通訳者の一番長い日《週刊READING LIFE Vol.194 仕事で一番辛かったこと》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2022/11/21/公開
記事:工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「仕事」と聞くと、「つらい」「ガマン」「やらねばならぬ」など何かしらネガティブな言葉が連想されるのではないか、と思う。特に会社員だったりすると、組織内の人間関係が大きなストレスになることもあるだろう。
アドラー心理学について書かれた岸見一郎の『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013年)によると、アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しているという。
その点私は、大学卒業後も企業に就職することもなく、最終的にはフリーランスの通訳者として働いているのだから、組織の煩わしい人間関係なんかとは無縁だし、仕事で辛いことなんてなかったよなぁ……とつらつらと考えてみたら。実はやっぱりあった! それなりに辛かったことが。
それは某自動車会社で社内通訳として働いていた頃だ。
まだまだプロの通訳と名乗るのがおこがましかった駆け出しの頃のことになる。
そのとき、私は国内販売本部の部長付き通訳として配属されていた。
国内販売本部とは何をするところか?
もちろん、車を売る部署だ。
自動車会社は総合的な製造業の見本のような業界で、モノ、この場合は車を作って売らないと最終的に利益を得ることはできない。つまり、国内販売本部とは自動車会社の収益の要といえる。当時、業績が不振だったその会社は、全国に散らばる販売会社に大がかりなメスを入れるべく、担当部長を派遣してきており、その部長付きの通訳が私だったという訳だ。
毎月毎月、販売会社の社長を本社に呼びつけては財務状況から前月の販売結果と当月の目標などについて会議を行うのだが、ここで考えてみて欲しい。全国47都道府県、そのすべてに販売会社があるとして、その各社が最低でも2ヶ月に1回は会議のためにやってくるとなれば、1回1時間の会議が1日に6回ほど入るとしてもひと月に4日ほどは朝から晩まで会議漬けの日が発生する計算になる。
その1日6会議もある通訳をこなすことを私は求められていた。
しかも、同時通訳で。
人間、通訳などしなくても1日ずっと話し続けていたら疲れるものだ。いくら同じ形式の会議とはいえ、話し続けるという負荷、そして頭をフル回転させ続けるというハードワークのダブルパンチからその一日は逃げることもできない。ひとりで集中力を高く維持したまま通訳を続けると、ある一点でそれがガタッと落ちる。私はその状態は脳からブドウ糖がなくなった状態か、と思っていたが、本当のところは分からない。気分は全速力で猛ダッシュのまま走り続けて、ゴールで倒れ込む陸上選手だ。両脇から支えてもらっても、もう立てない。
とにかく、そうなるとその日はもう頭がぼーっとして使い物にならなくなってしまうのに、会議はまだ3つ残っている、ということが毎月起きた。よく考えたらかなり過酷な状況だったんではないだろうか。後でフリーランスになってから知ったことだが、同時通訳者は15分で交代するのが本当は常識だ。短距離ダッシュを続けるのではなく、適度なインターバルでダッシュと休憩を繰り返す、そんなペース配分なら同時通訳でも数時間は続けることができるものだ。
でもそのとき、私はひとりだった。
たまに他部署の通訳が手伝ってくれることもあったけど、最終責任は自分。
頭が使い物にならなくなっても、やるしかなかった。その頃、社内通訳の中で「顎関節症」は職業病だというほど、多かれ少なかれ、みな患っていたように思う。肉体的疲労の極致だった、と言える。
おまけにその会議の内容が、これまた通訳者泣かせとしかいいようがない話だ。なにしろ、販売会社の社長は業績不振で呼ばれているので、言い訳や言い逃れな口調が多くなってしまう。国内販売、という純日本な世界に私の上司はやってきた黒船だったから、社長たちは尊皇攘夷の志士のごとく、抵抗感もあらわに会議に臨む方が多かった。不平不満などの感情が強く存在するのに表に出ていない話は筋が追いにくくてどうしても訳しにくい。よって、こちらは倍疲れることになる。1日6回の会議で12会議やったかのように1日が終わる頃には疲労困憊、誰とも話したくない気分だった。まさに精神的にガッツリやられてしまう。
こうやって哀れな駆け出し通訳者の1日はやっと終了する。
そもそも、日本人と西洋人ではもののとらえ方が異なる。
会社の財務状況、販売業績などをざっくりと全体的にとらえようとする日本人に対して、アメリカ人の部長は細部にとことんこだわっていた。業績不振に大なたを振るうためのこだわりもあっただろうが、そこには視点そのものが違っているためにお互いの話が食い違うところがあったのだと思う。数学でいうところの「ねじれの位置」だ。どこまで行ってもお互いに平行線どころか、方向がねじれているのでお互いを視認することさえできない。
そのときは文化の違いもあるし、言い訳ばかり言っているからだ、と思っていたが、脳科学者、西剛志氏の著書『なぜ、あなたの思っていることはなかなか相手に伝わらないのか?』(アスコム、2021)によると、西洋人は分析的思考で、東洋人は包括的思考だそうだ。財務諸表の数値や販売台数など目に見えるもので判断しようとする上司のアメリカ人部長と、悪い意味でどんぶり勘定で数値をベースに話をしない日本人の販売会社社長では、話の土台が違っていたのでは、と今振り返ってみてそう思う。話が通じなくて当たり前なのかもしれない。
言語の構造から言っても、分析的思考と包括的思考の差は歴然としている。
英語はとにかく「動詞」、つまり動作に注目する傾向がある。動詞は主語のすぐ後ろに位置しており、重要度が高い。物事の動きに着目している感覚だ。それに対して日本語は、比較的名詞が大切で、動詞は文の最後に付くことが多く、否定語に至っては文が終わる最後の最後まで分からない。
英語と日本語は言語間の距離が一番遠い言語グループにお互い属している。そんな構造の違う言語の片方が、あいまいな表現になっていたら、同時に通訳する、という行為の完成度はすこぶる悪くなってしまう。
1日に詰め込まれた会議の多さ、言い訳などのあいまいな表現、それに言語的な構造の違いという三重苦が駆け出しの頃の私を襲っていた辛いことだった。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったもので、今の私はほとんどこの辛かったことを忘れかけていたようだ。
だって、今の私があるのはその時の長い1日のおかげなのだ。
あごの開け閉めがカクカクしても、頭がぼーっとなっても、また出張続きの生活で扁桃腺が腫れても、あのときあれだけ同時通訳をやったおかげで今の同時通訳者としての私が成り立っている。
集中力を切らさずに長い時間ついて行ける通訳体力は、場数をこなした当時の会議続きの日々で養われた。集中力というONだけではなく、うまくOFFにして力を抜いて長く稼働する技を切り開いたのもこの頃だったと思う。これは手抜きでは、ない。一流のスポーツ選手が力の抜き方を知っているように、私もいつもガチガチに肩の力を入れない方法をマスターした、というだけだ。
また、話し手の日本語がどんなにあいまいでぼやけたものでも、理解する自信が付いた。実際、あいまいな話し方をする人の話は「通訳を英語で聞いた方がよく分かる」とまでいってもらったこともある。その総合的理解力は、通訳以外の場面でも役に立っている。日本語でも英語でも文章を読んで把握する力はこの時代に獲得したものだろう。逆にTVから流れる言葉が意味不明のものだった場合、プチッとキレて話し手に殺意を抱くようになったのは、副産物とはいえご愛敬だ。
こうして考えると、やはり仕事での苦労は私にもしっかりと存在しており、またそのおかげで自分も進化してきたのは間違いないところのようだ。願わくばこれからもできるようになったことを上手く利用して、文章やその他クリエイティブな活動にも活かしていきたいものだ。どんなに長い一日にも終わりは来るし、長いトンネルを抜けたら、そこは辛いことを乗り越えた者だけが到達できる世界が広がっているからだ。
□ライターズプロフィール
工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
20年以上のキャリアを持つ日英同時通訳者。
本を読むことは昔から大好きでマンガから小説、実用書まで何でも読む乱読者。
食にも並々ならぬ興味と好奇心を持ち、日々食養理論に基づいた食事とおやつを家族に作っている。福岡県出身、大分県在住。
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