週刊READING LIFE vol.183

五七五七七のコレクション《週刊READING LIFE Vol.183 マイ・コレクション》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/08/29/公開
記事:西條みね子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
東陽町 南砂町 西葛西 葛西 浦安 南行徳
(とうようちょう みなみすなまち にしかさい かさい うらやす みなみぎょうとく)
 
「オオ……これはすばらしい。メモメモ」
SNSで見かけた、この、呪文のような地名のつらなりを見て、私はいそいそとメモをとった。東京メトロ東西線の駅名を並べたものである。鉄道マニアではないし、何ならこの路線に乗ったこともなく、読み方すら怪しかったが、私にはメモを取る理由があった。
これは偶然、「五七五七七」の短歌になっていたのである。
スマホのメモアプリに記載すると、私の「七五調コレクション」にまた一つ新しい
ものが加わったことに満足して、スマホを閉じた。
 
 
私と七五調の出会いは、小学校時代の百人一首である。
小学校3年生の時、クラスで「坊主めくり」が大流行した。坊主めくりとは、百人一首を使った遊びで、真ん中に絵札100枚を裏返しにして「山」を作る。参加者は順番に山から1枚、札を引き、絵札が殿(男性)の場合は自分の手札にできるが、坊主の場合は手持ちの札を全部「山」の横の場に出さなければならない。そして姫が出た場合は、場にたまっていた札を全部もらうことができ、山が無くなった時に手札を1番多く持っていた人が勝ち、という、楽しいゲームだ。
姫が出ては歓声をあげ、坊主が出てはまた歓声をあげる同級生たちの横で、私の目は絵札の別の場所が気になっていた。絵札の上に、和歌が書かれていたのである。
 
私は子供の頃から和風のものが好きで、親からはずいぶん早くから、渋い趣味の子供であると認識されていた。日本画や浮世絵が描かれた記念切手が手紙に貼られていると小躍りし、水に濡らして丁寧に封筒から剥がしては箱に入れて、コレクションするような子供であった。小学校1年の時、何を思ったか、小さな段ボールに土を敷いて簡易神社のようなものを作ろうとしたことは、いまだに我が家の語り種である。
そんな、渋い趣味の子供は、絵札に書かれた和歌を見て、心をわしづかみにされたのである。
「……カコイイ……!!」
かくして私は、百人一首を見ては和歌をながめるようになった。
当時お気に入りの一句はこれである。
 
・奥山に紅葉ふみわけなく鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき (猿丸大夫)
 
秋の抒情を歌ったもので、ほぼほぼ現代語と同じで意味がわかりやすいところもよかったのだろう。他にも何句か、お気に入りの歌があり、それらの絵札は大切にお気に入り箱に納められた。
当時、友人たちがアイドルタレントや少女漫画を見て騒いでいるかたわらで、渋い子供は七五調の和歌に思いを馳せていたのである。
 
和歌の何が私の琴線に響いたかというと、一つは、日本ならではの自然に対する美意識、春夏秋冬など、森羅万象の移り変わりへの情趣の心が感じられるところだ。
「夕波千鳥(ゆうなみちどり)」「夜半の月(よわのつき)」など、自然を描写する美しい和語や、2月を「如月」と言ったり、秋の野山と月で「武蔵野」を連想するなど、今では失われた日本古来の風習や文化を感じられるところも好きだった。
平安時代であれ、江戸時代であれ、日本文化が色濃く存在していた頃の人々の言葉は私の憧れだったのである。
もう一つはもちろん、七五調のリズムである。5文字と7文字で構成された言葉は私たちの耳にとても心地よい音として響き、思わず声に出したくなる素敵なリズムだ。
 
・耳なしの山のくちなし得てしがな 思いの色の下染めにせん(読み人知らず)
(耳成山に生えているくちなしの花が欲しいものだ。耳無しに口無しなら誰にも知られないだろうから、思いを染めるための下染めにしたい)
 
こういった、言葉遊びのような、とんちを効かせた類のものも、お気に入りであった。面白系の歌は、リズムの良い七五調にうまくおさめられていることで更に魅力を増すように思った。耳無しの口無しに「うまいこと言うた!」と思った私は、成人してから奈良を旅行した際、電車から、畑のど真ん中にある耳成山を目にすることができた。「あれが耳成山かー!」とはしゃぐ私に、同行した友人は怪訝な顔をしたものである。
 
面白系の歌も射程距離に入り、江戸時代に発達した和歌のパロディである狂歌や、五七五で終わる川柳も加わった。
こうして、私の七五調コレクションは、少しずつ増えていったのである。
 
 
「短歌とか、俳句とか、作る方には回ったりしないの??」
ある時、ふと姉に尋ねられた。
姉は幼い時より私の渋好みを見て、色々心得ているのである。
「うーん、現代の短歌はね、なんか、なんか違うのよ。現代のものはなんか、恥ずかしいというか、照れるというか、ちょっとスカしてるというか……。あ、でも、シルバー川柳は好きだよ!」
答えながら考えていた。
確かに、私の七五調コレクションには、短歌が入っていないのである。江戸時代くらいまでの歌は「和歌」というが、明治以降の歌は「短歌」といい、現代、歌人と呼ばれる人が作っている歌は主に「短歌」だ。
自分でも不思議だった。和歌と短歌はともに五七五七七で、親戚くらいの距離感のはずだ。七五調に目がない私の触手が伸びていてもおかしくはなかった。何故なのだろう……? 和歌のような、自然の情趣がテーマではないからだろうか。でも、それを言ったら私の好きなシルバー川柳は自虐と笑いの塊である。
 
・「インスタバエ」新種のハエかと孫に問い
・大事ならしまうな二度と出てこない
 
日頃、ひと笑いしたくなったらお気に入りのシルバー川柳を見て笑うくらいだ。ここに自然の情趣は皆無である。
ましてや、冒頭の東京メトロ東西線駅名シリーズなど、七五調が面白い以外の何ものでもない。
 
そもそも、和歌と短歌は何が違うのだろう? なんとなく、明治以降の歌が短歌で、それより前が和歌、くらいの認識しかなかった私は、短歌の何がしっくりこないのかを紐解くために、和歌と短歌の違いを調べてみることにした。なんとなくスルーしてきた短歌に、初めて向き合うことにしたのである。
短歌の発端は、明治時代の歌人、正岡子規が伝統的な古典和歌を批判し、歌はもっと個人的で写実的な体験であるべきだ、と主張したことからはじまったらしい。
和歌はもともと、公家の貴族たちの間で発展してきた文化だ。教養や嗜みの一部であり、また、あくまで優美さを大切にしてきた。その結果、歌の内容は情景や心情などだが、直接的に感情を吐露するのではなく、それを「自然」に託して「間接的」に表現することが理想とされた。そして、間接的であるが故に「『秋の月』は『もの悲しさ』につながるよね」のような、一定のルール、共通認識が生まれ、歌人たちはこの約束ごとに則って歌を詠んでいるというのだ。
確かにそうだった。
月を見て秋を感じる歌はあっても、栗ごはんを見て秋を感じる歌はない。また、春夏秋冬の歌は数あれど、「夏がくそ暑い」とか「冬の早朝寒すぎて死ぬ」とか、そんな歌は決してないのだ。(代わりに、春と秋を絶賛する歌が山ほどある)
政権の舞台が貴族から武士に移ってもこの根底は変わらず、和歌は、教養といっても良い「集団の中の共通の美意識」の中で発展してきたのである。
 
これに異を唱えたのが正岡子規である。
子規は共通のルールやお約束ごとを「しゃらくさい」となぎ倒し、日常の出来事の中で感じたことをありのまま歌にすべきだ、と唱えたのだ。日常の瞬間を切り取る行為は、極めて主体的で、個人的だ。他の人がどう思うかは置いておいて、自分が、自分だけが感じた瞬間、を切り取り、言葉にするのである。そこには個人的な情熱、感情が盛り込まれること必須だ。
短歌が自ずと、個性、オリジナリティを重視する方向に傾くことは容易に想像できる。
 
和歌は「間接的」かつ「集団的美意識」であり、短歌は「直接的」かつ「個人的感情」だったのだ。
 
「……なるほど……! だから、恥ずかしかったのか……!」
合点がいった。短歌の情熱的な恋の歌は、何だか照れるというか、こそばゆい気持ちになったのだ。和歌にも恋の歌は溢れるほどあるが、何が違うのだろう? 現代の内容なので、自分とオーバーラップして恥ずかしくなるのだろうか? と思っていたが、そもそも、表現している内容が異なるのだ。
 
・落ちてきた雨を見上げてそのままの 形でふいに、唇が欲し(俵万智)
 
和歌が抒情的な、ややファンタジーの世界だとすると、短歌は作者個人の、生の感情の表れである。まぶしさや生々しさが「照れる」という感想になったのだ。
 
短歌について、ちょっとスカしている、と思うことがあったのも合点がいった。
短歌は、個人が日常のハッとした瞬間を切り取ったものだ。中には「何でまたそこをフォーカスしたんだろか」がパッと見わからないものもある。難しくて当然だ。和歌の「春の桜が美しい」は、誰もが理解でき、自分なりの春の桜を想像できるが、短歌のその切り取りはその人だけの心の動きなのだ。
 
・平穏の日常に皿よく缺(か)けて 割れないからまた今日も使ひて(松平盟子)
 
この歌を最初見た時、皿がかけるけど割れないからまだ使う。……だから何なの……! とサッパリわからなかった。美しいわけでもなく、嬉しいわけでも悲しいわけでもなく、面白いわけでもない。短歌、なんじゃこりゃ、と。(作者様すみません)
しかし、短歌のことを知る過程で、この歌が含まれる歌集には、作者と夫とのすれ違いが背景にあり、次の歌集でははっきりと離婚が歌われていることを知った。かけたけどもまた使う皿は、夫婦の心情であり、いずれ割れる未来の暗示なのだ。かけた皿を見て何を感じるかは千差万別であり、その差分と個性こそが短歌を楽しむ醍醐味なのである。
 
「なるほど……。私が好きなのは、つまり、日本の様式美だったんだな!」
思えば、武道はもちろん、華道や茶道などの「道」ものや、歌舞伎や文楽などもきっと同じだ。日本の集団的な美意識のもとに成り立っており、私はそれを愛しているのだ。
和歌は時代の流れとともに、より自由で個人的の感情に重きをおく波にのり、現代の短歌に至ったのである。これは、いわゆる絵画などの芸術の流れと、きっと同じだ。モネやルノワールに代表される印象派の絵を見て、美しい、と思っていたら、現代アートの、キャンバスいっぱいの巨大な「丸」しかなかったり、無数の線のみで構成されたりした作品を見て、
「……ほお〜〜ん……? (これは、面白い、の、か?)」
と思ったり、何かはわからないが作者の溢れる感情の大爆発にあたって
「うおぅ、重い」
と思ったりするようなものだと思う。「丸」よりははるかにわかりやすいが、短歌は新しさと個性を追求した現代アートなのだ。
モネが好きでも、現代アートが好きでも、どちらとも好きでも良い。私が短歌を知ることで、無意識にしか捉えていなかった和歌の魅力に気づいたように、互いに知ることで生まれるものもあるだろう。
 
「違いがわかることで、魅力の理解が深まることもあるんだなー」
自分の渋好みが様式美に紐づいていることはわかったが、とはいえ短歌は和歌の親戚、いや孫もしくはひ孫くらいの存在だ。「歌を詠む」ことがもっと現代にも根付けば良いのに、と思っているのに、短歌に距離を感じていると言うのも我ながらおかしな話だ、と思っていた私は、短歌への踏み込み口を探しあぐねていたのだが、ある時、しのごの言ってられないものを見てしまった。
 
・問十二 夜空の青を微分せよ 街の明かりは無視しても良い(川北天華)
 
SNSでこの短歌を見たとき、んぐはぁ、と声がでた。
なんか、わからんが、カッコよくて痺れた。数学の問題形式で文章が組み立てられており、私の好きなとんち面白系にちょっと絡んでいたこともあったと思うが、とにかく「声に出したい」と思うレベルのカッコよさに感じた。作者が、作成当時は高校生の女の子だということを知って、さらに驚いた。
短歌は照れるだの意味がわからんだの何だの言っていたが、そのへんをすっ飛ばす勢いの吸引力で、言葉の力とはすごいものである。
 
これを機に、もう一度、短歌に触手を伸ばし始め、私の七五調コレクションに、ポツポツと短歌が入り始めている。伸ばした触手の先で、短歌が近年、少しずつ広まっており、その背景にSNSがあるということも初めて知った。Instagramなどの画像系のSNSに、写真に短歌を組み合わせたものが多数アップされているのだ。昔も和歌+日本画や和歌+浮世絵などの作品は多くあったが、現代になり、短歌+写真という新しい形態が生まれているのである。
短歌を取り巻く環境も、変化し続けているのだ。
 
そんなことに感心しながら、今日もまた、琴線に触れた歌をこっそり、七五調コレクションに追加して密かに楽しんでいる。
いつか、自分が歌を詠もうという気になるだろうか。ならないかもしれない。なるかもしれない。その時は、このマイ・コレクションが宝物のような一冊になるだろう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
西條みね子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

小学校時代に「永谷園」のふりかけに入っていた「浮世絵カード」を集め始め、渋い趣味の子供として子供時代を過ごす。
大人になってから日本趣味が加速。マンションの住宅をなんとか、日本建築に近づけられないか奮闘中。
趣味は盆栽。会社員です。

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2022-08-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.183

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