希望の白、絶望の黒《週刊READING LIFE Vol.199 あなたの話を聞かせて》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2022/12/26/公開
記事:松尾 麻里子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「すぐに、大きな病院で診てもらってください」
やっぱりか……。
異常に高なった鼓動が、だんだんと正常値に戻っていく。
すると、今度は違う不安が頭をよぎる。このまま、この子は死んでしまうのではなかろうか。
ついさっきのやり取りが走馬灯のように蘇る。
「おばあちゃんだよ、聡大くん、大丈夫?」
6日前から高熱が続いて自宅で療養をしている息子の看病のため、母が手伝いにきてくれた。
母が近くに寄ると、さっきまでぐったりと横たわっていた息子は、起き上がって、何やら母に話しかけていた。どんな話をしているかまでは、掃除機の音でかき消されて聞こえなかったが、傍目には、いつも通り元気な息子に見えた。それまで、ほとんど飲まず食わずで寝込んでいて、会話もままならない状態だったから、少し良くなってきたのかと、一瞬、思ったが、それも束の間だった。
「気を遣って……無理して話さなくてもいいのに」
息子の部屋から戻ると、母は一言目にそう言った。せっかく母が来てくれたからか、息子は今の自分の状況を説明してくれたらしい。母の目には、もう、うっすらと涙が溜まっていた。そういう細やかな息子のことを不憫に思ったのと、想像以上に、容態が深刻だということが、母に大きなショックを与えたに違いない。息子は、自分が周囲に心配をされているとわかると、そうやって気を遣う癖がある。誰が教えたわけでもなしに、自然とそういう気の回り方が身についている。息子の方に視線を移すと、さっきまで座っていた元気な息子の姿は残像となり、また、布団の上で、苦しそうに横たわっていた。
そんな気優しい息子を想うと、一体、今のこの状況は何の罰だろう、と思った。
かかりつけの小児科医からの紹介状を待つ間、起こってもいないことを想像するのは、やめよう、やめようと分かってはいるのに、どうしても思考は「死」に辿り着いてしまう。
けれども、大学病院につくと、私のそれまでが、全て甘えだったように思えた。
それぐらい、患って辛い思いをしている人がたくさんいた。
小児外科の診察を待つ間、広い廊下を行き来する、たくさんの人々。
患者も、その家族も、病院のスタッフも、みんな誰もが、笑顔のお面を外せば、きっと不安で今にも泣いてしまいそうな顔に違いない。それでも、きっと治る、よくなる、という希望を信じているからこそ、今日もお面をつけて、この廊下を歩いている。あのお母さんだってそう、子供に話しかけるときは、とっても優しくて、穏やかな目をしているけれども、待合の診察順番が表示されるモニターを見つめる目は、ふとしたら泣いてしまいそうに赤く潤んで、口元もきゅっと閉めたままでいる。
私、独りじゃないのかも……。
そう思ったら、少し力が湧いてきた。
しっかりせねば、本当に辛いのは息子の方だ。
どんな結果であろうと、受け止めて、できることをすべきではないのか。
そうやって、自分を奮い立たせて、長い待ち時間をひたすら耐えた。
やっと診察の順番がきた。
担当医師に、今日までの経過を話し、医師からは、これから予定している検査について説明を受けた。
抗原検査に、尿検査、血液検査、C Tスキャンまで撮るという。それを聞いた時、ああ、この子は単なる風邪ではないのだなと確信した。実は、ここに至るまでに3ヶ所の小児科にかかり、最初は季節性の風邪、次はおたふく風邪という診断を受け、やっと最後の小児科で、血液検査をしてもらい、異常値が出たので大学病院への紹介状を書いてもらえた。一週間にいくつも小児科をまわって、異常と思われないかしら、そう思って、さすがに3ヶ所目の予約を入れるときは憚られたが、息子の様子が尋常ではないという予感があったので、結果的には正しい判断だった。
C Tスキャンを撮っている間、待合のベンチで待機していると、時々、人の往来で検査室の扉が開くので、中の様子が垣間見える。もちろん、装置に入っている息子の姿は見えないが、4人の専門医があれやこれやとモニターを指差しながら、真剣な表情で話し合っていた。自分の息子のために、力を尽くしてくれている、ありがたくて、胸が苦しくなるくらいだった。
全ての検査が完了し、検査結果を待つ間、それまで一言も発しなかった息子が、ポツリと一言、
「りんごジュースが飲みたい」
と言った。
「わかった、りんごジュース探してくるね!」
「あそこに、あったよ」
おもむろに、息子が指差す方向には、確かに自販機が3台並んでいた。
意外と冷静に周りを見ているのだなということに、少しほっとして、母と二人で笑い合った。
りんごジュースを買ってくると、息子に飲ませた。この何日か、飲み物であっても、すぐに吐き出してしまっていたので、不安だったが、どうにか飲めたようだ。
その時、看護師から診察室へと呼ばれた。
医師からは、お母さまだけこちらへどうぞ、と診察室に招かれた。
その瞬間、ゾッとした。これは、きっと、何かあったに違いない。
足がすくむ思いがしたが、覚悟を決めて、聞くしかない。
心臓が止まりそうだった。
検査の結果、コロナウイルスでも、インフルエンザでも、溶連菌でもない。
ただ、何かしらの細菌が悪さをしているようだ、と血液検査の結果を見ながら説明を受けた。
数値結果の横には、Hが並び、枠外の追記に目をやると、H=異常値判定と記載があったので、愕然とした。そして、私は親として、一体、この数日間何をやっていたのだろう、と自分で自分を殴りたい気持ちに駆られた。こんなになるまで、決してほっといた訳ではない、それでも、家庭での看病に限界を感じた。
「次は、こちらのC T画像を見てください」
モニターには、4歳の小さな、小さなC T画像が写し出された。
「この右の耳下から首に膨らみがあるのがわかりますか?」
医師の指差すところが、明らかに、ぽっこりと突き出ていた。
私は、その膨らみを見ながらも、C Tのモノクロ画像でもわかるまだ丸々とした輪郭が、この子が4歳であることを主張しているかのように思えて、本当に見ていて辛かった。
「ここに、膿が溜まるポケットが出来てしまっていて、そのせいで高熱が続いていたようです」
「この菌をしっかりと殺すこと、あとは他の病気の可能性も否めないので、今日から2週間を目処に入院していただくことになります」
2週間……。
想定していたより長いな。
「お母様は付き添いをされますか?」
「付き添えるのですか?」
「はい、可能ですが、付き添いの方も入院開始から一歩も外に出ることができないので、それが可能であれば」
「私も主人も働いているし、それに上の子もいるので、付き添いはできない……ですね」
「では、息子さんに頑張ってもらいましょう」
「はい、よろしくお願いします」
息子が産まれてから、一日も離れたことはなかったので、このようなシチュエーションをお互いに耐えられるか不安がないと言ったら、嘘になるが、もう家庭でできることはないと痛感していたので、任せるしか選択肢がないことは一瞬でわかった。
「しかし、息子さん、この数日、痛かったでしょうね、飲まず食わずも頷けます」
医師のその言葉を聞いて、私は、頬に大きな張り手を食らったような気持ちになった。
2日前、飲んだものは吐いてしまうし、病院からもらった薬は、「苦い、飲みたくない」と言って、尽く受け付けず、無理やり飲ませても、全て口から垂れ流してしまう。このままでは息子は死んでしまう、そんな気持ちの焦りから、あろうことか、息子のことを思いっきり叱りつけ、勇気づけるどころがどん底に突き落としてしまった。
「これを飲まないと治らないの! 何でわからないの?」
「苦いとか、嫌だとかじゃない! わがまま言っている場合じゃないの!」
「みんなね、迷惑しているの、聡大くんが、頑張らないから、少しぐらい努力してよ!」
「迷惑」という言葉を聞いた時、息子が今まで見せたことがないくらいの悲しく歪んだ顔をした。
それでも、私は、怯える息子の鼻を摘んでまで、この薬を飲ませるしかない! それしか、私のできることはない! 心底そう思っていた。もう、正気の沙汰ではなかったかもしれない。そのぐらい、日増しに弱っていく息子を見て、追い詰められていた。
「怖い、怖いよ……怒らないで」
泣きじゃくる息子。
泣きじゃくる私。
もう、どうしてあげたらいいか、全く、わからなかった。限界だった。
外はこんなにも冬晴れの気持ちの良い日なのに、日光が優しく降り注ぐこの部屋で、私と息子は絶望の暗い淵にいた。
「松尾さん、松尾さん」
私を呼ぶ声がした。
ハッと顔を上げると、医師が呼びかけていた。
「すみません」
「入院の準備が終わったので、移動しましょう」
「息子さんを抱っこしてあげてくれませんか?」
「あげて」という言葉が耳に残った。
ああ、それぐらいのこと、いや、違う、これは私ではないとできないこと。
全身から湯気が立ちそうなほど熱くうなされ、飲まず食わずでやや骨張ってしまった息子の身体を抱き上げ、入院病棟まで移動する間、私は、幸せを感じた。この数日、何もしてやれなかったが、今はこうして、息子が私に身を預けて、これから起こるであろう幾多の不安を拭いさろうとしてくれている。
病棟の前までくると、案外、別れを惜しむ間も無く、さっと連れて行かれてしまった。
看護師に抱かれ、私の顔を不安そうに見ながら、バイバイと小さく手を振ってくれた息子の顔がずっと忘れられない。他の看護師から、入院中の説明を受けている間、厳重なガラス戸の向こうからは、
「痛いことをしないでー!」
と泣き叫ぶ息子の声がずっと響いていた。
その声を聞きながら、何もしてあげられない不甲斐なさで、胸がいっぱいになり、掟を破って、このガラス扉を開けてしまおうか、とまで思ったが、そんな大それたことはとてもできるわけではなく、ただ、黙って、医師や看護師の説明を聞いていた。
新型コロナの影響で、面会は当面出来ないと言われたが、一日に10分間だけ、着替えや必要なものの受け渡しのために、来訪することは許可されるという。新型コロナ流行に対する憎悪を抱いた。
その日は、結局、お昼前に大学病院に入り、諸々入院手続きなどを終えたのは、夜の7時過ぎだった。帰宅をすると保育園から帰っていた上の息子が出迎えてくれた。あまりにもいつもと変わらない息子の顔に、思わず、張り詰めていた糸がプツンと切れて、むせび泣いてしまった。母からは、あんなにも、不安になるから上の子の前では涙を見せないようにと言われていたのに。
「聡大くんが、入院することになっちゃった」
「もし、帰ってこなかったらどうしよう、お母さんは、胸が、胸が苦しいよ」
堰を切ったように出てきた私の本心は、本当に私の胸を締め付け、そのうち立っていることもままならなくなってきた。その様子を見ていた上の息子は、私の目を見据えながら、しっかりとした口調でこう言った。
「お母さん、聡大くんが、元気に戻ってくる夢を見るといいよ」
「それが、もし、難しいのなら、僕が昔、入院したことを思い出して」
たった、この2行にどんなにか励まされたことか。
そうだ、この子も、初めて熱性けいれんを起こした時、同じ大学病院にお世話になって、一週間一人で入院して、ちゃんと帰ってきてくれたのだった。そうだ、そうだった。だから、きっと大丈夫……。
それから数日、上の息子は、私の不安を察知しては、僕は聡大くんの心の声が聞こえるよ、元気そうだよ、もうすぐ帰るね、と言っているよ、などと彼なりの方法で、私をしっかり支えてくれている。それにしても、6歳にして、こんなにも現実を受け止め、弟が無事帰ってくることをひたすら信じ、いつも通りに過ごせるなんて、私より、よっぽどしっかりしていると思う。彼のおかげで、私は病院からの情報がほとんど無い日々を何とか平穏に過ごせている。
今日も朝からオセロの対戦をせがまれた。
最近、上の子は、ボードゲームやカードゲームにはまっているらしく、ことあるごとに勝負を挑んでくる。あまり気乗りはしないが、家でぼうっとしているよりかは、幾分、気が晴れるかもしれないと対戦を受けることにした。6歳にしては、なかなかの腕前だった。
白が私、黒が息子。
オセロの石が、白になったり、黒になったり、形勢がめまぐるしく変わっていく。
それは、まるで、ここ数日の私の有様のようだった。絶望の淵に立ったかと思えば、救いの手が差し伸べられ、目の前に希望が広がっていく。それでも、また、暗闇はやってきて、眠れない日々が続く。そして、今、私の携帯に一本の電話がかかってきた。病院からだった。
「息子さん、MRIの結果も特に問題なく、明日で退院できそうです」
ああ、本当に? やっと、やっと、この日々から解放される……
「次、お母さんの番だよ」
電話を切ると、すかさず息子から急かされた。
「あ、ごめん、ごめん」
息子の思いがけない退院の予定に、興奮冷めやらぬまま、次の一手を考えて私は思った。
この勝負、私の勝ちだな。このまま順調に進めば、3分の2が白で染まる。
白は希望、黒は絶望。
私は、不思議にも息子とオセロをしながら、私と私の家族に起こった出来事を重ね合わせ、この戦いに希望の白が勝つという終止符を打ち、明日、2週間ぶりに、ガラスの扉の向こうの息子をこの手に抱きしめられることに、今から、胸の高鳴りがおさまりきらないのだった。
時刻は、12月18日の23:15を指していた。
今日はもう寝よう。何だか良い夢を見られそうだ。
□ライターズプロフィール
松尾 麻里子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
超有名創業者率いる大手電機メーカー、明治から続く老舗の空間設計会社、現役音楽プロデューサーが立ち上げたスタートアップのI Tベンチャー、言わずと知れた某大手人材派遣会社など、様々な業界を渡り歩き、一貫してフロント営業を担当。そこで見聞きしてきた人々のバラエティに富んだキャリアに興味を持ち、その人生を歩むに至った背景の紐解きや、これからのキャリアに悩める人たちのサポーターになりたいという想いから、国家資格キャリアコンサルタント、B C M A認定キャリアメンターの資格を取得。現在は、天狼院書店ライターズ倶楽部にて、その人の人生、哲学、信念などを文章として世の中にお届けすることを目標に掲げ、実践的なライティング術を勉強中
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