週刊READING LIFE vol.169

あのコーラほどありがたい飲み物を、僕はまだ知らない《週刊READING LIFE Vol.169 ベスト本レビュー》


2022/05/16/公開
記事:石綿大夢(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
夕飯を食べながらテレビのチャンネルを回していた。あるチャンネルに差し掛かった時、一瞬、何が起きているかわからなかった。
「……放送事故?」
そう。バラエティらしい豪華なセットや派手な装飾などは一切見当たらない。何もないスタジオで中年の男性芸人が一人、ディレクターから説明を受けているところだった。
程なくしてタイトルが流れる。
“ハイパーハードボイルドグルメリポート”
湯気が立ち上るどんぶりがモチーフの、スタイリッシュな番組ロゴだ。シンプルなパーカッションの音楽が流れ、V T Rが流れ始める。
その映像は、今さっき妻が作った夕食を何の気なしに食べ終えていた僕には、ガツンとパンチの効いたものだった。

 

 

 

テレビ東京制作『ハイパーハードボイルドグルメリポート』という番組だった。
ディレクターの上出遼平さんが一人世界に飛び出し、紛争地域やゴミ山に住む人々、シベリアにある新興宗教の方々が住む村などに取材したものだ。番組のテロップで出る“ヤバい奴らのヤバい飯”という言葉の表す通り、普段僕らがテレビのワイドショーなどで目にする街のグルメ特集などでは決してお目にかかれない、そこに生きている人の“リアルな飯”を通して、人間の生き様や世界が抱える経済格差や紛争などの問題にまで切り込んだノンフィクションだ。
 
僕は食べることが好きである。
いや、大好きである。
昔からお腹いっぱいおいしいものを食べたいと思ってきたし、親が忙しい時は自分で作った。両親は共働きだったけどお金がたくさんあったわけではないので、冷蔵庫に残っていたありあわせの食材で、その時できる最高のメニューを考えて作るのが好きな小学生だった。
それを幼い弟と一緒にうまいうまいと言って食べるのが好きな子供だった。
それだけでは飽き足らず、夏休みの自由研究で「全国の郷土料理」をまとめて発表したくらいだ。
食べることだけではなく、日本や世界の食文化について知ることが好きな少年だった。
決して裕福とは言えないが、幸運にもすごくお金に困ってきたとは言えない。贅沢はできないが、好きなものは食べられる。それが普通だと思い、この日本で育ってきた。
 
この“普通”だと思ってきた僕や僕の周りの生活が、一気に安穏として平和ボケしたものに感じられてしまう。
初めてコーヒーを飲んで“苦味”というものを認識した時のように、その番組はある意味では当然の“現実”を僕に突きつけてきたのだ。それは世界の貧困の現実であり、“食うに困る”人間がこの同じ世界に確実に存在する、という現実だ。
 
 
その現実を、本当に、僕は知らなかったのか?
いや、違う。僕は知っていたのだ。
知識としては、世界で起きている貧困の問題やゴミ山に住む子供たちが存在しているのは、知っている。教科書に載っているもの、N H Kの特集番組を見たことだってあった。
しかし、今観ているこれは何だろう。
墓場の近く、歩くのも危険な街で、娼婦をする少女が“ただの”米を頬張る姿を映しているだけだ。彼女が稼いだ金では、一日一食が限界で、食事ができない日もある。彼女は美味しそうに、本当に美味しそうにその米を口いっぱいに頬張る。そしてそんなご飯をディレクターに一口分け与える。彼はただ「うまい」という。
それは日頃、最近都内にできたニューグルメスポットを回る番組や、有名人の意識が高い豪華な食事を特集する番組を目にしてきた僕には、ズンと胃の奥に重い衝撃を感じさせた。
 
血の味がした、と言ってもいいかもしれない。
 
あぁ僕は知らなければならない。
この“何となく”知っていた現状を、今できる限りの手段で知らなければならない。
そう思って、書店に行き、書籍化されたこの番組本を手にしたのである。
レジに並ぶ僕には、スイーツを心待ちにして並んでいるようなキャピキャピ感は全くない。
むしろ配給を待つような、そんな殺伐とした面持ちだった。
 
 
読み終えた僕は、おぼつかない足取りでコンビニに向かった。
ちょうど休みが続いていたこともあったが、一気に読み終えた。いや、一気に読まざるを得なかった。とにかく喉が渇いていた。
“食べることは、生きること”
書籍の最初のページに書かれたこの言葉が示す通り、そこには“食べる”ことを通して人間の生き様を描いた、赤裸々な告白のような文章が綴られていた。
麻薬の密売人も、元少年兵も、マフィアのボスも腹が減る。
腹が減るから、食べる。そして生きる。
おそらく古今東西、そして過去も今も未来も変わらない人間の営みが“食べる”ことだ。
その人間の営みに、文章を通してぶん殴られたような衝撃を感じていた。あまりにもくっきりとした解像度で綴られた、極限の人間たちの極限の生活。
衝撃というには、生ぬるい。
腐ったものを食べてしまった時、一瞬で体全体が「これは食べたらヤバいやつ」という信号を発する、そんな感じだ。反射的に口から吐き出し水でも飲めればいいのだが、今回はそうはいかない。もう僕は、この本を読んでしまった。
それほどこのノンフィクションは劇薬だった。
僕はなぜだか、施設で寝たきりになっていた祖母のことを思い出していた。
 
それは久しぶりの面会だった。
寝たきりになっていた祖母はアルツハイマー病も発症し、僕が孫であることもわかっていない様子だった。食事の時間になり、祖母は施設の職員さんに車椅子を押されて、食堂にやってきた。
「はぁい、じゃあご飯ですよぉ」
慣れた手つきで配膳する職員さんが持ってきたお盆の上には、全てがペースト状になった絵の具のようなものがあった。もちろん、今日のメニューである魚の塩焼きとほうれん草のおひたしが、半液体状になっている。
職員さんが口に運ぶスプーンを唇に当てられると、祖母はゆっくりと唇を開いた。
ねぶるようにペーストを食す。わずかに表情が緩む。きっとおいしいと思っているんだ。
それを感じ取ったのか、職員さんも同じく声をかける。
「あラァ、おいしいですかぁ、よかったねぇ」
声かけに対して、祖母は表情ひとつ変えない。ただ今口に入れたものを味わっているだけのようだった。
 
年配のおそらく責任者の方なのか、貫禄ある職員さんがおもむろに話しかけてきた。
「元気に食べるんですよ。食欲がなくなってきたら、ヤバいですからねぇ」
そうか。祖母にとっては、この元は何かもわからないような半液体状のものでも、れっきとした食事で“メシ”なのだ。彼女はおそらくもう、本物の魚の塩焼きを食べることはできないかもしれない。しかし、彼女は今できる精一杯で、目の前の食事を食べている。そして生きているんだ。
流動食にすると、固形の食事に戻すのは至難の業だという。
今は健常の僕には、それは正直“食事”とは映らない。
しかしそれは確実に、祖母が生きるために食べる“メシ”だ。彼女は僕が孫であることも、ここがどこであるか忘れても、生きるために食べている。原型もとどめていない、半液体状の流動食だけど、それを食べることで彼女は生きている。そしてわずかだが、微笑んでいる。
“食べること”と“生きること”について、考えてきたのかい?
わずかしか表情を動かさない、何を考えているのかわからない祖母が、そう僕に問いかけているような気がした。
 
 
夜の静かな闇の中、近くを通る高速道路を疾走するトラックの軋みが聞こえる。
昼よりもなぜだか不気味な明るさを放つコンビニの扉が開くと、目まぐるしい色が目に飛び込んできた。
「そうか、これ、ほとんどメシなんだ」
ケータイの充電器や日用品もあるにしろ、コンビニに並んでいるものの7割以上は食べられる食品だろう。数えたことはないが、一体いくつのメシがここにあるのか。
この本の中に生きている彼らは、たぶん今も腹を空かせている。もしかしたら今はもう生きていない方もいるかもしれない。
そんな彼らのことなど知ったことかと言わんばかりに、僕の目の前には溢れんばかりの食品が並んでいる。食べる人、つまりそれを食べて生きる人が決まる前の、ただの“メシ”の状態で、選ばれるのを待っている。
こんなことが、あっていいのだろうか。
 
三日間何も口にできず、必死の思いで稼いだ日銭で、ただの“コメ”を食べる少女。
虐げられながらも、自給自足の生活を志し、黒く固いパンを齧るシベリアの男性。
溢れる不法投棄のゴミ山の中で生きる“スカベンジャー”と言われる少年は、有毒物質で汚染された豚肉を今日も食べている。
今現在の世界では、本当に求めている人間に、本当に必要な食事は行き届いていない。
その世界の現実を、読んだ人間の五臓六腑に沁み渡させる、すごい本だった。
“おもしろい”を超えた、“凄い”読書体験だった。
あの時コンビニで飲んだコーラほど、甘く“ありがたい”飲み物を、僕はまだ知らない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
石綿大夢(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1989年生まれ、横浜生まれ横浜育ち。明治大学文学部演劇学専攻、同大学院修士課程修了。
俳優として活動する傍ら、演出・ワークショップなどを行う。
人間同士のドラマ、心の葛藤などを“書く”ことで表現することに興味を持ち、ライティングを始める。2021年10月よりライターズ倶楽部へ参加。

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2022-05-11 | Posted in 週刊READING LIFE vol.169

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