週刊READING LIFE vol.187

いるとかいないとか、見えるとか見えないとか《週刊READING LIFE Vol.187》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2022/09/26/公開
記事:種村聡子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
そうか、君はもう見えなくなっていたんだね。だから、あの日、「なにか」が君に気づいてもらおうと、うしろからちょっかいを出したときにも、見つけることが出来なかったんだね。君は、「うしろから誰かが、ぼくの服を引っ張ったんだ。でも、振り返っても誰もいなかったんだ」と言ったとき、お母さんはすべてを理解したよ。君がいままで見えていたものが、見えなくなったこと、そして、そのことを、「なにか」も気づいたのだろうことも。
 
ほんとうのことを言うと、お母さんはずっと、怖かったんだ。お母さんは君が見ているものが見えなかったから、想像するしかなかった。でも、怖がっていたのは、お母さんだけで、君はちっとも怖そうにしていなかった。むしろ、楽しそうに笑っていた。いまならわかる。君のまわりにいたものたちは、君に好意的だった。小さかった君と遊びたかったのかもしれない。
 
目には見えない、優しいものたちが君のまわりにいたことを、君はもう覚えていない。お母さんは君が見ていたものを一緒に見ることはできなかったけれど、すべてを覚えているよ。そして、「なにか」がいつも優しく君のまわりを取り巻いていたように、これから君が歩んでいく人生が、温かくて優しい、ものやことであふれた世界であるといいな、と思っているよ。そんなことを、君が5歳の誕生日を迎えた頃に、考えていたんだ。

 

 

 

はじまりは、息子が2歳になった、冬の初めだった。わたしと息子は保育園からの帰り道、帰宅しようと歩を進めていた。帰宅したらあれをしよう、これをしようと、すっかり暗くなった道を急いでいた。やっと自宅に着き、玄関の扉を開けようとしていたら、息子は不意に大きな声をあげた。
「バイバイ」
通りに向かって元気よく、はっきりと誰かに声をかけ、手を振っていた。わたしは息子が手を振る方向に目をやったが、暗がりの中には誰もいない。不思議だった。息子はまだ幼くて、保育園の先生や仲のよいお友だちであれば挨拶をできるようになったけれど、それほど親しくはない人に対しては、子どもらしい人見知りを発動して、挨拶など、なかなかできなかったのだ。それなのに、いま、息子は誰かに元気に挨拶をしている。
「誰にバイバイをしたの?」
わたしが何気ないように聞いてみたら、息子は答えた。
「おばあちゃん」
背中をひんやりしたものが伝ったように感じた。もう一度、通りを確認しても、やはり誰もいない。わたしは、息子を抱えて、急いで家のなかに入った。そして、さっきまでのやりとりをすっかり忘れて遊び始めた息子とともに、わたしも、なにもなかったかのように、その日は過ごすことにした。
 
「誰か」に挨拶をしていたのは、その日以外にもあった。診察を受けた病院からの帰り道に、歩道と外壁の境あたりに視線を落としていた息子は、ベビーカーに乗りながら、またしても「バイバイ」と手を振っていた。ずいぶん下に向かって声をかけているな、と不思議なほど冷静に、わたしはその動作を見ていた。
 
こんなこともあった。
息子とふたりで晩ご飯を食べているときだった。玄関に通じる扉をじっと見ながら、息子は言った。
「誰かさんがいるよ」
息子の視線の先には、やはり誰もいなかった。わたしは心臓がドキドキしながら、でも、何気ないように、冷静であるかのように、勇気をだして息子に聞いてみた。
「誰かさんって、誰のこと?」
「ツノがある」
ツノがあるんだ。鬼かな。鬼もいるのかな、わが家には。
わたしのあたまの中は混乱と動揺でぐるぐるまわっていた。そんなわたしとはうらはらに、もう、すでに息子はその「ツノのある誰かさん」に対して興味がなくなったようで、なにもなかったかのように、もくもくとご飯を食べ始めていた。いつも通りの息子を見ているうちに、わたしも落ち着きを取り戻し、さっきまでの食事の続きをすることができた。
 
わたしには見えないなにかを、息子が見ていることは、特別なことであると息子に知られたくなかった。わたしは無理をして、なんでもないことだ、という素振りをしていた。他の人には見えないなにかを自分は見ることが出来る、と意識したときに息子がどう思うか不安だった。いまはまだ、いつもの日常のなかにある、ひとつの風景に過ぎないけれど、意識し始めたら、それは彩りを持って特別なものとなってしまう。そうしたら、目には見えないなにかは、もっと、身近な存在として息子の世界に入ってくるのではないだろうか。それが怖かった。だから、わたしは何でもない素振りを続けた。
 
忘れられない出来事もある。
息子が見ているものを一緒に見ることが出来ていたらよかったのにと、この時ほど感じたことはない。それは、寝る前に息子をひざに乗せて絵本を読んでいるときだった。静かに絵本に見入っていた息子が、視線をあげて、急にはじけるように笑い出した。小さな手は、目の前を指さしながら、とても楽しそうにクルクルとなにかを追っていた。
「おかあさん、あの、フワフワ、クルクルしているものは、なに?」
この時もやはり、目の前のどこにも、なにも、わたしには見えなかった。何のことだろう、何があるのだろう、と気になった。だから、息子に聞いてみた。
「フワフワ、クルクル、しているものがあるの?」
わたしのその言葉を聞いたと途端、息子の楽しげだった表情は、きゅっと固まってしまった。わたしの目をじっと見つめてから、なにかを悟ったみたいに、そっと目を伏せて、なにもなかったかのように絵本に視線を落としたのだ。そのとき、わたしには見えなかった、そのフワフワ、クルクルしているものも一緒に、すうっと消えてしまったかのように感じた。
 
失敗した、とわたしは思った。
わたしは息子が楽しんでいることに、共感してあげられなかった。息子は、おそらく、それまで自分が見ていたものは、母親であるわたしも、当然見えているものだと思っていたのだろう。だから、フワフワ、クルクルしているものを見て、一緒に笑ってほしかったのだ。あれはなんだろうね、おもしろいね、と話したかったのではないだろうか。でも、自分には見えているものを、お母さんは見えていないみたいだ、とこの時はじめて気がついたのだと思う。そのときに息子が感じた寂しさに、わたしは気づいてしまった。
いつもみたいに、笑ってあげられたらよかったのにと、いまなら思う。散歩をしている犬や猫を見かけたときに、「可愛いね」と言い合ったり、おもしろい絵本を読んで、一緒に笑ったり、そんなふうに、なんでもないことのように共感してあげることができたらよかったのに、と。息子はただ、おもしろいものを見つけて、一緒に笑ってほしかっただけだったのだから。わたしには見えなかったから、それは難しいことだったのだけれど。

 

 

 

ある日、息子とおままごとをしていた時のことだ。
お皿やコップを綺麗に並べて、わたしと息子はお茶会をしていた。「これはおかあさんの分、これはぼくの分、これはおとうさんの分」というように、その場にはいない、父親の分もあわせて、3人分のお茶の用意をした。ごくごくと飲むまねをして、わたしは息子との時間をのんびりと楽しんでいた、その時だった。おとうさんの分、と用意していた3つめのコップを、息子がじいっと見つめるやいなや、発した言葉は衝撃だった。
 
「ふしぎなおじいちゃんも、お茶を飲んだ」
 
3つめのコップは、微動だにしていなかった。息子は、まだコップを見つめていた。その表情は興味津々で目が離せない、という様子だった。怖がっている様子は、まったくなかった。わたしは、おままごとの途中だったけれど、あわてて道具を片付けて、早々に息子と一緒に子ども部屋から移動した。
 
いまのはなんだったのだろう、と思いながら「ふしぎなおじいちゃん」について、考えてみた。この頃にはわたしも肝が据わってきたようで、子どものおままごとに参加してくれるなんて、なんだかユーモラスだな、と思うことができた。子どもが好きなのかな、それとも、おままごとが好きなのかな、そう思ったとき、ある考えが頭に浮かんだ。おじいちゃんって、わたしのおじいちゃんだったりして……。
 
わたしの祖父は、息子が生まれる2ヶ月前に亡くなっていた。ほんのあと少しでひ孫に会わせてあげられる、そう思っていた矢先のことだった。はじめてのひ孫に会える、唯一の機会だったのに、叶えてあげられなかった。祖父はひ孫に会えることを、楽しみにしていてくれていたのに。
 
生まれた息子は、偶然にも亡くなった祖父と同じ干支のたつ年、しかも同じ誕生月だったから、おじいさんの生まれ変わりだ、なんて言う親戚もいた。祖父は温かくてやさしくて、家族をとても大切にしていたから、みんな祖父のことが大好きだった。祖父のまわりには、いつもたくさんのひとが集まっていた。その祖父が、もしかして、息子に会いに来てくれていたのなら、とつい考えてしまったのだ。
 
まさかね、そんなことはないよね、と思いながらも、そうかもしれない、いや、そうだといいな、きっとそうだ! とわたしのあたまの中は勝手に盛り上がっていた。
 
おままごとに誰かが参加していたのかどうか、でさえも、もしかしたら定かではないのに、亡くなった祖父が息子に会いに来てくれたなんて、都合がよすぎる話だ。これはただのわたしの願望にすぎないことは、わかっている。それでも、そう思わずには、いられなかった。わたしは祖父に、息子を会わせてあげられなかったことが、心残りだったから。
 
「ふしぎなおじいちゃん」が祖父だったかどうかは、わからない。けれど、おままごとに参加していた誰かがいたのであれば、なんだかちょっと、温かい気持ちにすらなった。息子はまったくこわがる様子はなかったから、きっと好意的な、なにかだったのだろう。そんな不思議なことも、あってもいいのかもしれない、と思えるようになっていた。

 

 

 

小さな子どもは、目には見えないものを見えることがある、ということは聞きかじった育児情報で知っていた。だから、まだ幼いうちはそんなこともあるのだ、と覚悟していた。そして、5歳ぐらいを目安に、見えていたものが見えなくなるらしい、とも聞いていた。いろいろな説があるなかで、わたしはなんとなく、その話を信じていた。そして、息子は年齢があがるにつれて、なにかが見えると言うことも、だんだんと減ってきた、ある日のことだった。
 
保育園に行く、朝の支度をしているときに、息子はご機嫌な様子で部屋中を走り回っていた。そんなに走っていたら危ないよ、滑って転んだら怪我をするよ、と声をかけていたときに、息子は急に立ち止まった。その時の様子を、わたしはいまでもよく覚えている。走っていた息子は、軽くうしろにのけぞるような様子で、よろめいて、すんでのところで転ばずにふんばって立ち止まっていた。だから危ないって言ったでしょ、と声をかけたときに、息子は不思議そうに、言ったのだ。
 
「うしろから誰かが、ぼくの服を引っ張ったんだ。でも、振り返っても誰もいなかったんだ」
自分の背中を気にしながら話す息子は、うそをついている様子はなかった。ほんとうに不思議そうにしていた。そう、その時には、息子は見えないものが見えなくなっていたのだ。見えないなにかは息子に気づいてもらいたかったのか、遊んでほしかったのか、すべてわたしの想像でしかないけれど、きっと、そのときにはもう、息子はもう見ることが出来ない、と気づいたのではないだろうか。
 
それは、息子が5歳の誕生日を迎える、2週間ほど前の出来事だった。
 
バイバイ、と挨拶をしてくれたり、弾けるように笑うほど息子を楽しませてくれたり、おままごとをしてくれたり、息子のまわりを取り巻いていたなにかは、いつも楽しげで愉快で、好意的だったのだろう。どんな状況であれ、息子に対して優しいなにかがいたのかもしれない、と想像すると、ちょっとだけ、母親として温かい気持ちになる。そんな不思議な体験をすっかり忘れてしまっている息子に、あなたが小さいときに、こんなことがあったのだよ、と成長したら教えてあげたい。そして、これまで優しいなにかが取り巻いていたように、これから息子が歩む人生もまた、温かくて優しいものやこと、人たちで、あふれた世界であってほしいと願わずにはいられない。いつも誰かがそっと見守ってくれていた、あのときのように。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
種村聡子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

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2022-09-21 | Posted in 週刊READING LIFE vol.187

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