週刊READING LIFE vol.210

強がり女子の処世術《週刊READING LIFE Vol.210》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/3/27/公開
記事:今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)
※この記事は、フィクションです。
 
 
チッ、チッ、チッ。
時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。
しんと静まりかえったオフィスで、佐田友香はパソコンから目を離して大きく伸びをした。最小限の照明をつけて仕事をしているのは、友香一人だけだ。友香とその周りのデスクが、スポットライトを当てられたみたいに浮き上がって見える。
「ああ、疲れた……」
首と肩をグルグルと回して溜息をつく。終業時刻ギリギリに飛び込んできた案件の資料作りに、思いのほか時間がかかってしまった。
 
時刻は23時を過ぎていた。向かい側のビルの窓にも、ポツポツと光が見える。ああ、同じような人があっちにもいるんだな。友香は苦笑いを漏らすと、デスクに裏返して置いておいたスマホを手に取った。LINEのアイコンをタップすると、彰吾からのメッセージが目に入る。
「わかった」
シンプル過ぎる返答に、もうちょっと何か付け加えることがないのかと思う。
「がんばれ!」とか「じゃあ、今度美味しいものでも食べに行こう!」とか、テンションをもう少し上げてくれるような文面を期待していた友香も、「ごめん」とだけ返信する。
彰吾からの返信は、20時ごろに来ていた。もう少し何か言葉を足した方がいいのかもしれないけれど、友香にはもうその気力が残っていない。スマホ横のボタンを押して画面を暗くすると、再びデスクの上に置いた。
 
若い社員の中には「残業しない主義なんで」と言い置いて、さっさと帰宅する人もいる。自分もそう言えたらどんなに楽だろうかと思うけれど、今日のようにギリギリの仕事はなぜか友香に回ってくる。チーフは、形だけ部下の顔を見まわすと当たり前のように友香を指名するし、同僚もそれについて何も言わない。だから、友香がやるしかないと思ってしまう。「NO!」と言えない自分が不甲斐なくもあるけれど、任されるということは見込まれているのかもしれないと、どこかで自分の承認欲求に餌を与えてしまう。
 
「……お疲れさまでした」
夜間出入り口の守衛さんに挨拶をすると、友香はビルの裏手から急ぎ足で駅へと向かった。冷たい風に身震いすると、コートの前を両手で合わせる。あれから30分で、何とか資料を作り終えた。終電まで、あと15分だった。会社の最寄り駅から、友香のマンション近くの駅までは約30分かかる。
 
ガタン、ガタン。
電車の揺れに身を任せる。通路を挟んで向かい側の窓に、夜の景色が流れていく。足のふくらはぎに熱すぎる暖房の風が吹きつけるが、友香はそれを避けるのすら億劫になっていた。
 
今日は、彰吾とオススメのタイ料理を食べに行くはずだったのに。
最近急な仕事が多すぎて、直前で約束をドタキャンすることが増えた。仕事だから仕方ないと言っていた彰吾も、近頃では「またか」という感じなのだろう。会えたとしても、つい仕事の話ばかりしてしまう。付き合い始めて3年目になると、お互いの性格や生活スタイルもよく分かっている。だけど、ずっとこんな調子が続いていいはずがない。
 
ゴーッという音がして電車が橋を渡ると、次第に窓の外の明かりが少なくなっていく。あと2駅で到着だ。時刻は0時過ぎ、そういえば夕食がまだだったことに気づいた。今から食べたら太るし、30代に入ってから遅くに食べると胃もたれするようになった。けれど一旦空腹に気づくと、このままでは眠れない気がして、駅の前にあるコンビニで軽めの夕食を購入して帰宅した。翌朝に備えて、できるだけ寝なければ。冷たいベッドに横たわると、友香はすぐに寝息を立て始めた。
 
「さすが、佐田さんだよね」
翌日の会議が終わると、チーフの前川さんは満足気に頷いた。
「急な仕事頼んでも、しっかり抜かりなく準備してくれるからね」
同僚たちも、前川さんと同じように「そうですよね」と頷く。正直、悪い気はしない。
「お役に立てて、よかったです」
自分の存在が認められている気がして、友香は思わずほくそ笑んだ。
 
チーフの前川さんは、いわゆるバリキャリだ。結婚して2児の母でありながら、着実にステップアップしている。どうやって時間をやりくりしているのかと思うけれど、的確に仕事をこなし上司からの信頼も厚くて、友香のロールモデル的存在でもある。だからチーフに仕事を振られると、ついつい応えたいと頑張ってしまうのだ。
 
「昨日、何時まで仕事してたんですか?」
後輩の松本くんが、こっそり尋ねてきた。彼は「残業しない派」だ。
「えーっと、23時過ぎくらいかな」
ポロリと本当のことを言ってしまい、友香は慌てて口をつぐんだ。
 
「何やってるんですか! ちゃんとチーフにそのこと報告しました?」
「いや、別に。でも、21時までの残業の申請はしてるよ?」
「あと、2時間分は?」
「それは、あの、私が作業時間超過しちゃっただけだから」
「いやいや、おかしいでしょう。仕事しているのに。ちょっとチーフに話してきます」
立ち上がった松本くんを、友香は慌てて引き留めた。申請した時間内に、仕事が終わらなかったと思われたくはない。
 
「佐田さん、抱え込み過ぎじゃないですか? 大変ならそう言った方がいいですよ。残業しない自分が言うのも何ですけど」
いつもは調子のいいおちゃらけキャラなのに、松本くんは真顔できっぱりと言った。本音と建前の狭間で、うろうろしている友香とは割り切り方が違う。そうできたら、この胸のつかえみたいなものがすっきりするのだろうか? 再びパソコンで作業を始めながら、友香は肩をすくめた。
 
金曜日は、久しぶりに早目に仕事を切り上げることができた。そうはいっても、20時を過ぎている。この間の埋め合わせをしようと、友香は彰吾にLINEを送った。
「今日、仕事早く終わったけど食事に行かない?」
すぐに、既読がついた。
「今、会社の後輩と飲んでる。友香も来いよ」
他の人が一緒ならと躊躇したけれど、彰吾に会えない日が続くのも気が引けた。
「わかった。場所教えて」
そう返信すると、コートを羽織った友香は会社を後にした。
 
「いらっしゃい!」
彰吾が指定した居酒屋に着くと、威勢のいい挨拶に迎えられた。
「友香、こっち!」
混雑している店内を見回していると、彰吾が手招きした。席には彰吾の後輩と思われる男女が彰吾と向かい合わせに座っている。
「初めまして、佐田友香です」
「わあ、彰吾先輩の彼女さん、美人!」
随分お酒が入っているのか、男性がへらへらと笑って大きな声を出した。
「ちょっと! すみません。彼、酔っぱらってて」
申し訳なさそうに女性がペコリと頭を下げ、素早く彰吾の隣の席からバッグをどけると、自分と椅子の背もたれの間に挟んだ。流れるような動きには、隙がない感じだ。
「どうぞ」
席を勧められて、友香はおずおずと座った。彰吾の後輩に会うのは、初めてだった。
 
「こいつ、仕事ばっかりしてるの。俺より、仕事なんだよな?」
酔った彰吾が、友香に絡んでくる。そんなこと、この場で言わなくてもいいのに。友香はテーブルの下で彰吾の足をはたいた。
「またまたー、そんなことないですよねえ。彰吾先輩も飲み過ぎですよ」
さっきから、場を取り仕切っている後輩女性の態度が妙に癇に障る。友香に向ける笑顔も、口元は笑っているが目は笑っていない。
 
「彰吾、ほんと飲みすぎ。ほら、お酒だけじゃなくて食べないと」
友香は、彰吾の目の前にある手つかずの小鉢を差し出した。
「へえ、珍しく心配してくれるんだ」
目が据わった彰吾は、ぼんやりとした口調で呟いた。心配そうに彰吾と友香を見比べる女性の雰囲気から、どうやら二人の現状も後輩たちに喋っていることを察してばつが悪くなった。
 
「ほら、ちゃんとベッドで寝てよ」
居酒屋を出て、彰吾のマンションにようやくたどり着いた。後輩女性が「同じ方向なので、私が彰吾先輩を送りましょうか?」と言ったときは、さすがにムカついた。きっと、彰吾のことを慕っているのだ。明らかに宣戦布告をされた気がして、丁重に断った。よっぽど、友香は彰吾を大事にしていない女だと思われているのだろう。スーツの上着も脱がないままベッドに仰向けになった彰吾の顔を見つめると、友香はドッと疲れが増した気がした。
 
それから、1か月が過ぎた。友香は、相変わらず忙しい日々を送っていた。彰吾とはあのあと1度食事をしたが、待ち合わせの時間に遅れた上に仕事の話ばかりする友香に、彰吾は言葉少なに相槌を打った。さすがに冷えた空気を察した友香は、帰り際に彰吾に謝った。
「無理して会わなくてもいいよ。忙しいんだろ?」
憮然と言い放つ彰吾に、友香は焦った。
「違う、無理なんかしてないよ。ただ、仕事が終わらなくて」
「友香だけが忙しいの? それともみんな、そんなに残業してるの?」
言葉に詰まった。部署の中で遅くまで仕事をしているのは、友香だけだ。
「それは……」
「ちゃんと考えたほうがいいよ。これからも、ずっとそんなペースで仕事ができるはずないじゃん。まず体が持たないし、それに」
何かを言いかけた彰吾は、言葉を飲み込んだ。
「もう帰ろう。明日も早いんだろ? 送るから」
会話を切り上げた彰吾の様子に、友香はふいにあの後輩女性の顔を思い出した。彰吾は、何かを言い出せずにいる。でも、それを聞き返す勇気がない。友香の胸に、言いようのない不安が広がっていった。
 
「始業前に悪いんだけど、佐田さん、ちょっといい?」
ある日、前川チーフからかかってきた電話で友香は目が覚めた。まだ、朝の6時前だ。寒さが緩んできたとはいえ、朝晩はまだかなり冷え込む。スマホのスピーカーボタンを押して、友香は上着を羽織った。心なしか、チーフの声が尖っている。また、急ぎの仕事なのだろうか? 最近体調が悪くて、一瞬返事をするのをためらった。
 
「……はい。何かありましたか?」
「昨日お願いしてた資料、さっき先方から届いてないってクレームの電話があったんだけど」
「え?」
「早朝までに届かないと向こうの準備が間に合わないってことだったから、昨日佐田さんに頼んだのよ。もう間に合わないって、かなり怒ってたわ。今から謝りに行ってくるから」
そんなはずはない。「朝一で必要だから、絶対夜のうちに送って」と指示されて、昨夜、資料を添付したメールを送信したことを覚えている。
 
「ちょっと待ってください。私、昨晩のうちにちゃんと送りました!」
「何かトラブルがあったのかもしれないけど、届いてないのは確かみたいだから仕方ないわね。私も悪かったわ。佐田さんなら大丈夫だって、安心しちゃってたから」
フーッと大きなため息をつくと、チーフは「また後で」と電話を切った。
友香は、慌てて出かける支度を始めた。一刻も早く会社に行って、ちゃんと自分が仕事を完了させていることを確かめなければ。
 
オフィスには、まだ誰も来ていなかった。慌ててパソコンを起動させると、メールのアイコンをクリックする。ドクドクと血流が波打つのがわかる。どうして? ちゃんと送ったはずなのに。震える手で送信済みのフォルダを開く。
 
「ない? なんで?」
何度も昨日送信済みのメールを確認するが、該当するメールは出てこない。全身の力が抜け、友香はよろよろと椅子に倒れこんだ。
まさか、送り忘れた? 今度は昨晩作った資料を確認すると、こちらはちゃんと存在した。ほかに宛先の違うメールも昨夜いくつか送ったから、資料を作ったあと、すっかり送ったと思い込んでしまったのだのかもしれない。
 
情けなくなった。こんなヘマをやらかして、チーフに迷惑をかけてしまった。キリキリと胃が痛む。
「友香だけが忙しいの? ちゃんと、考えたほうがいいよ」
そう無表情に言った彰吾の顔が、ふいに浮かんだ。こんなやり方をずっと続けられないことは、頭のどこかでは分かっていた。だけど自分がどうすべきかなんて、まだきちんと向き合えていない。
 
「おはようございまーす! あれ、佐田さん早いですね」
松本くんだった。彼は残業をしないけれど、朝は一番乗りでオフィスに来て、始業時間まで頭の整理をするのだと言っていた。
「どうしたんですか? え、佐田さん泣いてる?」
もう止まらなかった。人前で、久しぶりに泣いた。その間、松本くんは、ティッシュの箱を友香の前に置いて窓の外を眺めていた。
 
「ごめんね、何か止まらなくなって」
「昨日も、佐田さん遅くまで残っていたんでしょう? チーフが仕事振っていましたよね?」
「……うん」
「もう、そんなに一人で背負いこむことないじゃないですか? みんな佐田さんのことすごいって思っているし、ちょっとくらい甘えたってバチは当たりませんって」
「でも、みんなにしわ寄せがいくじゃない?」
「えー、佐田さん、今までみんなのしわ寄せを一人で受けてたってことでしょう? でも黙々とやるから、どんだけ仕事好きなんだろうって思ってましたよ」
松本君はおどけたように笑うと、「じゃ、今日は早く帰りましょうね」と自分のデスクのパソコンを起動させた。
 
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした。私の思い違いでメールを送っていませんでした」
自分のミスだ。友香は、戻ってきた前川チーフに深々と頭を下げた。すると、横から松本くんがのんびりした口調で切り出した。
「チーフ、佐田さん、いつも申請した時間よりずっと遅くまで残業しているんですよ。仕事できるから、あれこれ自分の仕事じゃないところまでやってくれているのに、残業までしているから大変だと思うんですよね」
 
松本くんの言葉に、チーフが驚いたような顔をした。
「そうだったの。いつも何も言わずにやってくれるから、そんなに負担をかけていたなんて思ってなくて。ごめん、頼り過ぎちゃって。私も仕事の振り方考えないとね。じゃあみんなも、佐田さんが自分の仕事に専念できるように、今までやってもらっていたところは、各自がちゃんとやるようにしてよ」
「はーい」
松本くんを始め、周りの同僚が声を揃えた。なんだ。自分だけが頑張っているような錯覚に陥っていたけど、結局のところ自分で自分の首を絞めていただけだったのかもしれない。それに、できる人だと思われたいというちっぽけな欲が、その上を塗り固めていたのが何だか恥ずかしい。
 
「松本くん、どんな風に仕事を進めてるか、今度教えてよ」
「えー、終業後は嫌ですよ!」
「ランチ、おごるからさ」
友香の申し出に、松本くんはまんざらでもなさそうに頷いた。
 
彰吾に今夜食事をしようと誘うと、すぐに「わかった」と返信がきた。まだ、関係を修復できるのなら何とかしたい。久しぶりに会う彰吾に食事をしながら職場での出来事を話すと、友香は胸のつかえが少しずつ溶けてどこかへ消えていくのを感じた。
でも、ここからが本番だ。ちゃんと自分の気持ちを伝えなければ。
「私も、今までの仕事のやり方を変えようと思ってる。彰吾にも、嫌な思いさせちゃってごめんなさい。あの、私たちこれからも続けられるよね?」
 
友香が一気に言い終わると、彰吾の顔をまともに見られなくて下を向いた。しばらく、無言の間が流れた。
「あのさ、これから共働きになるんだから、お互い長く働けるようにしなくちゃな」
驚いた友香は、顔を跳ね上げた。彰吾は友香の取り皿に、さっき運ばれてきただし巻き卵や肉料理を取り分けている。
「友香、最近あんまり食べてないだろ? だいたい細いんだから、しっかり食べろよ」
「……うん」
友香は、取り皿を手に取った。だし巻き卵を口に入れると、舌の上にじんわりと出汁が染み出してくる。その懐かしいような優しい味わいを、友香はこれからも覚えておこうと目を閉じた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)

福岡県在住。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、推し活、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。

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2023-03-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol.210

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