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週刊READING LIFE vol.163

絶望に寄り添う黄色のタンポポ《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
辛いとき、一人で抱え込んでしまうことはありませんか?
周りに言えば心配させてしまう。このくらい、大丈夫。
そんな風に考えて、心の奥底にギュッと蓋をしてしまったことはありませんか?
ところが、閉じ込めた想いは、実は知らぬ間に底に張り付いてしまうことがあります。
そして、ふとした瞬間に浮き上がってくることがあるのです。
 
けれど心が痛いとき、想いに共感してくれた人がいたらどうでしょう?
辛い気持ちは変わらないかもしれないけれど、その人の暖かさや笑顔が、たまに浮き上がってくる冷たい欠片を膜のように包み込んで覆ってくれるのです。
だから、そんな人がいてくれたおかげで辛さが軽減されることもあるのです。
 
30代後半になっていた私は、焦っていました。フルタイムで働いていた私は、仕事と家事と育児をこなすことに必死になっていました。毎日が走っているようなもので、いつ何かに躓いて転んでもおかしくない状況でした。
 
はたからみれば、日常をこなしているだけだったことでしょう。仕事をこなし、昼休みには急いで昼食を取り、余った時間で近所のスーパーに走っていきます。そんな暇がないときは、仕事終わりにダッシュで買い物を済ませ、子どもの学童保育所の預かり時間ギリギリに滑り込みます。
家に帰ってもやることは山のようにあって、いつも落ち着かなかったことを覚えています。もう少し子どもが大きくなったらと、そればかりを考えていたような気がします。
 
そんなとき、一人っ子だった娘がしみじみと言った言葉に、私はハッと胸を突かれました。
「私はきょうだいが欲しい。どうして私には弟や妹がいないの?」
正直、困惑しました。私だって、本当は3人くらい子どもが欲しいと思っていました。けれど、現実には子供一人で私は手一杯なのです。しかも婦人科の手術もしていた私は、二人目を望む願いも、授かるという可能性も頭の中になかったのでした。
 
夫に相談してみると、実は夫も二人目を望んでいることが分かりました。再び私は困惑しました。私も、頭では娘にきょうだいがいればいいと思ってはいました。けれど現実問題として、子どもが増えることで自分の負担が増えることと、そう簡単に授かれるのだろうかという不安で、私は自分の気持ちが分からなくなってしまいました。
 
30代も後半になると、妊娠率はぐんと下がります。どうするか悩みつつも妊娠が可能かどうかだけでもと思い、婦人科で調べてもらうことにしました。
結果として可能性はあるということで、そこで私はホッと安堵しました。可能性がないなら諦めるしかないけれど、希望はあるというのです。そのことは、私の背中を押してくれました。大変かもしれないけれど、娘にきょうだいができるかもしれないという希望は、私の心を明るくしてくれたのでした。
 
そうして、私の不妊治療が始まりました。初めてのことだらけで、なかなか気持ちと理解がついていきませんでした。治療は私の体のサイクルに合わせて行われるため、先生が指定する日に通院しなければなりません。フルタイムで仕事をしていた私には、そのことも負担になっていました。忙しかったり大事な仕事があったりする日に休むのは気が引けます。何とか仕事の調整をつけ頑張って通っていましたが、その病院のやり方や対応が私には合わず、先生に質問するのも遠慮がちになりました。
 
私は、次第に疲れ果てていました。不妊治療は、体力も精神力も必要です。一旦上手くいったかに見えても、結果がダメで奈落の底に落とされることを繰り返すのです。そんな月日が過ぎていくことに、焦りが増していきました。40代に差し掛かっていた私には、年齢的に時間がないのです。けれど結果が伴わず体力もついていかない私は、ついに治療を中断することになってしまいました。
 
私は、以前別の病院で婦人科の手術を受けていました。その定期検診の日、私は不安を主治医の先生にこぼしました。すると先生は、病院を変えてみるのも手だと言いました。先生の友人で、腕の良い婦人科の先生がいることを知った私は、通うのに遠くなるけれど試しに行ってみることにしたのでした。
 
その病院は、予約の取れない不妊治療専門の婦人科として有名でした。タイムリミットが迫る私は、主治医の先生の後押しのおかげで、いち早く受診予約を取ることができたのです。都会の立派なビルの中にある病院は、おしゃれすぎて入るのに少し戸惑いました。扉を開くと何か良い香りがして、受付の方も親切な対応で迎えてくださって、不安で押し潰されそうな私は少し安心することができました。
 
診察室に呼ばれると、先生は私を椅子から立ち上がって迎えてくれました。
「正直に言いますと、可能性があったとしても年齢的に後がありません。あと1、2回チャレンジできるかというところです。だから引き際も一緒に考えましょう」
そう穏やかに言う先生の姿を見て、私は来てみて良かったと思いました。一緒に考えましょうと言ってくれて、可能性ばかりでなく正直に状況を伝えてくれた姿に信頼できると感じたのです。治療が事務的でなく、私の気持ちに寄り添おうとしてくれている心構えに安心感が持てたのでした。
 
私が安心したのは先生だけではありませんでした。担当してくれた看護師さんも、温かかったのです。Iさんという看護師さんはいつも笑顔が素敵で、私が通院している期間、何かと気配りをしてくれる方でした。
Iさんは、私が病院に着くとすぐに声をかけてくれ、体に負担のかかる治療のときも可能な限り気分を和らげてくれるのでした。治療が終わっても、帰りに美味しいものでも食べて笑顔で家に帰ってねとお店を教えてくれたり、自宅で打つ注射の扱いに私が戸惑わないように細かいメモをつけてくれたりと、こちらがその心配りに感心することばかりでした。
 
今までは辛いことの多かった治療が、Iさんに会えると思うと通院が楽しくなっていきました。Iさんの注射はあまり痛く感じなかったし、分からないことはすぐに確認して教えてくれ不安を取り除いてくれました。親切な看護師さんは他にもいたけれど、私にとってIさんが忘れられない人となったのは、この病院で2回のチャレンジが終わり、先生の言葉を借りるならば引き際を考えながらも、最後の泣きの1回に挑んだときのことでした。
 
これでダメならもう終わろう。この病院でダメだったら仕方がない。そう思っていた矢先に、なんと妊娠することができたのです。結果を報告してくれた時の先生の顔が、思ったよりも冷静だったのが気になりましたが、Iさんは私の手を取って涙ぐんで祝ってくれました。
 
私は浮かれてしまいました。もう43歳になっていました。妊娠率が10パーセントを切ると言われていた年齢で奇跡が起きたのです。何としても無事に出産したい。やっと娘にきょうだいができる。足かけ7年の治療にようやく終止符を打つことができるのです。重い肩の荷が下りた気がしました。しばらくして母子手帳を発行してもらい、娘を産んだ地元の産婦人科に転院して経過を見てもらうことになりました。エコーでまだ不思議な形の我が子が動いているのを確認し、いつでも見られるようにエコーの写真を手帳の一番上に挟んで、仕事の合間に見返していました。
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ところが次の受診で、地元の産婦人科の先生が発した言葉に私は耳を疑いました。
「心拍が停止しています。もう難しいでしょう」
そんなはずはない、と思いました。この間まで元気に動いていたのです。失礼だけれど、先生の見間違いかもしれないと思い、もう一度診てもらうようにお願いしました。けれど、先生はかぶりを振りました。残念だけどできることがないと言われ、私は頭が真っ白になりました。だって、私にとっては最後のチャンスだったのです。そう簡単に諦めるわけにはいかないのです。あとのことは、Iさんのいる病院の方に引き継ぐということで、私は再度都会の病院へと向かうことになりました。
 
病院に着くと、ちょうどIさんは不在でした。誰にも不安を吐き出せず、私はボーっとして待合室の椅子に座っていました。亡くなってしまった赤ちゃんをお腹から出す手術が必要だと先生に言われ、妊娠を告げたときのあの先生の顔は、こんな可能性を心配してのことだったとようやく合点がいきました。
 
手術当日、Iさんが私の担当になってくれました。個室に案内されると、私はIさんに想いをぶつけました。ここに来ても、私はまだ諦めていませんでした。きっと何かの間違いであってほしいと思うあまり、あの時の私はちょっとおかしくなっていたかも知れません。あり得ないことに縋って、何とか自分を保とうと必死だったのかもしれません。
Iさんも泣いていました。そのまま麻酔が効いて私が眠るまで、Iさんは私の手をしっかりと握りしめてくれました。
 
目が覚めると、赤い目のIさんが私の横に座っていました。
「あなたのせいではないですから、自分を責めないでくださいね。赤ちゃんもそれは望んでいないし、お母さんが笑っている方がうれしいはずです。だから、ここでたくさん泣いていってください」
目が合うと、Iさんは私に深く何度も頷きながら絞り出しました。
 
Iさんが言うまでもなく、私はすでに何度も自分を責めていました。私が至らなかったせいなのだと、何かにつけ理由探しをしなければ居ても立っても居られなかったのです。せっかく授かった命を無事に産みだすことができなかった自分が、歯痒くてなりませんでした。どんなに落ち込んでも赤ちゃんは帰ってこない。そう分かっていても、ついつい自分を責め続けていたのです。
 
Iさんの言葉に、私の涙は一気に溢れました。我慢しなくていい。泣きたいだけ泣いてください。Iさんは自分も泣きながら、私にそう言いました。
そうして、どの位の時が経ったでしょうか。その間、Iさんは私の背中を優しく撫で続けてくれました。涙が乾き、頭が空っぽになるまで、Iさんは私に寄り添ってくれました。
 
病院の帰り際、まるでIさんが手術を受けた人のようになっていました。顔色悪く、私に痛々し気な笑顔を見せるIさんに、今度は私が心配になりました。Iさんは仕事柄、私のような人をたくさん見てきたに違いありません。その度に心を痛め、その人に寄り添ってきたのだと思うと、私が切なくなりました。患者が喜べば一緒に喜び、辛い時にはその人と同化するくらいに痛みを分かち合うIさんは、きっと今までもたくさんの想いを受け止めてきたのでしょう。
 
看護師さんという職業は、辛い症状や状態の人をケアする仕事です。ですが、心身ともにサポートしていくことは、並大抵のことではありません。看護師さんの元に来る人たちは、基本どこか具合が悪い人たちなのです。辛い話を聞く機会も多い筈なのです。そして、Iさんのように全身で患者さんを受け止めるような人は、自分も余計に苦しくなる筈なのです。
 
けれど、あのときIさんが居てくれたから、私は救われました。自分の痛みで自暴自棄になっていたハリネズミのような私を、柔らかく包んでくれたのがIさんでした。あそこまで寄り添ってくれる看護師さんに出会えたからこそ、私は我慢せずに子どものように泣くことができたのです。
 
Iさんは、厳しい冬に耐え、根を深くおろして真っ直ぐに咲くタンポポのような人だと思いました。その強く明るい姿に励まされ、癒された人がどれほどいることでしょう。Iさんに影響されて、私は人との向き合い方を考えるようになりました。上辺だけの優しさはすぐに分かります。Iさんのようにはいかないけれど、もっと自分ができることがあるのではないかと思うようになりました。
 
あれから、早いもので6年が過ぎようとしています。
あのとき、娘は自分がきょうだいを望んだばかりに、私を辛い目に合わせてしまったと後悔していました。でも、そうではないのです。私が、娘と生まれてくる筈だった弟や妹と一緒に過ごす姿を見たかったのです。
 
今でも冷たい欠片は、たまに心に浮かんでくることがあります。けれどそれと同時に、私の背中をさすってくれたIさんの姿も浮かんでくるのです。そして、またたくさんの人に寄り添っているであろうIさんを思うと切なくなるのです。
 
優しすぎるがゆえに、たくさんの人の想いを背負ってくれるIさん。きっと強い人だとは思うけれど、そのことでどうか自分を痛めないでほしいのです。患者からすれば心強い看護師さんは、心をすり減らしているのではと気を揉んでしまうのです。そんなことを言えば、Iさんは笑って「そんなことないですよ」ときっと言うのでしょう。
 
身を以って、私の痛みを共に背負ってくれたIさん。今でもあの場所で奮闘しておられることでしょう。そして、不安な患者にとってのタンポポであり続けておられることでしょう。そして、いつかまたお会いできたとき、あのとき私がどれだけ励まされたか、今度は笑顔で伝えたいと思うのです。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

福岡県在住。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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