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週刊READING LIFE vol.163

私が恋した一本の補助線《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:いむはた(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
恋の絵を描くとしたら、あなたはどんな絵を描きますか。
 
灰色の日々に咲いた一輪の桃色の花でしょうか。それとも、どこまでも果てしなく続く色とりどりのお花畑でしょうか。緑あふれる静謐な森を思い浮かべる人もいれば、ギラギラと輝く太陽とまっ青な海という人もいるでしょう。
 
幸せな恋、悲しい恋、忘れられない恋、忘れたい恋、どれをとっても、おなじ色は一つとないでしょう。恋といえば、誰もが胸を熱くし、恋と聞けば、胸が苦しくなり、誰しもが共有する感情だのに、紡ぎ出されるのは違う色、違う景色。恋というのは不思議なものです。
 
それは、私にとってもおなじことです。これまでの約半世紀の人生、色々な恋がありました。真夏の太陽のように情熱的な恋もあれば、落ち葉を踏む音しか聞こえない、そんな静かな恋もありました。どの恋も、私に違う絵を描かせてくれることでしょう。ただ一つ、あの恋を除いては。
 
そう、あの恋は、絵を描くには、あまりにも壮大で、あまりにも一瞬でした。私の世界を変えてくれたといっても、決して言い過ぎではないでしょう。それまで平面だった私の世界が、せりあがるように、どこまでも果てしなく続く高さをもっていくように、そう、あの恋は、それまで地面の上を歩いていた私を、空高く連れて行ってくれたのです。そして、あっという間に消えていったのです。
 
これは、私にとって、いまでも忘れられない、初恋の話です。
 
その女性は名はN美さんと言いました。彼女との出会いは、いまから三十年以上前、大学一年生の頃の話です。いや、正確に言うのなら、私の二回目の大学一年生の頃の話です。というのも、私は、大学の一年目、全く大学に行くことなく、留年となってしまったからなのです。地方から東京の大学に合格したものの、華やかな都会の生活になじめず、自分の部屋に引きこもっていたからです。
 
こもった部屋ですることと言えば、自分と誰かを、そして、誰かと誰かを比較するばかり。できる、できない、すごい、すごくない、かっこいい、かっこ悪い、頭の中には、そんな二つの軸がそそり立っていました。そして、自分の方が先んじているとなれば、これならやっていけるのではと、暗がりから出ていく自信を得て、反対に、誰かの後塵を拝しているとなれば、やはり自分には無理だと再び穴に戻るのでした。
 
ただ、季節というものは不思議なものです。寒かった冬が終わりに近づき、空気に春の気配が漂い始めると、冬眠していた熊が自然と穴から出るように、私の心にも変化が起きました。大学に、もう一度行ってみたらどうだろうか、そんな風に考えるようになったのです。
 
一年ぶりに戻った大学は、新入生歓迎ムードでいっぱい、いたるところで行われているサークルの勧誘活動に、私も新入生を装って説明を受けていると、声をかけられたのが登山サークルでした。話を聞くと、活動は登山だけでなく、無人島探検、自転車日本一周、海外貧乏旅行と、登山サークルと呼んではいるけれど、何をするのも自分次第ということ、一年間の引きこもり生活からの変化を求めていた私は、すぐに入会を決めました。
 
その日の夕刻、さっそく全体会議があるということで、待ち合わせ場所に着くと、数人の新入生とともに、連れていかれたのは居酒屋、全体会議という名の新人歓迎会でした。中に入ると、あわせて三十人ほどの先輩たちが、ずらりと座っています。日焼けで真っ黒、ひげ面のいかにもといった山男から、カラフルなアウトドアウェアに身を包んだおしゃれな男、それから、不釣り合いなほどきちんと格好をした女性がいました。そして、招かれるまま、座った席で隣になったのが、N美さんでした。私の一つ上の先輩でした。
 
こんな風に言うのは大変失礼なのですが、初めて会った時のN美さんの印象は、目立たなく、地味でした。山に登る女だから、と妙に納得したのを覚えています。ほかの女性の先輩たちが、着飾っているのに比べ、N美さんは、ベージュのニットに、洗いざらしのジーンズといったシンプルな服装。肩までの短い髪に、化粧は軽くしている程度と、飾り気がありません。真っ白な肌が、その印象をさらに薄くしていたのかもしれません。
 
ただ、話を始めると、その印象がガラリ、と変わりました。私が自己紹介を始めると、そのひとつひとつを、丁寧に、両手でそっとすくい上げるように聞いてくれるのです。私が、去年までの自分のいきさつを説明をすると、おもしろい、大学に入って、はしゃいでいる人ばかりなのに、あなたのように、自分と向きあって過ごすなんて、それはすごいことだと言ってくれました。
 
いやいや、決して、そんな立派なものではないですよ、一人でうじうじと考え込んでいただけですよと、と言いながらも、気を良くした私は、それでは、N美さんの大学一年間は、どんなだったのですかと尋ねると、それは、私のそれまでの女性に対する考えがひっくり返るほどのものでした。
 
自分の将来の夢は、国連職員、もしくは、地元に帰って地方公務員。レベル感が全然違うと思うかもしれないけれど、自分の中では全く同じ、人のためになる仕事をしたいと思っている。いまは、開発経済学と自然保護に興味があって、去年は、夏はイギリス短期留学、春休みは、同級生の女友達と二人で、中国を一か月間、貧乏旅行をしてきた。趣味もかねて、山にもたくさん登ったということでした。
 
おもしろい、私は思わず聞き入ってしまいました。どの話も、初めて聞くような話ばかりでした。いや、いま思えば、N美さんの話し方が、おもしろかったのだと思います。どんなにちいさな話でも、彼女の表情や身振り、そして感情が加わることで、色、深み、そして、高さが増していくのです。ときには、命を吹き込むように活き活きと、ときには、命を慈しむかのように優しくひっそりと。彼女はまるで、平面図に加えられた一本の補助線のようでした。たった一本の線によって、扁平だった世界が、立体という名の命を宿していくかようでした。
 
N美さんは、私が知っているどの女性とも異なりました。もちろん、それまでにも、何人かの女性とはお付き合いをすることがありました。ただ、心の底から楽しいと思ったことは、あまりなかったのです。ただ、彼女は違いました。あぁ、女性とでも、こんなにも楽しい話ができるのだなと、ほんとうに驚かされたのです。
 
しばらくすると、N美さんは、ほかの新入生にも挨拶をということで、席を移っていきました。私の周りにも別の先輩がやってきました。ただ、そんな彼らと話しながらも、私はN美さんの姿を目で追っていました。ときに目を輝かせ、ときに優しく微笑むN美さんを。彼女はどこにいても、だれといても、そこに花を咲かせられる人でした。
 
ただ、その後、N美さんと私のあいだには、なんの進展もありませんでした。そもそも大学のキャンパスが違っていましたし、サークルも、毎日なにかの活動がある訳ではありません。彼女と会う機会自体が、ほとんどありませんでした。
 
そんな私が楽しみにしていたのが、一ヶ月に二度ほど行われるサークル全体での飲み会でした。めったにないN美さんに会える機会と、私は欠かさず出席をしていたのですが、ただ、こちらもキャンパスが離れているという理由か、N美さんの出席率は低く、多くても月に一度、それ以上の間隔が空くことがありました。
 
けれど、どれだけの間が空いたとしても、会って話すときのN美さんはN美さんのままでした。会えなかったときの空白を埋めようと、それまでの毎日を話す私を、彼女は、それ、おもしろいね、もっと聞かせてほしい、と活き活きとした目で促してくれました。彼女のその目を見るたび、私は自分がほんとうにおもしろい人間になったかのように感じたものです。無色で平板だった私の人生が、色を帯び、そして、高みを持っていくかのように感じたのです。
 
そして、今度はそちらの番ですよとN美さんの話を促すと、いつも彼女独自の新しい世界を見せてくれるのです。それは、いつかの夏にと計画しているヒマラヤトレッキングの話であったり、途上国支援のためには、現地で学ぶ必要があるのではと調べ始めたアフリカの大学の話だったり。かと思うと、先日の帰省したときにねと、彼女の地元名産の漆器の美しさを語ってくれるのでした。
 
もちろんそんなN美さんのことを、誰もが放っておくはずはありません。あちこちの席から声がかかり、それぞれの空白を持つそれぞれのメンバーが、N美さんと話すことで、その穴を埋めようとしているかのようでした。いや、きっと、それだけでありません。彼女と話すことで、誰もが視線が上がるような、空を覆っていた雲がはれていくような、そんな気分を感じていたのでないでしょうか。それは、地面から芽吹いたものの、行き先を失い、はいつくばっていた植物の蔓たちが、N美さんという支え木を見つけ、空高く成長していく道筋をつけていくかのようでした。
 
そんな憧れにも似た感情を持ったまま、一年ほど過ぎた頃でしょうか。季節はもう冬になっていました。いつものように飲み会があり、N美さん、N美さんの一番の仲良しのS子さん、そして私を含む三人は、酔っ払ったまま、飲み会の勢いそのまま、にぎやかに電車に乗り込みました。ただ、周りにいる他のサークルメンバーも、私たちに以上に騒々しく、それぞれの小さな集団が、それぞれの世界に没頭していました。私の耳に聞こえてくるのは、N美さんとS子さんの声、それから、電車が走る音と混じりあった、意味をなさない周囲の声でした。
 
そのときのことでした。S子さんが。突然こう言ったのです。「ねぇ、N美、最近、X君と付き合い始めたんだよね。どう?」
 
それを聞いたとき、私がどんな反応をしたのか、あまり思い出すことができません。X君というのは私の知らない人でした。へぇ、X君というのは、どんな人なのですか、どうやって知り合ったのですか、と知りたくもない質問を、むやみに繰り返していたように思います。喉がひりひりと渇き、騒がしい周囲の音の中、自分の声が他人のようでした。
 
その後、サークル仲間と別れ、家に着き、お風呂に入りました。静かに、とても静かに、時が流れていきました。そして、一人、布団に入ったときのこと、ふと思ったのです。あぁ、私は、N美さんのことが好きだったのだな、と。ずっとずっと、初めて会った、新人歓迎会のあの瞬間から、これまでずっと、好きだったのだなと。
 
そのことに気づいたとき、今日の電車でのことが、S子さんのあの話が、とても悲しいことに思えてきたのです。プツリ、いつまでも続いていく、自分勝手にそう信じていた線が、突然、途切れてしまったようでした。
 
これまで、女性と付き合ったことはありました。もちろん、彼女たちのことを好きだったことには間違いはありません。ただ、どこかで好きという気持ちに、きちんと焦点があっていないというのか、私の中で、ぼんやりとした映像を結ぶだけだったのも事実でした。けれど、あの日、初めてわかったのです。これが人を好きになるということなのかと。好きな人が、他の誰かと付き合っているということが、これほどまでに辛い、それが恋というものなのかと。
 
その後、N美さんとは、そのままの関係が続きました。もちろん、私の思いを伝えることなどはありませんでした。彼女はどこまでも聡明で、どこまでも控えめで、でも、同時に、どこまでも情熱的な人でした。そして、果てしなく、どこまでも高く昇っていく人でした。
 
そして、そんな彼女を見上げるように、そんな彼女に少しでもついていきたいと、私は、少しずつ、少しずつ、世界を広げ、高みを目指していきました。本当に私が求めているものはなんだろうと、自分なりに旅に出かけ、自分なりの答えを見つけようと勉強を始めたのでした。N美さんが引いてくれた、一本の補助線が、それまでの平板な人生に、立体的な命を与えてくれたのでした。
 
大学を卒業した後のN美さんのことは、よくわかりません。ただ、いまでも、空を見上げると、N美さんのことを思い出すことがあります。彼女は、ほんとうに色々なところに顔を出すのです。それは、どこまでも登っていく真夏の入道雲だったり、まっ青の空に走る一本の飛行機雲だったり、それから、夕日に照らされた、秋の羊雲だったり。
 
そのどれもが、やっぱり、いつも情熱的で、まっすぐで、でも、すぐに消えてしまいそうに、はかなくて、それから、優しいのです。だから、そんな空をみるたびに、私は思うのです。あの頃のように、私ももう一度、本当の自分の見つけてみよう、自分なりの旅に出て、自分なりの答えを見つけようと、決意を新たにするのです。
 
長くなりましたが、これが、私の初恋の思い出です。好きだと気づいた時には、もう終わっていた初恋の話です。いま、あのときのことを思い出してみても、聞こえるのは電車のガタガタという音、そして周囲の騒々しい話し声だけです。あの瞬間、私にとって、世界は意味を失い、そして、同時に新たな意味を持ち始めたのです。そして、N美さんの引いてくれた補助線が、いまでも私を高みへと導いてくれるのです。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
いむはた

静岡県出身の48才
大手監査法人で、上場企業の監査からベンチャー企業のサポートまで幅広く経験。その後、より国際的な経験をもとめ外資系金融機関に転職。証券、銀行両部門の経理部長を務める。
約20年にわたる経理・会計分野での経験を生かし、現在はフリーランスの会計コンサルタント。目指すテーマは「より自由に働いて より顧客に寄り添って」

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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