週刊READING LIFE vol.195

「小犬のワルツ」が「老犬のワルツ」になっても、いまなら笑い飛ばせると思う《週刊READING LIFE Vol.195 人生で一番長かった日》

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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/11/28/公開
記事:種村聡子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
眠れない。いろいろ考えてしまって、眠れない。きっと、今夜は寝付きが悪いだろう、と覚悟をしていたけれど、やっぱり予想通りだった。息子のピアノの発表会を明日に控えた、夜のことだ。出演する息子本人よりも、母であるわたしのほうが、緊張しているのだ。これまでたくさん練習した成果を、披露してほしい、少しでも間違いのない演奏をしてほしい、と考えていたら眠れないのだ。でも、むかしの記憶を思い出していたら、そんな小さな結果なんて問題ではなく、もっと大事なことがあると気付いたのだ。

 

 

 

わたしの息子は6歳の頃からピアノを習っている。今年でピアノ歴は5年になり、発表会への出演も4回目となる。その発表会に向けての練習も順調だった。数ヶ月前に曲をもらった時点では、ちょっと難しいのではないか、と一瞬ひるんでしまったが、先生の優しくも厳しい指導のおかげで、なかなかの仕上がりになってきた。本人もまんざらではない様子で、発表会当日を楽しみにしている。そう、それなのに、わたしは緊張と不安で眠れないのだ。なぜなのだろう?
 
1週間前に行われたリハーサルでは、上手に弾くことができた。先生方にも、いままでで一番上手だった、この調子で本番を迎えることができるといいね、と口々に言ってもらえた。ある先生には、たくさん練習を重ねていることがわかる音がする、がんばっている、という言葉をもらった。そう、息子はがんばって練習している。毎日欠かさず、まじめに取り組んでいる。だからきっと大丈夫、と思いつつ、それだからこそ、と思ってしまうのだ。その理由はわかっている。どうしてもあの時のことを思い出してしまうのだ。わたしが子どもの時の、妹の発表会での出来事だ。
 
わたし自身も子どもの時にピアノを習っていた。2歳違いの妹も、一緒に習っていた。練習での彼女の演奏は完璧だった。ピアノの先生からも太鼓判を押してもらって、その年の発表会当日を迎えた。妹は、ショパンの「小犬のワルツ」を弾くことになっていた。これが、いまでも実家では話題にすることすら躊躇われる、「小犬のワルツ」事件だ。
 
ショパンの「小犬のワルツ」は、可愛い曲だ。クラシック音楽をあまり聴いたことがない人でも、一度は聴いたことがあると思う。小犬が元気に走り回る様子を、まるでクルクルっとワルツを踊っているみたいに描写した、とても素敵な曲だ。そんなに走り回ったらバターになって溶けちゃうよ、といつも思う。まるで「ちびくろサンボ」の虎みたいに。そんなスピード感があって、聴いていて楽しい気分になる、疾走感のある曲を妹は発表会で演奏することになった。
 
いよいよ妹の出番がきて、舞台に立った。ちいさな妹の姿は堂々としていた。彼女はゆっくりとグランドピアノの椅子に座り、おもむろに弾き始めた、その最初の1小節を聴いて、わたしは「あれ、なんかおかしい」と緊張が走った。隣で聴いていた母も、驚いた様子で舞台の妹を見つめていた。息を殺して見つめる、というお手本のような様子だった。はじめは、演目とはまったく違う曲を弾き始めたと思っていたけれど、よくよく聴いてみると、間違いなくそれは「小犬のワルツ」だった。違うのは、速さだった。妹は、練習とはまったく違う、おそろしくゆっくりしたリズムで弾いていたのだ。それはまるで、「老犬のワルツ」だ、と思った。きっと、母も同じことを考えていたと思う。
 
彼女の演奏は正確だった。丁寧に、かみしめるように、指は美しく流れていく。舞台上のちいさな妹の指の動きさえも、はっきりと見えるような、落ち着いた演奏だった。いつもの妹であれば、2分ほどで弾き終わるはずの曲を、その何倍もの時間をかけて弾いていた。いつになったら、この曲は終わるのだろうか、と見守っていたわたしにとって、その時間は永遠とも感じられる、長い演奏だった。
 
1音の弾き間違いもなく、最後まで完璧に弾ききった。問題のリズムも、ある意味完璧だった。最初から最後まで、ずっと同じスピードを崩さなかった。きっとメトロノームで計ったとしても、リズムのズレはなかったと思う。すごい。うちの妹は、すごいと思った。
 
見事に弾ききって、舞台から降りた妹は涼しい顔でわたしたちの元に戻ってきた。失敗して悔しい、という様子はまったくなかった。ちょっと、速さがいつもと違ったね、と控えめに声をかけたら、彼女はこともなげに言った。
「あ、わかっちゃった? 最初の1小節を弾いたときにすぐに気付いたんだけどね、もう走り始めちゃったから、そのままの速さで弾いちゃった!」
なんと、彼女はゆっくりと弾いていることに気付いていたし、それをあえて直そうとせず、そのままの速さを崩さないように、気をつけて弾いていたのだ。そこでわたしは余計なことを言ってしまった。信じられない、気付いていたら正しい速さに直さなくちゃ、なんでしなかったの、と。それがいけなかった。妹はムッとして、それ以上この話はできなくなった。大人になるまで、ずっと。
わたしはこのとき、失敗したことを指摘されたから妹は機嫌を損ねてしまったのだ、と思っていた。この時の演奏の話は、本人が嫌がるからその後家族の間でも一切触れられることはなかった。そうだよね、失敗したことを蒸し返されるのは、嫌だよね、そんなふうに思っていたけれど、ほんとうのところは違ったのだ。
 
ずいぶん大人になってから妹と、偶然この時の演奏の話をしたことがある。すると妹はゆっくり思い出すようにして、はじめて教えてくれた。
「あのとき、失敗したことばっかりお母さんとお姉ちゃんは気にしていたけど、わたし、ちゃんと一曲弾ききったでしょ。音はまちがえてなかったでしょ。最後まできちんと演奏したことはなんにも評価してくれなくて、悲しかったんだ。がんばって弾いたことを、認めてほしかったんだ」
そうだった、彼女は驚くほどの正確さで弾ききっていた。まじめな妹は途中でリズムを変えることが出来なかった。そのままの速さで弾くことをあえて選んだのだ。子どもの発表会では、演奏の途中で止まってしまって、舞台に先生が飛び出してサポートする、なんてハプニングも時々ある。そんなことにはならないように、彼女はあの時がんばったのだ、それをきちんと評価できていなかった。いつもの上手な演奏であることにこだわっていたのは、まわりの人間だけだった。出演すること、弾ききること、その舞台に立つための日々の練習の積み重ねや努力を評価することのほうが、ほんとうは大切なのに。小さかった妹は、わたしなんかより、もっと大きな視点で物事をみていたのだ。
 
そうだ、妹の言葉と同じことを、発表会前の最後のレッスンで息子のピアノの先生も言っていた。
「いっぱい練習してきました。あとは、本番をどんなふうに乗り切れるかだけです。でも、もし思わしくない結果になったとしても、笑顔で迎えてあげてくださいね。いままでがんばって練習してきたことを、褒めてあげてくださいね」
どんなに練習を積み重ねたとしても、舞台の上では緊張と不安で、いつもの力を発揮できない時があるものだから、と。
 
いままで努力している姿を見ているだけに、がんばった成果を披露させてあげたい、と思ってしまう。でも、舞台で上手に弾くために練習してきたけれど、結果として上手く弾けないことだってあるのだ。そんなときに、まわりがしょんぼりしていたら、本人はもっと辛くなってしまう。だったら、いままで努力してきたことを労おう、褒めよう、とやっと思えるようになってきた。
 
そういえば、夫がおもしろいことを言っていた。
「子どもたちが演奏する発表会では全然眠れないのに、プロの演奏会ではよく眠れるよね、これって、安心して聴いていられるかどうかの違いだよね」
プロの演奏会で眠れるって、どうなのよ、と突っ込みたいところだけれど、確かにそうだと思う。子どもたちが一生懸命弾く発表会では、聴いているこちらのほうがハラハラ、ドキドキして気持ちが落ち着かない。でも、プロの演奏会では安心して心地よく聴き入っているから眠くなる。わたしは、そのハラハラドキドキは子どもたちの発表会の醍醐味だと思っている。その日のために練習して、緊張とともに演奏する姿はなんとも可愛らしい。それに、かつての妹の「小犬のワルツ」のように、大成功だった発表会よりも、なにか問題があった時のほうが記憶に残りやすい。後になって、ああ、あの時の、と思い出話ができるのだ。まあ、それはいまとなっては、の話だけれど。
 
明日の発表会のために誂えたスーツを取り出して、ブラシをかけてみた。このスーツを着て、明日はどんな演奏をしてくれるのだろう、わたしたちにどんな曲を聴かせてくれるのだろう。いや、どんな演奏であっても、本人が「楽しかった」と思えるような一日になるといいな。大きくなってからも、楽しい思い出のひとつとなるような、そんな一日になることを願いながら、わたしは眠りについた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
種村聡子(週間READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

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2022-11-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.195

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