬式みたいな妙な空気に包まれた。この回でイチローが打ったのかどうか、もはや僕はよく覚えていない。
初回から走者一掃、前川はノックアウト。現在、8対0。ハチタイゼロ。
 
逆転するには絶望的な大差がついた。フォアボールまみれの、あまりにかったるい1回のオモテはようやく終わった。
 
おじさんたちはもう終わったも同然と、ビールを買いに売店へ殺到した。
女や子どもは、「あーあ」と苦笑しながらトイレに向かった。

 

 

 

ところが、である。次の回、オリックスの先発投手・川越も、なぜか突然打たれはじめたのだ!
 
気がつけば、近鉄はあっという間に7点をとっていた。
2回の表に、7対8である。今度は近鉄打線が大爆発。
いつの間にやら、1点差にまで追い付いてきたのである!!
 
——2回が終わって7対8なんて、こんなプロ野球の試合、誰も見たことがない。
イチローの酔いから覚めた観衆は、空前の逆襲劇を目にした。
 
僕らの興味はイチローひとりから、ようやく野球そのものに向いたのだ!!!
 
頭をかかえてうなだれる、オリックスの選手たち。
沈黙から一転、大賑わいの近鉄陣営。
信じられないものを見て狂気する、鳥取の人々。
 
鳥取の片田舎、米子の街で。
こんなに盛り上がることは二度とないくらいの、おおきな熱狂がそこにはあった。

 

 

 

2回のオモテが終わると、ようやく試合はクールダウンした。
夕日が沈むと、やわらかであたたかい、5月の風が舞った。
 
美しい初夏の夜が、観衆のほてりを心地よくほどいてくれた。
 
そして、3回のウラ。
 
ランナー一塁。
 
バッターは……、イチロー。
打席に入って何球目か、小柄な彼の腰が高速で回転した。
カミソリのように、鋭い一振りだった。
 
白球が、高々とまいあがっていく。
 
僕らの夢をのせたスーパースターの放物線は、あっという間にバックスクリーンへ吸い込まれていった!!
 
狂喜、乱舞。
総立ち、バンザイ、ハイタッチ。誰彼かまわず、何度も繰り返す僕ら。
 
「いちろおおおおおおお!!!!」の声が、そこら中でこだました。僕もきっと叫んだ。
 
日没とともに温度をうしなった初夏の風は、ふしぎな湿気とともに、もう一度熱を帯びた。

 

 

 

ついに事件が起きたのは、5回オモテの近鉄の攻撃が終わったころのことだった。
 
星空が、消えた。
 
あっという間のことであった。
 
雲とも煙ともつかない、「白いなにか」が、球場のまわりをつつんでいく。
 
「おい、何だぁ!?」
「ありゃあたぶん煙だ! 火事だないか!?」
「いったい、どげんなっとるだぁ!!!」
 
スーパースターの一撃に酔っていた鳥取の観衆は、口々に方言で騒ぎたてながら、みな夢から醒めた。白い空を見上げた。あっという間に周りも見えなくなってきた。口をあんぐりと開けて、呆然とするほかなかった。
 
ついに審判団が、試合を止めた。
場内のアナウンスが、緊迫感を高める。
 
——「場内の皆様にお知らせいたします。現在、原因不明の視界不良のため、試合を中断させていただきます!! 安全が確認できるまで、お客様は落ち着いて座席でお待ちください!!」
 
もう球場の周りは真っ白だ。「原因不明」の言葉に、あたりは騒然となった。
照明が煌々と照らされたグラウンドも、外野の遠くのほうはもう見えない。
 
小学生の僕は、不思議な事件にまきこまれた興奮と不安で、はしゃぎまくっていた。

 

 

 

真っ白い空間の中で、それから1時間以上、試合は止まった。
 
消防車のサイレンの音も、近づいてくる。
でも今のところ、炎は見えない。
妙な湿気はあるが、熱くはない。相変わらず、初夏の風が心地よく僕らの身体をつつんだ。
 
皆、唾をごくりと飲み込んで、ことの成り行きを静かに見守った。

 

 

 

やがて、不思議な現象が起こった。
 
なんと、観衆だった男どもが次々とフェンスを乗り越え、神聖なるグラウンドへ飛び出していったのだ!!!
チンピラのような男たちだったので、単に酒に酔ったのか、なにかクスリでもやっていたのかそれは分からない。
でもとにかく、男たちがグラウンドを縦横無尽に走り回っている!!!
 
それを見て大慌てで駆け出す、警備員のおじさんたち。
 
——プロ野球の試合の途中で、真っ白いモヤの中で、大人たちが本気で鬼ごっこしている!!!
 
観客はみんな、もうわけのわからない不思議な出来事の連続で、脳内のアドレナリンを大爆発させていた。
オニから逃げながらBGMに合わせて踊る男たちを目にして、僕らも大はしゃぎだ!
 
そして、次の瞬間。
 
——今度は全裸で踊りまくる男が、僕らの目のまえにあらわれた!!!
 
もう僕も周りのみんなも、大喜び。メガホンや手をたたき、大騒ぎ。
「ぎゃあっはっは、フルチンだぁーー!!!」
 
映画のような出来事の連続である。僕たちは完全に、頭がヘンになっていた。
 
全裸のお兄さんはたぶん、彼の一生分の歓声を全身で浴びていた。
お兄さんは、心の底から笑っているようだった。
今まさに、彼は自分の人生を「生きている」ようだった。
 
 
けれどもお兄さんは、さすがに一瞬で捕えられて姿を消えてしまった……。
 
僕らはこれ以上ない立派な犯罪行為を目にしながら、「あーあ……」とフルチン男に謎の肩入れしていた……。

 

 

 

しばらくすると、パトカーの音が聞こえてきた。
多分、順番にグラウンドの侵入者たちと、それからフルチンダンサー君を迎えにきたのだろう。
 
祭りは終わった。僕らの熱は急速にしぼんでいった。
みんなまた、あっという間に我にかえった。忘れられない夏が終わったような、キャンプファイヤーのあとのような表情だった。

 

 

 

結局、球場は白いものに包まれたまま、視界はいっこうに晴れなかった。そのまま、試合は打ち切りになった。
 
10対8、勝ったのはオリックス。
イチローの一発が、決勝点となった。
 
5回ウラ、「濃霧」コールド。
 
あの雲とも煙ともつかない白いものは、球場にふきつける海風から生じた「霧」だった。
イチローがホームランを打ったときのあの妙な湿気は、実はその前兆だったのだ。
 
僕たちは、びしょ濡れになることもなく途中で終わるという、不思議な野球の試合から覚めて家路についた。

 

 

 

今になって、思う。
 
スーパースターの一度きりの鳥取降臨、1回から2回の超乱打戦。
 
イチローの、あの美しいホームラン。
 
そして真っ白い霧の中で全力で、なんなら全裸で踊りまくった、あのお兄さんたち。
 
これ以上不思議な野球の試合が、いったいこの世どこにあるというのだろう?
 
まさしく、「事実は小説より奇なり」である。
 
だがしかし僕にはいまだに解明できていない、あの日の謎が一個だけ残っている。
多分、永遠に解けることはない問題だ。

 

 

 

——「あのフルチンのお兄さん……、今どうしているのかなあ??」
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

鳥取の山中で生まれ育ち、関東での学生生活を経て安住の地・名古屋にたどり着いた人。幼少期から好きな「文章を書くこと」を突き詰めてやってみたくて、天狼院へ。ライティング・ゼミ平日コースを修了し、2021年10月からライターズ俱楽部に加入。
旅とグルメと温泉とサウナが好き。自分が面白いと思えることだけに囲まれて生きていきたい。

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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