週刊READING LIFE vol.163

若くして散ったヒーローと、交錯した一つの命《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:山田THX将治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
毎年5月1日に為ると、F1関係のSNSやWebサイトが、或る書き込みで埋め尽くされる。
それは、1994年5月1日にイタリア・イモラサーキットで、一人のチャンピオンレーサーが、レース中のアクシデントで逝去してしまったことに対する追悼の書き込みだ。
 
チャンピオンの名は、アイルトン・セナ。享年34歳のブラジル人ドライバーだ。彼は私とは同世代、1960年生まれだった。私は、彼を贔屓することに躊躇いを必要としなかった。
アイルトンは、日本のHONDAエンジンを駆る活躍で、特に日本でファンが多かった。ハンサムな風貌から、当然女性から愛されていた。
現代でも、アイドル的人気の俳優やスポーツ選手を、日本の女性は『〇〇様』と表現することが多い。当時を知る私は、アイルトン・セナこそがその第一号だったと記憶している。
彼が生前、テレビ番組『笑っていいとも!』の生中継に予告なく登場したことがあった。生放送だったので、アイルトンの所在を知った近郷近在の女性達が、一気に新宿のスタジオアルタ前に集まってしまった。当然現場はパニック状態となった。世界一の乗降客数を誇る新宿駅前は、一時、通行止めとなってしまった程だった。
何しろ辺り一面は、外へ出て来たアイルトン・セナに向かって『セナ様ぁ―!』『セナ様ぁー!!』の嬌声が渦巻き、阿鼻叫喚(あびきょうかん)と為っていたからだ。

そんなアイルトン・セナはあっけない位に、我々F1ファンの目の前で天に召された。現場は勿論、テレビ中継を通じて何億人ものファンが、経験をしたことのないショックに襲われた。何しろ、人気絶頂期のチャンピオンが、突然、この世から姿を消したのだ。
ポールポジションから飛び出したアイルトンは7周目、1994年5月1日14時17分(現地時間)、イモラサーキットの“タンブレロ”と呼ばれる超高速左コーナーで、突然マシンのバランスを失い、右側のコンクリート・ウォールにクラッシュした。コーナー進入時の速度は、コンピュータ解析上では312kmだった。ウォールにクラッシュする寸前に急減速したものの、激突時の速度は220kmと推定された。後日のことではあるが。
だた、映像を観ていた世界中のF1ファンは、只事では済まされないアクシデントであることが認知出来た。それ程、凄まじい惨事だった。
レースは中断と為り、アイルトン・セナはバラバラと為ったマシンから運び出された。
私を始め全てのファンは、ただただ彼の無事を祈るばかりだった。
テレビの中継は、繰り返しクラッシュシーンを映し出していた。

1時間程の中断の後、アイルトン不在のままレースは再開された。中継は、アイルトン以外の選手達によって競われるレースを映し出していた。
私は全くレースに集中出来なかった。ただボンヤリと、テレビモニターを眺めている状態だった。
 
すると突然、レース映像が中断された。
画面には、速報のテロップと共に、フジテレビの三宅アナウンサーが涙をこらえながら、現役F1チャンピオンの訃報を告げた。
私と同じくアイルトンと同世代の三宅アナウンサーは、その衝撃の中、刻々と届く続報を読み上げていた。しかし何とか、プロとしての矜持を示していた三宅アナウンサーだったが、遂に、
「すみません」
と、一言告げると、中継画面の中で声を上げて号泣した。隣に映り込んでいた解説者達も、嗚咽を堪えることが出来なかった。
いい歳をした大人が、ただ涙しているだけの画面だったが、誰からも苦情が出ることは無かった。多分、日本中のF1ファン、そしてアイルトンを愛する女性達は、皆同じ気持ちだったのだろう。
悲しみに暮れるというより、悲しみを共感することでしか、各自の感情をコントロールすることが出来なかったのだ。
 
『音速の貴公子』は、光速で私達の前から姿を消してしまった。
何のメッセージも残さずに。
 
アイルトン・セナが亡くなってからというもの、私は彼がクラッシュした時と同じ左カーブに差し掛かると、そのまま壁にぶつかるのではというトラウマが残ってしまった。
左カーブに差し掛かると、掌に異常な程の汗が浮かんで来た。
私は暫くの間、左カーブは右に比べて格段に減速する様に為っていた。
 
 
アイルトンとは一歳違いの私は、彼のレースシーンを初めて実際に観た1987年以来毎年、三重県の鈴鹿サーキットで行われる、F1日本グランプリを観戦していた。
毎年毎年、信じられないスピードでHONDAのマシンを走らせる、アイルトンのアクセルワークに眼と耳を奪われていた。
そしてまた、それが私の、例年秋の楽しみでもあった。
突然彼に旅立たれた私は、鈴鹿サーキットで想い起されるセナの幻影を消し去ることが出来なかった。何度も何度も、黄色地に緑と黒のラインで彩られた、忘れ得ぬセナのヘルメット(勿論、日本製)と、『音速の貴公子』と呼ばれた別次元のドライビング・テクニックを想い出していた。
 
こうしていつしか、故・アイルトン・セナは、私だけでなく日本のF1ファンにとって、永遠の英雄(ヒーロー)となった。
 
 
アイルトン・セナが急逝した同年同月同日、即ち1994年5月1日、イタリア・イモラから遠く離れた日本・北海道沙流郡平取町に、一頭のサラブレッド牡馬(ぼば)が誕生した。
アメリカのレースで活躍した漆黒色・青鹿毛(あおかかげ)の父馬と、同じくアメリカから繁殖用に輸入された褐色・鹿毛(かげ)の母馬の間に誕生したその牡馬は、サラブレッド(競走馬)としても小柄だった。
しかも、毛色が両親どちらとも違う黄褐色・栗毛(くりげ)で、生産牧場の関係者を少なからず落胆させた。両親どちらかの毛色を引き継がずに誕生した仔馬は、血統も引き継げないとする競馬界の伝統的考えが有るからだ。
 
生産牧場で育てられた栗毛は、滋賀県・栗東(りっとう)の調教師に預けられることに為った。
小柄ながら、栗毛馬に光るものを感じた調教師は、慎重に訓練を課していった。
デビュー戦は、難なく勝ったその栗毛はその後、勝ち上がりに苦労する。サラブレッドにとって一生一度の晴れ舞台である日本ダービーに出場するものの、9着と敗れ去った。
 
そのまま、好成績を上げることなく引退してしまうのが、大半の競走馬が辿る道だ。
しかし、栗毛馬のオーナーと調教師は諦めなかった。ダービーで敗れた翌年、日本の代表的ジョッキー武豊騎手に、鞍上を託すことにした。
その後、栗毛と武豊騎手のコンビは、次々と勝ち星を重ね、1998年7月には『宝塚記念』というグランプリレース(ファンの人気投票で出場出来る)を勝利した。
F1で言うなら、アイルトン・セナが得意とした“ポール・トゥ・ウイン”に相当する、見事な逃げ切り勝ちだった。
 
栗毛馬の登録名は『サイレンススズカ』。
青鹿毛の父親で名種牡馬として知られるサンデーサイレンスと、オーナー独自の冠名から、そう名付けられていた。
グランプリホースとなり、細かな情報が知られるようになると、私達F1ファンは、サイレンススズカの生年月日に注目した。そして勝手に、彼の名は父親の名と、誕生日に逝去した『音速の貴公子』が駆け抜けたサーキット(鈴鹿)から付けられたと思い込み、信じる様になっていた。
しかも、馬主によって決まっている勝負服(騎手が着用)が、どこかアイルトン・セナのヘルメットの色合いに似ていたことも、そう信じられた要因だった。
 
1998年、順調に夏の休養を過ごしたサイレンススズカの関係者は、秋の目標を東京競馬場で行われる天皇賞に定めた。
好事魔多し。
天皇賞でも、いつもの様に順調に後続を引き離していたサイレンススズカは、ゴール200m手前で突然その走りを止めた。左前脚をアクシデントで粉砕骨折したのだった。乗っていた武豊騎手は、鞍上から飛び降り厩務員を待っていた。
診断の結果、予後不良(回復の見込みが無いこと)と診断され、サイレンススズカは薬物による殺処分が下された。
 
サイレンススズカが、最後の雄姿を見せていたのは1998年11月1日のことだった。
私はその日、鈴鹿サーキットに居た。健在なら、レジェンド・チャンピオンに為っていたであろうアイルトン・セナが、HONDAのマシンで疾走していたと思われる、F1日本グランプリを観戦していたからだ。
なので、サイレンススズカの悲劇を知ったのは、ホテルに帰ってテレビを点けた時だった。
 
私は一人、ホテルの部屋の中で、アイルトン・セナとサイレンススズカの、もう帰ることのない生命(いのち)の交錯を想い浮かべていた。
アイルトンの命が意志と為って、サイレンススズカに引き継がれたのではないかと思った。
もう少しアイルトンが、我々に何かを魅せ様としていたのではと思った。
そしてその日、その意志すらも潰(つい)えたと思った。
涙が、止まらなかった。
 
暫くすると、アイルトンの意志は、亡くなった4年後まで続いたことに感謝した。
小柄なサイレンススズカというサラブレッドの姿を借りて。
それはまるで、子供の頃に夢中に為っていた、『ウルトラマン』と『ハヤタ隊員』
との関係みたいだと、私は悟った。
そうすることでしか、自分の感情を納めることが出来なかった。
 
 
私はその後、毎年の5月1日には、活躍する筈だった後半生を観ることが出来なかった彼等(アイルトン・セナとサイレンススズカ)の雄姿を想い出し、私は暫しのタイムトラベルをする習慣が付いた。
 
 
アイルトン・セナ62回目の誕生日(3月21日)直前に、これを記す。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
山田THX将治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)


1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
天狼院メディアグランプリ38th~41st Season 四連覇達成

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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