満天の星空に抱かれたとき、その目に映るもの《週刊READING LIFE Vol.218 星空》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2023/6/6/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
満天の星空を表す形容詞に、「星降る夜」という言葉があるが、漆黒の布に銀糸で縫い付けられているような数限りない星が、それぞれに圧倒的な存在感を示しながら力強く瞬いているのを初めて見たとき、「ここの星は全然降って来そうじゃないな、そんなヤワな星じゃないな」と思った。天の川だって、ここから見えているのは、川は川でも氾濫前の大河だ。地上から仰ぎ見ている私の方に向かって「押し寄せてきそう」と言った方がぴったりくる。
現地では外で眠ることがあると人から聞いて、星空の下で眠るなんて想像しただけでおとぎ話のようだとうっとりしたが、いざやってみたらそんなにロマンチックなものではなかった。家の中なら、そこは自分だけの空間だ。少なくとも、外の世界で起きる突発的な何かから、多少は私を守ってくれるだろう。だが外界と自分とを隔てるものが何もない空間で無防備な自分をさらすのは、「寝ている間にここで何が起きても私は文句を言いません」と、すべてサレンダーして世界に自分を差し出しているような感覚になる。正確には中庭に吊った蚊帳の中に眠るのだが、向こうが透けて見えるぺらっぺらの薄布一枚だから頼りなさ過ぎて、外界を遮断してくれているとはとても言い難かった。だがこの蚊帳が実は、ある意味家よりも私を守ってくれる存在だと気づくのに、あまり時間はかからなかった。
今から四半世紀も前の話になるが、西アフリカのマリ共和国に住んでいたことがある。
国土のほとんどがサハラ砂漠に覆われ、その砂漠の南部に広がるサヘルと呼ばれる半乾燥地域に人口のほとんどが集中している内陸国だ。
アフリカというと年中暑いというイメージがあるが、放射冷却が激しくなる乾季には、夜の気温がかなり下がる。日が落ちてから眠るまでの間、よく中庭で人が集まっておしゃべりに興じているが、そのときに焚火をして暖を取るくらいには気温が下がると言ったら驚かれるだろうか。
逆に雨期になると、日中の強い日差しに熱せられた日干しレンガの家が熱を持つので、室内の温度が夜になってもあまり下がらなくなる。東南アジアでよく見られる植物素材の高床式の家なら通気性もあるだろうが、この地の家は日干しレンガでできているうえ、床イコール地面だから、家が大地とシームレスでつながっている。しかも窓が小さく入り口も狭い。だからこの時期に家の中にいると、天井と壁と床から伝わる、逃げ場のない熱におぼれそうになる。そんなわけで夜になると、中庭に蚊帳を吊って寝ていた。
布でできているとはいえ風の通りは悪くなるので、いっそない方がもっと涼しく寝られるのだが、そこはマラリアが怖いので毎晩面倒でもこの手間は外せない。
マラリアはマラリア原虫を持ったハマダラカが媒介する病気だから、現地に住んでいるとどうしても何度かは罹患することになる。決定的な予防薬もないし、まったく蚊に刺されないように完全防備することなんて不可能だからしょうがない。体を動かしていれば、蚊が皮膚に留まるのをある程度防げるとはいうが、夜寝ているときに意図的に動き続けるのは無理だ。だから蚊帳なしでは現地の生活は成り立たない。
蚊の侵入を許すと何のために蚊帳を吊ったのか分からなくなるから、蚊帳の吊り方にもコツがある。まず中庭の中央にすのこベッドを置き、その上にゴザを敷く。そして朝きれいにたたんでおいた蚊帳をござの中央に置くと、蚊帳のすそから蚊が入らないように気をつけながら、四隅に付いているわっかになった紐を、日干しレンガの家の外壁や、中庭の塀に取り付けてある四本の鉄製のフックに引っかける。それから蚊帳のすそを広げ、ござとすのこの間にていねいに挟み込んだら準備完了だ。
自分が蚊帳の中に入るときにもできるだけ入り口を大きく広げないように注意しながら、できればうちわでパタパタ風を送りながら素早く入る。風が強いと蚊が寄って来れないからだ。
また、眠るときにはなるべくござの中央に体を寄せて、あまり手足を伸び伸びさせない方がいい。というのは、寝ている間に蚊帳に体のどこかがくっついてしまうと、外にいる蚊から蚊帳ごしに刺されてしまうからだ。だから寝相が悪い人は、マリ生活はあまり向かないかもしれない。
そしていったん蚊帳の中に入ったら、朝まで出ないのがベストだ。
ある夜、いつものように蚊帳にうまく潜りこんだ私は熟睡していたはずだったのに、不快な音で目が覚めた。昼間の仕事には肉体労働もあるし、日中の暑さは体力を簡単に奪っていくので、毎晩ヘトヘトで眠りに落ちていた。そんな私が朝日に照らされる前に目覚めるとしたら、暑さからくる寝苦しさかヤツらの気配しかないのだ。そう、ブーンという、ハマダラカの羽音だ。
蚊の羽音を聞くと、なぜ人間はあんなにも敏感に反応してしまうのだろう。
人の眠りを邪魔しやがって、こっちは疲れてるんだコノヤローと蚊を呪った。だが蚊帳にあいた穴はちゃんと糸でかがって塞いだし、私の寝相は悪くないので、どこかを刺される心配はない。だからへっ、ざまあみろ、どうだ悔しいだろう、お前たちにやる血なんかねーわと毒づきながら再び目を閉じた。だが、寝る前に水を飲み過ぎたのだろうか、珍しくトイレに行きたくなった。
しょうがない、またうちわでパタパタしながら素早く出て、さっさと用を足して帰ってこようと思いながら、枕元に置いてある懐中電灯を手探りで探した。村には電気が通っていないので、懐中電灯は夜の必需品だ。夜道を歩くのも、ご飯を食べるときも、トイレに行くときも蚊帳に入るときも肌身離さず持っているので、枕元には必然的に懐中電灯が常備されることになっている。
銀色をした中国製の懐中電灯の固いスイッチをバチンと入れると、光を受けた蚊帳が白く浮かび上がった。だが次の瞬間、ギャッ! と思わず声を上げた。
蚊帳の外側に数えきれないくらいの蚊がびっしりと留まっていて、こちらを凝視していたからだ。もちろん、蚊の目の位置を確認できたわけではないが、その視線は痛いほど私に伝わってきた。見られている! と思った。シンプルに恐ろしかった。だって、今まで何も知らずに能天気に眠っていたのに、ペライチの布一枚隔てた向こう側では、ヤツらが(おそらく)舌なめずりをしながら、虎視眈々と私を狙っていたのだ。
人間は食物連鎖の頂点にいる生き物だから、他の動物のように天敵から狙われる恐怖を味わうことは、まずないだろう。もちろん、蚊に刺されたからといって、それで直接的に命を落とすことはないが、何しろ数が数である。サファリパークのライオンの群れのど真ん中に、檻に入れられて放置されたウサギになったような気分だった。
結局その夜は、蚊に怖気づいて蚊帳を出ることができなかった。耐えきれないほどの尿意ではなかったことに、神にでもアフリカの大自然にでもありがとうと言いたかった。
その後、ある研究機関から、蚊帳の試作品を作ったので、現地で使って使用感をレポートして欲しいという依頼が来た。よしこれであの恐怖を味わうことはなくなるかもしれないと期待したが、この蚊帳がどんなものなのか知ったとき、これはヤバいんじゃないかなと思った。案の定、蚊帳を広げている途中ですでに違和感を覚えていた。
実はこの蚊帳は、殺虫剤をしみこませたものだった。留まった蚊が死ぬほどの毒をしみこませた布に人間が覆われて眠るとどうなるか、想像に難くない。実際に吊った蚊帳に入ってみたが、目はチカチカするし、臭いで気分は悪くなるし、とても一晩過ごせるような代物ではなかった。開発者はマラリアから人間を守ることのみを念頭に置いて試作したのだろうが、自分で入ってみることはしなかったのだろう。
このことにせよ、私が星空の下で眠るのを不安に思ったことにせよ、人間はつくづく自然から遠ざかってしまった存在なのだなと思わずにはいられない。自然に抱かれて眠ることに躊躇し、完全な自然の中では生きられない私も、マラリアという病気を未然に防ぐために、却って使用者に別の健康被害を与えかねない製品を試作した研究者も、おそらくどっちもどっちだ。どちらも死が怖いのだ。
もう一度、あの星空の下に横たわって満天の星に身をゆだねたら、今の私は何を思うのだろうか。
生きることに完全燃焼し、いつ死んでもいいと思えるようになった瞬間なら、あの美しい星空をそのままに享受できるのだろうか。
□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。
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