離婚届にサインをした時、夫からもらった最後のプレゼント《週刊READING LIFE Vol.202 結婚》
＊この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか？賞を取れるのか？プロも通うのか？〜
2023/1/30/公開
記事：牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部）
私は、20歳を待って結婚した。
３月の晴れた日に、私たちは結婚式を挙げた。
２年間、同棲をしていたから、大きな変化でもない。結婚式をして、正式に夫婦になるだけの話だ。結婚式の会場から二人でアパートに戻り、初めての海外旅行となるハネムーンに向けて用意をする。住み慣れたアパートに着くと、妙な気持ちになった。鎖につながれたような重みを心に感じたのだ。これが、結婚することの責任の重さか……自由を失ったような不思議な重みだった。きっと無意識に、この結婚は間違いだと分かっていたのかもしれない。一番幸せな日に、なぜ鎖につながれると感じたのか、心が沈む理由が分からなかった。
もしかしたら夫と合わないのかもしれない……結婚前にそう感じることは何度となくあった。喧嘩が絶えない日々が続いたからだ。夜中に激しい口論をする私達に、アパートの下の住人から、クレームがあったこともある。結婚しても大丈夫かと迷ったけれど、現実を壊す勇気がなかった。
長く付き合えば、倦怠期もあるだろう。結婚生活なんて、いつもいいことばかりではない。恋愛経験の少ない私は、過去の恋愛と比べられずに、自分自身に言い聞かせた。何より、全てを捨てる勇気が持てなかったのだ。今さらここまで生活してしまっては、周りの目もある。倦怠期を乗り越えることも結婚生活の一部だと、自分に言い聞かせた。
夫の浮気は、息子が1歳になった頃に初めて知った。夫にも言い分があったのかもしれない。だが、夫を信じていた私は、ショックで心のバランスを崩し心療内科の先生に苦しみを語るようになった。頭痛薬を大量に飲み込むくらい自暴自棄にもなったが、立ち直る力となったのは、息子の存在だった。周りの家族が妬ましいくらい羨ましかった。子供の頃から夢見ていた「普通の家庭」が、崩れ去っていく。
朝起きると、孤独感が襲う。そして現実に向き合う。家族を信じられない苦しみは、何よりも耐え難かった。
「なぜ何もしていないのに、こんなに苦しまないといけないのだろう？」
「息子がいるから、私は幸せだ。息子がいればそれだけでいいんだ……」
朝起きると、呪文のように自分に語りかけた。人を妬んだらキリがない。幸せな家族を演じながら、私は息子のためにひたすら耐えた。トンネルの中にいるような暗闇の生活に、息子という光だけがただ光るだけだった。
夫に浮気されてからは、毎日、夫が憎かった。
息子の前では、幸せそうな母親を演じられても、本当はいつも寂しい。仕事から帰る夫に明るく１日の話ができたらどんなに幸せだろう？ 普通の家庭での「当たり前」が、私には当たり前ではない。問題がない家族を演じながらも、心の中はいつも寂しかった。だから私は、裏切った夫に小さな復讐をした。
「おはよう」
「いってらっしゃい」
「おかえり」
「おやすみ」
この４つのワードを絶対に夫には言わなかったのだ。当たり前に語られるこの言葉には、心を通わせる温かさがある。だからこそ、絶対に使わないと心に決めた。
結婚生活は、２５年で幕を閉じることとなった。
その原動力になったのは、Aさんとの出会いだった。磁石が引き合うように彼に激しい惹かれ方をし、止められなかった。とても好きだったが、私は離婚をする気持ちにはなれず苦しんだ。何よりも息子の生活を変えたくなかったからだ。心が通じていれば、形なんて構わない。そんな甘い考えが、独身の彼を苦しめたのだろう。彼からすれば、きっとパートナーが欲しかったはずだ。彼は、私といることより家族になってくれる女性を選んだ。
ある日、彼からメールがやってきた。
「実は、気になる人がいるんだ……」
既婚者の私には、怒る権利はない。彼を止める権利もない。聞き分けのいい女性を演じるしかない。いつも私は演じてばかりだ。本当は、ただ心がホッとできる人が欲しい。
夫には３度浮気をされたが、彼に別れを切り出された時は、３度の浮気よりももっと苦しかった。純粋に彼が心から好きだったからだ。
朝起きて、カーテンを開ける。もう彼とは会えない現実に向き合う朝が、切ない。仕事が終わり、ビルの外に出る。自分に戻る瞬間、彼を失った寂しさが込み上げた。苦しくてどうしようもない。父が亡くなった時よりも泣き続けた。
もう、自分に正直でありたい。自分の気持ちに蓋をすることはやめよう。
彼を失った悲しみ以上に辛いことはなかった。悲しみが、私に離婚をする勇気を与えてくれた。
離婚には、エネルギーがいる。
２０代の頃、結婚してしまったほうが楽だから……と思った私は、２５年後に同じ課題に向き合うこととなる。人には、人生の課題があり、ごまかしたり逃げたりしても、それにしっかり向き合い乗り越えるまで、何度でもやってくるものなのかもしれない。あの時よりも、人生を重ねた分、越えねばならないことが増え、「離婚」という人生の山は、ものすごく高くなっていた。話し合いがうまくいかず、疲れ果てて床で寝てしまう日々が続く。それでも私は決して決意を曲げなかった。人を愛する気持ちは、何よりも大きなエネルギーになる。
離婚後は、思っていたより明るい生活が待っていた。
きっと、正直に生きて自由になれたからだろう。私は、やっと自分の道を見つけたのかもしれない。人から憐れに思われようと、私は何も気にしなくなった。そして仕事に打ち込み、息子を育てる日々の中で、ふと思ったことがある。
夫は、私に一番のプレゼントをくれたのではないか？ そう思うようになったのだ。もし、夫が浮気をしなかったら、どんなに愛していなくても、私は夫を見放さなかっただろう。きっと、合わなくても愛が感じられなくても、夫を裏切らなかったはずだ。夫が浮気をしたからこそ、私は夫に別れを告げることができたような気がしてならない。夫のおかげでやり直すチャンスが得られたわけだ。浮気をされた日々は屈辱的だった。それでも「今の私」があるのは、夫が浮気をしたからのような気がしてならない。
夫の浮気を肯定するつもりはない。心に受けた傷も深い。だが、夫は私の心を映し出す鏡だったのではないか？ 夫からもう一度新しい人生をもらったのではないか？ そう思えるようになると、夫への憎しみが少しずつ薄れるような気がした。
結婚とは、まだ知らない自分自身と出会うことなのかもしれない。
大切な人と手を取り合い、励まし合い、家族を増やす……この当たり前の共同作業も結婚生活だが、それ以上のことがある。結婚とは、自分自身を深く見つめることなのだ。
私の結婚生活は、離婚という形で終えてしまった。それは、夫が人生に対して望んでいたことと、私が望んでいたことが合わなかったからにすぎない。夫と一緒に暮らすことで、私は私自身のアイデンティティに気づくことができた。それは、「正直である」ということだ。自分の心に正直に生きることが何よりも必要な私は、夫の嘘が許せなかった。正直でいることの必要性を見せつけられ、気づいたような気がする。
さらに、長い結婚生活の中で私が求めていたものは、お金で買えない「心」だった。
夫は、経済力で私にたくさんの機会を与えてくれた。私が行きたいと言う場所には、どこでも行く機会を与えてくれた。ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、アジアの国々……私にはかなりの海外旅行の経験がある。そして、ブランド物の数々も一通り身につけた。夫が惜しみなく私にその機会を与えてくれたからだ。きっとそれが、夫の愛情表現だったのだろう。だが、私が望んでいたものは、経済的な豊かさではなかった。もっと心が温かくなるような、心が通じ合えるような二人の絆だった。何度も説明し、何度も寄り添おうとしたが、それが叶うことがなく、華やかに着飾る日々の中でいつも心がどこか寂しかった。夫が見せてくれたおかげで、私は「私が望むもの」が見えた気がする。
離婚をして、新しい人生を歩きながら３年が過ぎようとする今、私は新しい出会いに恵まれた。Bさんとはマッチングアプリで知り合った。アプリは危険なものと思っていたが、現代のお見合いではないかとも思える。彼とは、アプリの中で慎重に会話を重ねていった。長く書かれた文面から、人柄がにじみ出てくる。
過去の心の傷を話しながら、彼が私に語ってくれたことがある。
「鏡というものは、自分が正面に立てば正面の姿を映し出してくれるけど、立ち位置や角度を変えれば、見え方が変わるよね。僕は、相手と正面から向き合いたいと思っている」
彼と出会い、私は新しい関係を始めたばかりだ。きっと大きな苦しみを乗り越えた今だからこそ、彼と出会えたような気がしてならない。新しい関係が、結婚につながるかどうかは分からない。離婚に苦しんだ私には、あの薄っぺらな紙切れ１枚が、いかに重いものかを心得ているからだ。二度と結婚したくない……離婚した当時は、そんな気持ちでいたこともある。
彼と出会い過ごしていく中で、これからどんな「自分自身」に出会っていくのだろう？
結婚は、二人でいる幸せだけを追求するものではなく、「自分自身」を映し出してくれるものではないだろうか。長く続いても、短く終わっても、自分自身を知ることにつながる。互いが互いの鏡となり、「自分自身」を捉えることができれば、その結婚はどんな形であれ幸せな結婚と言えるような気がするのだ。
新たな一歩を踏みだした私は、彼という鏡に正面から向き合うつもりだ。そして、私自身を映し出しながら、愛とはどういうものであるのかを、今度こそ彼と一緒に見つめていきたい。
□ライターズプロフィール
牧 奈穂（READING LIFE編集部ライターズ倶楽部）
茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、２５年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。２０２１年１２月開講のライティング・ゼミ、２０２２年４月開講のライティング・ゼミNEO、１０月開講のライターズ倶楽部を受講。
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