週刊READING LIFE vol.185

街じゅう源泉かけ流し《週刊READING LIFE Vol.185 大好きな街》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/09/12/公開
記事:飯塚 真由美(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
元気に挨拶、これが一番大事だ。
すーっと息を吸う。行くぞ。毎回何だか緊張する瞬間だ。
脱衣場の扉を開ける。その音に誰かが入ってきたのに気づいた常連さん達が私のほうを見る。そこで、大きな声で挨拶する。びっくりされる位の元気さでちょうど良いと思っている。笑顔で「こんにちは!」と言い終わるまでに、こちらを向いた全ての人の顔をひとりひとり見る。生活の場にお邪魔させていただきます、の気持ちを伝えたいからだ。
 
「おんせん県」と呼ばれる温泉大国、大分県の別府の共同浴場に私は来ていた。
別府は好きで、何度も来たことがあった。温泉がすばらしいのはもちろん、新鮮な魚を味わえることや、昭和レトロなどこか懐かしい街並みも大好きで、別府の旅は毎回楽しみだった。最初の頃私が楽しんでいた「別府の温泉」は、宿泊したホテルや日帰り温泉として営業する施設だった。いわゆるお客さん向けに整えられた、涼しい脱衣場があって洗い場にシャワーがずらりと並ぶような、そんなお風呂だ。
 
何度か別府を訪れるうち、この街にはお客さん向けではない、私の知らなかったタイプの温泉があるということを知った。奥深い別府の、知らない部屋に続く扉を開けたようだった。
地域の人が家のお風呂代わりに通う、共同浴場だ。無数にある。さすが温泉が豊富に湧く別府だけあって、そうした共同浴場のお湯がもれなく源泉かけ流しの温泉なのがすごい。贅沢だと思った。入浴料を見て驚愕した。大抵100円や200円、なんと無料という所まであった。保湿成分の含有量が全国でもトップクラスの美肌の湯に100円で入れるなんて温泉も見つけてしまった。
これは、興味ある。巡ってみたい。そう思った。
 
おもしろそうなスタンプラリーを見つけた。
別府にある200か所を超えるホテルや共同浴場がスタンプラリーに加盟している。この中から88か所のお湯に入ってスタンプを集めると「名人」として段位が認定される。その名も別府八湯温泉道(べっぷはっとうおんせんどう)だ。スタンプを押すのは、パスポート大の真っ赤な表紙の冊子だ。温泉は英語でスパだから、冊子の名前はパスポートならぬ「スパ」ポートだ。パスポートの表紙であれば菊の紋のある位置に鎮座する温泉マークを見て笑う。
88か所、何年かかっても目指そうじゃないの! と心に決めた。
 
地域の共同浴場は、最初は面食らった。昔ながらのスタイルの温泉は、ことごとく初めて体験することばかりで戸惑った。しかし、思い切って飛び込んでみたら、海の中は最高だった、そんな思いがした。まもなくこのひなびた風情が病みつきになり、別府の共同浴場はこうでなくちゃ! と思えるほどになった。
脱衣場と浴室の間には壁が無く、ひと続きの同じ空間になっていることが多かった。大浴場の中で着替えることになる。浴室の壁に脱いだものを入れる棚があって、足元にすのこが敷かれている。さえぎる扉や壁が無いので、湯船から脱衣場は丸見えになる。棚も蓋が無いので、置いたものはよく見える。昔のつくりって、セキュリティ面でも合理的だと感心した。
常連さんのお作法にならい、バスタオルを半分に折って脱いだものを隠すように上にかける。バスタオルは必ず、輪にしたほうが手前だ。脱いだ物が見苦しくないようにとの配慮だ。
半地下になった浴室には、真ん中に浴槽。以上。シャワーはもちろん、カランも無いことが多い。ボディソープももちろん無い。必要なものはすべて持っていく。皆さん浴槽の周りに陣取り、洗面器で浴槽からお湯をすくって体を流していた。カランがあった共同浴場でも、壁に貼られた注意書きに「水道水は使わず、なるべく浴槽の湯を使うように」と書かれていた。温泉水で体を洗い、温泉水に浸かる。温泉が豊富に湧く別府だからできる、とても贅沢なことだと驚いた。
 
共同浴場のお湯は、指先がじんじんするほど熱いこともあった。何度もかけ湯をしてお湯の温度に体を慣らして入るといい、と地元の人に教えてもらった。ざばざばと何回もかけ湯をして、その勢いで間髪入れずにお湯に浸かる。とは言っても熱い。10数えたら一旦出ようか、と頭の中で1.75倍速くらいで10数える。アチチ湯に苦労している私のそばで、まだよちよち歩きの女の子がお母さんとお湯に浸かっていた。お母さんに抱かれた子供は、胸までお湯に浸かって楽しそうに笑いながら赤いゾウさんのじょうろの鼻から浴槽で汲んだお湯を出していた。熱くないのか。私とは大違いだ。尊敬のまなざしで眺めた。その子はまだまだ遊んでいたいのに、というところをお母さんに抱き上げられお湯から上がった。ゾウさんのじょうろを持った子の胸から下は、線を引いたように熱さで真っ赤になっていた。慣れってすごい。
地元の人は熱いお湯に慣れている。年配の方など、熱いお湯を好む人も多い。だから、私のようなよそ者が勝手に水を足して、ぬるくするのは歓迎されないことだと思っていた。スタンプラリーで1日にいくつもの温泉を巡っていた。だから一瞬でもお湯に浸かることができればそれで満足だった。しかし、一瞬であっても入れないほどの熱いお湯が待っていることもあった。
 
その共同浴場ではたまたま私しかおらず、貸し切りだった。浴槽のお湯はあまりにも熱かった。いくらなんでも無理、と水のホースを引っ張ってきて蛇口をひねったが、焼け石に水だった。湧き出すお湯の勢いのほうが格段に上なのだ。お湯に突っ込んだ水のホースの近くのごく一部分だけが、耐えられる温度だった。少しでもはみ出すと、熱さで指先がじんじんした。全身を沈めるなんて不可能だった。初めての「入れなかった温泉」になってしまった。耐えられる温度のお湯を慎重に汲んでかけ湯をし、敗北感を感じながら脱衣場に引き上げた。
入れ違いに次のお客さんが入ってきた。身軽なので地元の人だと分かった。すぐ近くから来るので冬でも上着無しなのだ。あとは寝るだけといった格好で来る人が多くて、地元の人がいつも羨ましかった。
浴槽の近くに行ったその人が「ちょっとあなた」と私を呼んだ。ドキッとした。この展開、何だか叱られそうじゃないか。常連さんに叱られる、勝手を知らないよそ者の図が頭に浮かぶ。
別の共同浴場で常連さんと世間話をしたのを思い出した。ここの温泉、若い人来ないのよ。と言われなぜだろう? と思った。すると、ほら私達みたいな小姑みたいなのがいっぱいいて、何でもすぐ注意しちゃうからね。と言うと、高らかに笑った。あっけらかんと語っていたが、慣れない人の共同浴場でのマナーがなっていないと眉をひそめる地元の人の気持ちを代弁しているように思えた。だから、共同浴場では他の人に迷惑をかけないよう万全の振る舞いを心掛けてきた。皆さんが大切にしているお風呂をお借りします、の気持ちを忘れないことが大事だと思った。
 
今、私は「ちょっとあなた」と呼ばれている。何か注意されるのかと緊張する。何かまずいことでもしただろうか。自分の行動を振り返った。脱衣場が濡れないように、きっちり体を拭いてから上がったぞ。水を入れちゃいけなかったのか? でも過去最高の熱さだったぞ。それとも洗面器の置き場所が違ったとか?
恐る恐る返事をすると、「熱くてお湯に入れなかったんじゃない?」と聞かれた。注意ではなく、私の心配をしていたのだった。お湯に入れなかったことと、勝手にぬるくしないほうが良いと思っていたことを話した。
ちょっと待ってて。せっかく来たんだから、もう1回入っていってよ。とその人は浴槽に3本のホースを引っ張ってきて水を入れ始めた。蛇口は全開で、水が3方向からすごい勢いで浴槽に流れ込む筋が見える。まもなく、さあもう大丈夫と手招きされた。2人でお湯に浸かる。今度は体を伸ばしてリラックスできた。安らげる温度にほっとして、ひとしきり会話を楽しんだ。色々質問して教えてもらった。親切な地元の人に、心からありがたいと思った。
私が先に上がり、何度目かのお礼を言ってお先に失礼しますと手を振った。またここに入りに来てね、と言ってその人も手を振ってくれた。何だか別れがたいお別れになった。体だけではなく、心にも効く温泉となった。
 
共同浴場での地元の人と触れ合うのは、温泉の効き目と同じくらい価値のあるもののように思えてきた。別府に暮らす人達の、飾らない日常を見られるのが嬉しかった。家の近所の、ここの共同浴場しか入らないと決めている人も多かった。共同浴場には組合の組織があって、近くに住んでいる人は月々いくらといった組合費を払うことで、月に何度でもその共同浴場を利用できる仕組みがあるからだ。いわば共同浴場のサブスクだ。
大体決まった時間にいつもの温泉に来て、ご近所さんとおしゃべりをして帰る、そういった社交の場でもあった。私は時にその輪にまぜてもらったりした。共同浴場はどこも「ただいま」と言いたくなるような、懐かしくてあたたかい空気に包まれているように思えた。
 
温泉スタンプラリーを劇的に進めたいと、別府に5連泊して温泉巡りをしたことがある。目標は1日5か所のスタンプ集めだ。限界に挑戦のエクストリーム湯治(とうじ)、是非とも目標達成したいと意気込んだ。
別府には8つの温泉エリアがあり、温泉場ごとに異なる雰囲気を楽しめた。歩きとバスと自転車で、1日ごとに重点的に回るエリアを決めて旅館の温泉や共同浴場を巡り、スタンプを集めていった。別府はあらゆる場所に温泉があるのが面白く、お寺の境内や、喫茶店、競輪場でも温泉に入った。冬だったがしょっちゅう入る温泉のおかげで体は常にぽかぽかだった。いつも体の中で何かが勢いよく循環しているようで、体が軽くなった。別府グルメをしっかり食べても次の食事までにお腹はぺこぺこになった。夜は横になった途端、深い眠りに落ちた。
滞在も終盤を迎えたある日、それまで順調に1日5湯を達成してきたペースがピンチを迎えた。運悪く、行ってみたら入れなかったという温泉が4か所もあった。温泉の湯が出なくなった、など自然が相手なので仕方ない理由ばかりだった。共同浴場に常駐する管理人さんがいない場合、現地に電話して確認することもできない。閉まったままの入口で途方に暮れた。夕方になっても入れたのはまだ2湯だった。すっかり暗くなった頃、調べに調べて3湯目に入ることができ、冷えた体にも心にも熱めのお湯が沁みた。しかしそこでスマホのバッテリーも、モバイルバッテリーも残量ゼロになってしまった。検索も道順もお手上げだ。目標は達成できずに終わるのか。悔しく唇をかんだ。
 
宿に戻った。仕切り直しだ。大急ぎでスマホを充電し、可能性を探る。私がまだスタンプを押していない温泉で、夜でも日帰り入浴ができる所がありますように。目星をつけた何軒かのホテルに電話するも、以前はやっていたのですがと申し訳無さそうに断られ、焦りはじりじりと増していった。歩ける距離の共同浴場で22:30まで開いている所を見つける。ギリギリだ。小走りで向かった。向かう途中で電話したホテルが夜遅くまで外来入浴を受け付けていた。
運が上向いてきた。1日5湯達成だ。脱衣場の鏡に映る自分とハイタッチをしたい気分だった。
 
別府最後の夜になった。連日5湯の目標を達成することができた。すがすがしい気分だった。ホテルの大浴場など色々な温泉に入ったが、最後の温泉はやっぱり共同浴場で締めくくりたいと思った。元気に挨拶して中に入ると、誰もいない。のびのび入れると喜ぶ自分と、ここでは地元の人との出会いは無しかと残念がる自分が共存していた。共同浴場は、最初はおっかなびっくりだった。よそ者としてヘマをしてはならない、みたいなプレッシャーを自分にかけていた。しかし地元の人と会話するようになると、ふれあいの楽しさは共同浴場の大きな魅力になった。まずは挨拶。それから話すことは、何でも良いのだ。今日も寒いですねとか、いつもこの温泉に来るんですか? とか。こちらから笑顔で話しかけてみると、その会話がきっかけとなってどの人も丁寧に色々なことを教えてくれた。楽しかった。共同浴場での会話を通じてより深く別府を知ることができた。
 
別府の共同浴場では、浴槽のふちに座るのはタブーとされている。諸説あるが、浴槽のふちに頭をのせてくつろぐため、そこにお尻をのせるのは嫌という理由だ。そうだ、私もやってみよう。浴槽のふちに頭をのせて足は底に、そしてゆっくり胴体を浮かせる。ふわんとした浮遊感と、あたたかなお湯に包まれる感じがして何とも幸せなリラックス感を味わった。滞在中のさまざまな思い出が頭に浮かんだ。連日の1日5湯、ついに目標達成だ。達成感に思わず涙してしまった。温泉に入って泣くなんて初めてだった。
 
共同浴場を訪れることで、皆の知らないちょっとディープな別府の旅ができる。素顔の別府を見る思いだ。最初の1歩を踏み出すまでは、共同浴場のハードルは高い気がしていた。しかしそこには、すばらしい温泉の恵みだけでなく思い出に残る地元の人との出会いも待っていた。それでいてコンビニで飲み物を買う位の値段しかしない。
別府は温泉も人もあたたかい。次の別府はちょっとディープに、共同浴場で素顔の別府を感じてみてはいかがだろうか。街じゅうで源泉かけ流しの温泉が待っている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
飯塚 真由美(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京在住。立教大学文学部卒業。
ライティング・ゼミ2022年2月コース受講。課題提出16回中13回がメディアグランプリ掲載、うち3回が編集部セレクトに選出される。2022年7月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。
国内外を問わず、大の旅好き。海外旅行123回、42か国の記録を人生でどこまで伸ばせるかに挑戦中。旅の大目的は大抵おいしいもの探訪という食いしん坊。

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2022-09-07 | Posted in 週刊READING LIFE vol.185

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