ジンチャンに教わった大事なこと《週刊READING LIFE Vol.169 ベスト本レビュー》
2022/05/16/公開
記事:伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私の部屋の本棚には、金色の縁のフォトフレームに入った写真が飾ってある。L版と言われる一般的な大きさのその写真に、私と薄い茶色と白の毛をもつオス猫が写っている。この写真は確か、私が大学4年生の春の頃に撮られたものではないかと思う。写真の中の私は、お気に入りのピンクのブラウスに青色のパンツ姿だ。このブラウスのことはすごくよく覚えている。両親とデパートに行った時、大学生のお小遣いではちょっと手が届かない金額のそのブラウスが気に入り、なんとか父にねだって買ってもらった。だから、その春、私はそのブラウスを繰り返し着ていた。
写真はリビングで撮られたものだ。当時、実家は家の建て替えを進めていた。建設関係の父の仕事柄、実家の建て替えはとても気まぐれなスケジュールで行われていた。お客さまの工事が優先され、家族が住む家はその合間に工事が進められる。そんな感じだったから、私たち家族は建築ができたスペースに生活の場を移していき、外に仮住まいをすることなく、家はゆっくりと完成形に近づいていった。
通常だったらこんなやり方で建築は進めないだろう。生活は不便極まりない。でも、その時の我が家はこのやり方が適していたように思う。なぜならその時の我が家は、人間が6人、猫が6匹の大所帯だったからである。この猫6匹は自由に外と家を出入りするような生活をしていた。もし、どこかへ仮住まいをしようと考えたら、人間は状況を把握できても、この猫たちにどうやって言い聞かせるのか。そんなことを考えただけでも、引っ越しなんてとても考えられないことだった。
写真の背景になっているリビングは新しいリビングだった。なんで写真を撮ることになったのかは覚えていないが、私は大好きな猫を抱きかかえ、その顔に頬を寄せるように笑っている。そして、その写真がこの猫と私が一緒に写っている唯一のものだ。
オス猫の名前は「ジンチャン」という。「ジン」に敬称の「ちゃん」をつけたのではない。「ジンチャン」までが名前だ。だからもし、敬称をつけるとなれば「ジンチャン」ちゃん、と呼ぶことになる。この名前は私がつけた。他の猫たちの名前はいつのまにか決まっていることが多かったが、このオス猫に関しては、私が決めてそう呼び始めた。他の家族も特に反対することはなかったが、「ジン」と呼ぶことがあって、その度に私は「ジンじゃなくて、ジンチャンだよ」と訂正しなければならなかった。でも、なんで「ジンチャン」なのかと言われると、特に意味はなく、なんとなくそれがぴったりだと思ったからだ。
ジンチャンは私にとって特別な存在だった。我が家の猫は全て、生まれた時は野良猫だった猫だ。それが、何かの縁があって小さな頃から庭先に顔を出すようになり、そしていつのまにか家に上がり込み、病院に連れていかれ首輪をつけて、そして家族の一員になった。彼も同じような流れの中で、我が家の一員になったわけだが、庭先に顔を出していた時から、少し他の猫とはちょっと違う感じがしていた。
ジンチャンはあまり猫らしい動きがなかった。小さな野良猫なんて、痩せていて機敏な動きでチョコチョコとしている場合が多いわけだが、ジンチャンは機敏な動きもなく、なんとなくぼんやりとしている。簡単に言ってしまえば、野生的なところはなく、外の世界では生きていけなさそうな雰囲気を漂わせていた。
弟はまだ庭に来ているだけの彼を見て、「あの猫、頭が悪そうだよね」と、そんなことを言った。私は外では生きていけそうもない彼がとても可愛く見えた。私がじっと見ていると、しまりのない顔でこちらを見る。そのうち庭先で餌を食べるようになり、そして、私が近づき捕獲するのにそんなに時間がかからなかったと思う。彼は私に対して警戒心がなかったのか、それともぼんやりしていただけなのかわからないが、あっさりと抱きかかえることができた。
私は彼を洗ってあげて、そして名前をつけた。私が彼を家に入れた時、すでに何匹かの猫が我が家の一員になっていたせいか、特に何も言われることはなかった。家族に「ジンチャン」という名前にしたことを告げて、一緒に暮らすことになった。確か、大学1年の頃だったと思う。
それまでも多くの猫が庭先で拾われ、家族の一員になったけれど、私が捕まえて家に入れた猫はジンチャンだけだ。その分、他の猫とは違っていた。そして、大学から帰ってくると、彼に話しかけた。
ある日、「ジンチャン、シュコのこと好き?」と聞いていると
「ジコちゃんのことなんて嫌い」と後ろで弟の声がする。
弟に「なんで、ジコちゃんなの?」と尋ねると、「ジンチャンはバカだから、シュコって言えないと思うよ。なんか、ジコちゃんって言いそう」と言うのだ。確かに、彼には私の名前はっきり発音できない気もする。
なぜなら、ジンチャンはほとんど鳴かなかった。口を開けて、鳴いているような動作はあるものの、ちゃんとした音にならないことが多かった。少しかすれた鳴き声や息を吐く音が微かにするだけで、他の猫のように「ミャー」などという音にならない。それを弟は「変な猫」といったけれど、私はそんな口をパクパクする様子も可愛くてしかたがなかった。
他の猫たちは、本当に猫らしい猫だった。みんな雑種ではあったけれど、猫らしく機敏で、気まぐれで、振る舞いが猫だった。でも、ジンチャンは違っていた。機敏さはなくて、私が呼ぶとまるで犬のようにちゃんと寄ってくる。そして、そんなに気まぐれではなく、大抵の場合、ぼんやりしているという表現が合うような佇まいだった。こんな出来の悪い彼を兄弟の中でもちょっと毛色の違う自分と重ね合わせていたのかもしれない。
私は毎晩のようにジンチャンと一緒に寝た。「ジンチャン、ねんねしよう。いくよ」と声をかけると、私のあとを部屋までついてきた。そして、布団に入りながら、ジンチャンを撫でながらいろんなことを考えていた。大学生活のこと、恋愛のこと、そして将来のこと。
私が話しかけると、ただじっと私の顔を見ている時がある。その顔はなんともしまりのない顔だった。見方によっては、何か言いたげな感じとも捉えることができたのかもしれないが、でも、私はそのボケた顔を見ると、なんとなくほっとするのだった。
そんな彼の具合が悪くなったのは、大学4年生の初夏の頃だった。病院で点滴をうけるようになり、とうとう入院することになった。その頃の私は、研究室に配属になり大学生活も忙しかった。その日、ジンチャンの具合がかなりよくないという連絡があったのにも関わらず、大学に行かなくてはならなかった。病気で亡くなることに関しては、少し覚悟があった。過去に病気になって病院で亡くなった猫たちもいる。大学から帰ってきたら病院に行こう、そう思っていた。ところが、夕方前に家に戻ると、ジンチャンは亡くなったと母が言う。
それからすぐに母と病院へジンチャンを迎えにいった。
なんですぐに病院へ行かなかったのだろう。
あんなに自分のそばにいてくれた大切な存在の最期に一緒にいなかったなんて……。お花で埋め尽くされた箱の中に入っているジンチャンを見ながら、寂しさでいっぱいになった。死んでしまうであろうという覚悟はあったとは言え、私は自分の行動にただただ後悔しかなく、その日の夜、私は眠れなかった。その次の日も体に力が入らず、眠れているのか眠れていないのかわからないような日が何日か続いた。
そんな苦しい日はあったものの、人間には毎日の生活がある。目の前には大学院の受験も控えており、私はいつのまにか、生活の調子を取り戻していった。
なんとなく、心がモヤモヤする時、気分を変えたい時、私は本屋に向かう。それは大学生の時からそうだった。この本に出会ったのも、大学4年生の初冬のある日のことだったと思う。
大学生活の集大成ともいえる卒業設計に取り組みだし、考えがまとまらず焦りを感じていた。夏の終わりに受験していた大学院も不合格で、将来についても漠然と不安に思う。その上この時、ややこしい恋をしていた。今なら笑えるその恋愛感情も、当時はかなり切羽詰まった感じだったような気がする。
「大事なことはみーんな猫に教わった」
この本は本屋でその時、平積みになっていたような記憶がある。その本の大きさと表紙のデザイン、それが目に留まった時、私は迷いなく自然とそれを手に取った。その大きさは横長で新書版を横にした状態よりも少しだけ大きい。開き勝手も左閉じで、内容としては絵本というものになる。表紙にはさまざまな表情をしている猫の顔が描かれている。パラパラとめくると、その中は水彩画調のイラストと短い言葉が書き添えられていた。
猫と一緒に暮らしたことがある人なら誰でも、「あるある」と頷いてしまう猫の習性がそこにはおもしろおかしく描かれている。初めて本屋で立ち読みをした時、クスッと笑えて、面白いと思った。小さな絵本、そばにあったらいつも気持ちを明るくしてくれそうだ。そう思い、その本を買って帰った。
家に帰ってもう一度読んだ時、クスッと笑うことはなかった。いくつかの言葉が、心の中にすっと入ってくる。そして、その言葉によって、今の自分の気持ちや行動について、はっとさせられる。猫の習性に「あるある」と頷きながら、今、自分がこだわっていることがバカバカしいことのように思えた。もう少し肩の力を抜いて向き合ってもいいのではないか。そんなふうに思える。
それから、この絵本は、ふと読みたくなる1冊となった。実家を出る時、大学生の時に読んでいた小説や娯楽のための本の多くは置いて出てきたが、この絵本だけはずっとそばにある。
いつも初めから読まなくてもいい。ぱらっと開いたそのページに描かれていることが、その時の自分の気持ちや行動に語りかけてくるようだった。
人間は人間自身で勝手に出来事への対応を難しくしてしまっているだけなのではないか、と思える。もっとシンプルに考え、そして感情に素直に、時には衝動的な行動もある。理屈や論理では説明できないことがあっても当たり前なのだと。
そんなに忙しくしていなくてもいいじゃない
そんなに、考えなくてもいいじゃない
そんなに気にしなくてもいいじゃない
もっと好きなようにしたらいいじゃない
そんな気持ちが心に浮かぶ。
何度も繰り返し、私はこの本を本棚から取り出し手に取っている。初めてこの本を手に取ってから30年ほどの歳月が流れていても、この本に描かれている猫の習性はなにも変わることはない。今まで一緒に暮らしてきた多くの猫がそこに描かれているような姿を見せてくれていた。
でも、どんなにジンチャンのことを思い出しても、こんな猫らしいところを思い出すことができない。それなのに、ジンチャンのあのしまりのない顔を思い出すと、
そんなに忙しくしていなくてもいいじゃない
そんなに、考えなくてもいいじゃない
そんなに気にしなくてもいいじゃない
もっと好きなようにしたらいいじゃない
本が語りかけてくれるのと同じような気持ちが、心に浮かび、ほっとする。
「ジンチャン」と呼ぶと、いつもかすれた声で小さく返事をしてくれた。鳴き声も行動も猫らしくない猫だったけれど、本の中の猫と同じように、私の気持ちに何かを語りかけてくれていたのだと思う。写真の中のジンチャンは私に抱きかかえられて、されるがままの、しまりのない顔で上目遣いに私を見ているようだ。私は嬉しそうに、安心してにっこりと笑っている。彼が私を幸せにしてくれている瞬間だった。
残念ながら、同じように約30年前に手にしていたお気に入りのピンクのブラウスはもう手元にない。仮に手元に残っていたとしても、もう着る本人の体型も顔も変わりすぎて着ることができないだろう。けれど、この本は何も変わらず、ずっと私のそばにある。本は何も変わることはない。むしろ、読む本人の中身が変わってしまっていても、その本はそれに合わせて別のことを語りかけてくれる。本というものは、そういうものなのかもしれない。
ジンチャンのような猫に出会うのは簡単ではないけれど、この本をそばに置いておくことはそんなに難しいことではない。
もし、人生をもっとシンプルに、肩の力を抜いて生きていきたいと思うならば、この本をそばに置いて猫にいろいろと教わるのも、ありなのだと思う。
「大事なことはみーんな猫に教わった」スージー・ベッカー 作/谷川俊太郎 訳
そんなオススメの1冊です。
□ライターズプロフィール
伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
建築設計事務所主宰。住宅、店舗デザイン等、様々な分野の建築設計、空間デザインを手がける。書いてみたい、考えていることをもう少しうまく伝えたい、という単純な欲求から天狼院ライティング・ゼミに参加。何かを書き続けられるのであれば、それはとても幸せなことだと思う日々を過ごしている。
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