目の前にあるのに誰も気づかない教養《週刊READING LIFE Vol.203 大人の教養》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2023/2/6/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私には、お手本にしたいと思う人がいる。
それは、息子の幼稚園でお世話になった園長先生だ。園長先生は牧師さんでもある。だが、牧師さんだからと尊敬しているわけではない。
園長先生は、もう今は70代の後半にはなるだろう。「優しいおじいさん」という雰囲気だが、優しさの中にも強さがあるような人だ。ほっそりとした見た目と違い、いつも精力的に動いていた記憶がある。当時は、震災で幼稚園がダメージを受けたばかりだった。壊れてしまった教会を建て直すために、熱心に動きまわっていたことを思い出す。
園長先生と初めて会ったのは、息子の幼稚園選びをしていた時だった。
その頃、私はたくさんの幼稚園を見学していた。幼稚園は、我が子が初めて社会に出る「原点」となる場所だと思っていたからだ。できるだけ理想とする環境を与えたい。そう思いながら、幼稚園の情報を集めていた。
「幼稚園を決める際は、お子さんを実際に園内で遊ばせてみて下さい。お子さんが楽しそうに遊べて、気に入るところがいいです。運動会もぜひ見てみましょう。いくつか見ると雰囲気が分かるものですよ」
市内の幼稚園のほとんどが集まる合同説明会で、そんな言葉を耳にした。
だから言われた通り、気になる幼稚園を見に行くが、どこを見てもピンとこない。どうせこの園も気に入らないだろう……期待せずに、ある幼稚園を見学した。
「幼稚園は、何かができるようになる場所ではありません。ひらがなや水泳、英会話などを教える場所ではないのです。目に見えない心を育てる場所なんです……」
シンブルだけど心がこもった園長先生の教育論は、私がまさに求めていた教育だった。
やっと見つけた! 直感で、息子を入園させることに決めた。
入園式では、園長先生が毎年同じ話をする。
「みなさん、今から『親切の手袋』を配ります。この手袋を使って、お友達に親切なことをしてあげましょう」そう話すと、園児一人ひとりの小さな両手を握りしめる。
小さな幼稚園の中は一つの大家族のようで、先生方が全員で関わってくれた。個性を伸ばしてくれる温かさもある。3年間先生方に見守られ、息子らしく、穏やかに過ごすことができた。
ところが息子が小学校に入学すると、全く違う生活に戸惑いを見せるようになった。
朝は、腹痛から始まる。学校に行くのが辛い。
いつかは慣れるだろう……そう思い待ってはみたが、治る気配は全くない。幼稚園の外は、冷たい世界に思えてくる。
今まで学んできた「思いやり」が通用しなかった。心の教育とは何だったのだろう? 何度自分に問いかけたか分からない。一時的に穏やかな幼稚園に入れたところで、現実は厳しいのだ。「温かな」環境が「ぬるま湯」だったようにさえ感じる。私が選んだ幼稚園で、息子を育てた選択は間違っていたのではないか? 息子が腹痛に苦しむ姿を見て、自問自答が続いた。友達と合わずに心が傷つき、厳しい表情の息子を見ると心が痛む。
2年生になると、息子は歩けないくらいの腹痛に耐える日もあった。歩けずに車で送ったこともある。このままでは、息子の身体がボロボロになってしまうかもしれない……不登校になるのも時間の問題かもしれない……
悩んだ私は、園長先生に相談に行った。
息子を転校させることは間違っているのだろうか?
園長先生に息子の2年間の腹痛について話をし、様子を伝えた。話しているだけで、心が軽くなり落ち着く。母である私も、不安ばかりの毎日だった。園長先生は、遠くを見つめるような眼差しで、穏やかなゆっくりとした口調で語り始めた。
「彼なら、転校しても、しなくても、どちらでもやっていけると思うな」
その一言に、ホッとして涙が出そうになる。息子を「信じる」心を見たような気がしたからだ。園長先生の「大丈夫」という言葉を聞き、子育てで一番必要なものに気づかされた。
園長先生は、自身の子育てについて思い出す。
「僕の息子は、中学校に入学した時、小学校の先生が息子をよく評価していなかったみたいでね……何かをすると注意ばかりされて、だいぶ居心地が悪かったようなんだ。僕は、その時、息子に学校生活が楽しいと思ってほしかったから、もっと合う学校に転校をさせたことがあったなぁ。小学校や中学校は、親が選んであげてもいいのではないかと思うんだよね」
園長先生の穏やかな眼差しの中で、私は自分の気持ちが見え、転校させることを決意した。
大人の教養とは、幅広い知識を持つ人のイメージがある。専門分野がある、趣味が多い、読書量が多い……そのような知識量のある、知的な大人を想像することもあるだろう。だが、大人の教養とはそれだけではないのではないだろうか。
自分自身の人生の中で、プラスの経験もマイナスの経験も全てを学びに変えていき、そこから得た価値観を惜しみなく人に与えられる人ではないだろうか? 教養とは、人を支え、助け、導く道具と言ってもいい。
「人を創る」のは職業や地位だけではないように思える。
幼稚園に息子を預けていた時、園長先生は、さまざまなエピソードを語りながら人に「寄り添う」ことを伝えようとしていた。保護者会に呼ばれると、いつも親である私たちに話をしながら、「寄り添う」ことの大切さを説いていたのを思い出す。
「人の苦しい話を聞いて、気の毒に……と同情することは、その人の心に寄り添うことではありません。それは、人を遠ざけることです。人に寄り添うというのは、その人の苦しみを共に感じようとし、辛いね……とその人の心と同じように感じてあげる行為です」
何か特別な知識があることだけが、教養があるということではないのかもしれない。困っている人に寄り添い、人生から得た学びを他者に役立てることができる人を「教養がある人」と呼べるのではないだろうか。
1年前も、息子は園長先生に導いてもらうことがあった。
ちょうど高校入試が終わったばかりだった。久しぶりに近況報告がてら、園長先生に会いに行く。
第一志望が不合格で、思うような合格を手に入れられなかった息子には、少し切ない春だった。息子は、自分の原点に戻りたい時に、幼稚園に向かう。
息子の話を一通り聞くと、園長先生は優しい眼差しで、いつものようにゆっくりと話し始めた。
「僕はね、高校生の時、体調が悪くて大事なテストを受けられずに進級できなかったことがあるんだ。下の学年になって、下級生達と一緒に学ぶことになってしまった。下級生も僕を上級生だとわかるから、『◯◯さん』と呼ぶ。同じ学年になっても、年上の僕を呼び捨てにはできないんだよ。次第に先生までもが同じように呼ぶようになった。誰もが気遣いからしていた対応だけど、毎日、進級できなかった屈辱を味わったよ……」
園長先生は笑いながら話す。
「ある日、教会で、いつものメンバーで集まった時、僕が進級できなかったことを話したんだ。すると、先輩が、『辛いね……』とだけ言って、それ以上何も言わずに山登りに連れて行ってくれたんだよ」
園長先生は、その時に、「寄り添う」ということの意味を学んだのだと言う。その時の経験が、牧師さんになる道につながったのだそうだ。
「よく、試練と共に逃れる道を与えてくれると言うけれど、逃れる道は、逃げる道じゃないんだ。それは、耐えられる道なんだよ。だから、君はきっと大丈夫。今のまま、目の前の道を進めばいい。今は、挫折や苦しみを思い切り味わって、そして前に進めばいい」
園長先生は、不合格に傷つく息子に、温かく語りかけたようだ。
「年少の頃、幼稚園に来たくなくて玄関で泣いた子は、次の年に同じように泣く子のそばに行く。それは、悲しい心が分かるから寄り添うんだよね。
僕はね、復興のボランティアは瓦礫の撤去をするだけではないんだって、感じたことがあってね……現地で一緒に働くことだけが大事ではないと気づいたんだ。僕も同じように被災者となって、見えたことがある。被災者の心に寄り添うことが大事なんだって、ある日気づいたんだ。」
園長先生自身も、人生から学ぶ姿勢が見える。自身の経験から、今もなお、新たな学びを得ているようだ。
「僕と仲良くなる人は、みんな変人だよ。だから、君もきっとそんな道を行く気がするな。ここにはいつでも来たらいい。好きな時に教会だって使っていいからね。
若い子は、止まらずにずっと動いていたい年頃だと思う。でも、時々は止まって、一人になって、自分に問いかけてみたらいい。また、いつでも遊びにおいで」
幼稚園に行くまでは、元気があまりなかった息子が、吹っ切れたような表情で戻ってきた。人は、人からの温かな言葉が何よりのエネルギーとなるのだろう。
園長先生のように、歳を重ねながら、人生から学び、心をしなやかにして行くことが教養のある人なのかもしれない。そして、人に与えるためには、常に自分の人生をポジティブに楽しんで生きることも大切だろう。長い人生の中には、どんな人にも良いことと悪いことが起きる。その経験を全て学びに変え、人生哲学として心に蓄え、他者を励ますための道具として使うのだ。たとえ裕福でなくても、社会の中で特別な地位にいなくても、自分の人生を通して誰でも「教養」を身につけることはできる。
園長先生のように、人の心に寄り添い、励ます言葉がかけられるような人でありたい。
まずは、自分の人生をポジティブに生きてみよう。その日々の生活の中で起きることを人生の学びとして積み上げ、自分の中に蓄えていく。どんな些細な日々の出来事にも必ず意味があるからだ。歳を重ねるにつれて、ますます深みが増すような、成熟した大人になること、それが「大人の教養」ではないだろうか。
□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、25年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEO、10月開講のライターズ倶楽部を受講。
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