人を因数分解しなさい ~コミュ障でも楽しく会話できる必殺ツール~《週刊READING LIFE Vol,94 コミュニケーションは○○が肝心》
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
「どうして別れちゃったのかなあ」
いつだったか何かの飲み会で、先輩がグラスを空けながらぽつりとそうこぼした。
先輩はつい最近、五年以上付き合った彼氏と別れたばかりで、私も他の同僚も彼氏と顔見知りだった。傍目に見ても仲睦まじく安定した付き合いをされていて、このまま結婚するのだろうな、と誰もが思っていた矢先の破局。ケンカ別れというわけではないらしいが、それでも先輩は気落ちしていた。皆して慰めやら共感やら激励やらを口にする中で、数年前に離婚した上司が、俺さあ、と神妙な表情で口を開いた。
「最近趣味で、中学の数学とかやり直してるんだよ」
「はあ、数学?」
唐突な話題に、若い後輩があからさまに顔をしかめたが、上司は取り合わずに続ける。
「数学っていろんな方程式とかが出てきて、答えを求めていくだろ。因数分解とかでも、答えが出てくるまで、掛け算の組み合わせをああでもない、こうでもない、とか考えるだろ」
「…………」
後輩も、私も、先輩も、お喋りをやめて上司の言葉に聞き入る。
「付き合うとか結婚するとかも同じなんだよな。問題があって、解決するまで因数分解していくんだよ。数式を何行も書くのと同じで、答えが見つかるまで何回もやって、どんどん式を簡単にしていってさ。……俺とカミさんは、途中でそれをやめちゃったからうまく行かなかったんだなって思うんだよ」
「…………」
上司の言葉が途切れたところで、みんななんとなく先輩の顔を見る。
神妙な表情の先輩も、しばらく視線を落として考えに耽っていたが、やがて小さくため息をついた。
「そうですね。……私も、彼と式を解くのを諦めていたんだと思います」
「だろ。次は、一緒に因数分解できる相手を見つけろよ」
「はい……」
しんみりした二人の様子を見て、私はやや白けた気分でいた。当時はしばらく彼氏がいなかったので、まあそんなもんだよな、くらいの感想しか持てなかったからだ。他の同席者のリアクションも、先輩と同じように感じ入った様子だったり、興味なさそうにツマミをつついていたりとそれぞれだった。
ただ、因数分解、という言葉が妙に印象に残った夜だった。
その飲み会の後、因数分解という言葉はすっかり忘れていた。そもそも飲み会で聞いた時点でも数年、下手すれば十数年ぶりに聞いた言葉だった。受験に数学が必要ない私立文系なんてそんなものだ。先輩もしばらくして立ち直ったので、猶更思い出すきっかけを失った。何の変哲もなく数年が過ぎて、私は内部統制の主担当という責任あるも面倒くさい仕事を任されることになってしまった。
内部統制というと堅苦しいが、端的に言うと、会社の業務をマニュアル化して、マニュアル通りに業務をこなしているかをチェックしていく。監査や税務調査が外からのチェックであるのに対し、内部統制は自己チェックという立ち位置になる。受験で言うならば、監査や税務調査は受験の本番、内部統制は模試、もしくは学校の定期テストくらいの位置づけだと思えばいい。アメリカで有名企業による粉飾決算による問題がいくつも発生したことがきっかけで、日本でも上場企業は内部統制を強化すべし、という法律が出来てしまったのだ。
おそらくほとんどの経営者が「めんどくさ!」と思ったに違いない。そして内部統制担当に割り当てられてしまった人はもっとそう思ったに違いない。私も漏れなくそのうちの一人だった。どの会社も、以前からきちんと機能していて、真っ当な経済活動をしていただろう。だがいざ会社の全ての業務を網羅したマニュアルがありますかと聞かれて、新人研修以上のものが出てくる企業はそうそうない。不正をしていないと証明できる客観的なエビデンスがありますかと言われて、はいこれですと書類が出てくるなんてあり得るはずもない。
法律が制定されたということは、ないなら作れ、というお上からのお達しだ。紆余曲折を経て内部統制担当者となったのは、当時二十代後半。しがないアラサーOLが、会社の全ての業務のマニュアルを作り、自己チェックテストを作り、テストの実施までしなければならなくなってしまったのだ。アサインの理由は他に人がいないから。私が仕事に取り掛かる前からげんなりしていたのは言うまでもない。
まずはチェックの土台となるマニュアル作りから始めなければいけない。そうはいっても、ヒラの営業を少しと、総務事務の経験しかない私が、会社の全ての業務のマニュアルを何の下準備もなく書けるはずもない。最初に行ったのは、会社の組織図とにらめっこをしながら、各部署の責任者に連絡を取り、内部統制について説明し、業務内容をヒアリングすることだった。今思い出しただけでも想像を絶する面倒くささだ。要領が悪いなりに必死に仕上げたヌケモレだらけの説明資料を持って、上司の上司にあたるような役職の人物に、対等な内部統制担当者として業務内容のヒアリングを実施しに行くのだ。向こうは向こうで、社長勅命プロジェクトらしい、ということは聞いているので、ものすごく緊張した様子で臨んでくる。そんな相手と静まり返った会議室で二人きり、しどろもどろの説明をして、業務内容を時間内に説明してもらわないといけない。コミュ障を爆発させていた私は、とにかく下手に出て、悪いことをしてると疑っているわけではないんです、法律なんです、と念仏のように繰り返した。
ヒアリングの細かい機微は割愛する。まあまあうまくいったり盛大に失敗したりいろいろやらかしたと思っていただければそれでいい。ヒアリングの相手も、部や課の長である場合もあれば、アシスタント業務の担当者である場合もあった。社内の全ての業務を網羅なので、営業からアシスタント、アシスタントから経理へと書類やデータが受け渡されていくのを追いかけなければならなかったからだ。私は一年、組織再編による更新も含めれば数年かけて、社内のいろいろな立場の人のヒアリングをしまくった。すると、なんとなく自分なりにヒアリングの心構えのようなものが出来てきた。
まず大前提として、人は自分のことを話すのが大好きだ。自分はこんな仕事をしている。部下はこんな業務を任せている。繁忙期はああやって、そこと連携して、どうにかする……。どんな強面の役員も、気難しい敏腕パートの女性も、自分の仕事を語り始めると、嬉しそうに前のめりになって説明してくれた。そうなったらこちらのものだ。私もニコニコしながら、なるほどそうなんですね、大変ですね、ご苦労お察しします、なんて相槌をうちながらメモを取っていけばいい。メモが細かければ細かいほど良いようで、私が書き終えるのをしたり顔で眺めながら待ってくれたりする。そうして予定していた時間が終わる頃には、相手は大満足の様子で、ホクホクと会議室を後にするのだ。
ヒアリング自体が上手くできるようになってくると、次はそこからマニュアルを書き起こす作業で工夫が必要になってきた。誰しもが嬉しそうに楽しそうに話をしてくれるのだが、話し方は人によって全然違う。ロジカルに筋道を立てて説明する人もいれば、どんどん横道に逸れていく人もいる。筋道が立っている方が良いのかといえばそうでもない。本人は取るに足らないと大して説明しない些細な手続きが、他部署では大切なキーになっている場合もある。私もぼんやりとしているとキーを見逃してしまうので、そうしたポイントを見極めて、必要なら注意深く聞き込みをしなければならない。逆に横道に逸れる人はそうしたキーをカバーしている場合が多いし、思いがけない秘密の事情を教えてくれる場合もある。なので、出来る限り寄り道をしていただきつつ、時間を見計らってそっと本筋に戻すように促すのだ。この人は、ロジカルタイプ。あの人は寄り道タイプだな。あっちの人は、時々自慢話が混ざるから、うまいこと本筋に戻す。そんな風に相手のタイプを見極め、聞いた順に書き連ねただけのメモからマニュアルを仕立て上げるのだ。
ヒアリングの時に相手のタイプを洞察するようになると、今度は業務と関係ないところでも、人をいろいろなタイプに分類するようになった。感情とロジックを完全に切り離している人。感情がすべてのロジックを凌駕する人。説明書を読む前から「分からない」と言い、分かる気のない人。例え話が好きな人。話し上手、聞き上手。それから、人それぞれの怒るポイントと、喜ぶポイントを見極めるのもとても面白かった。人それぞれの気質や性格の要素はそれほど多くなく、いくつかの要素の濃淡や多寡によってその人らしさが決まってくる。友人知人のタイプを知ったところで何か損得が発生するわけでもないが、相手とコミュニケーションをとる時、コミュ障にならずに済むというのは私にとって大いなるメリットだった。
誰がどんな要素を持っているのか、もっと知りたい。
人というものが何からできているのか、もっともっと覗いてみたい。
答えが出るまで、どんどん謎を解き続けるように。
(……あれ)
不意に、いつかの飲み会の光景が脳裏に蘇る。
(どんどん因数分解していくんだよ)
正式なやり方はすっかり忘れてしまった数学用語が、唐突に思い出された。掛け算された式や数字を掛け算する前の状態に戻す。いろいろな要素が入り乱れたたくさんの性格や気質を、要素ごとに分解して観察する。似てる。確かにこの二つ、よく似ている。あの時、上司は夫婦や恋人同士の関係性を指してこの言葉を使っていたけど、人間一人ひとりにも当てはまるじゃないか。初対面の人も、どんな要素を持っているのかなと思いながら話せば臆することはない、むしろなんだかワクワクしてくる。持っている要素が分かれば、気を付けるべきこと、相手が喜びそうな事、逆に怒らせそうなことを意識すれば、失礼を働いてしまうことは絶対にない。どんどん因数分解すればするほど、自分の中にサンプルが蓄積されるから、次の初対面の人と話すのがもっと怖くなくなる。仕事のミーティングだって、取引先との話だって、全部、全部がそうだ……。
因数分解こそ、夫婦恋人に限らず、すべてのコミュニケーションに必要なスキルだったのだ。
人の性格を因数分解する、と、字面にすると意味不明極まりないが、とにかく私は人のことをこっそり因数分解するようになった。こうやって書くと、友人知人は次に私に会う時に車に構えてしまうかもしれないのだけが気がかりだ。今は完全在宅ワークなので、夫や息子がしょっちゅう因数分解の対象になる。もう何年も一緒にいるはずの夫なのに、新しい要素を見出すことが多々あり、見ていて飽きない、そこが面白い。それは仕事の環境がコロナ禍などでがらりと変わったり、成長著しい息子と一緒に暮らすことで、彼自身もまた影響を受けていることの証なのかもしれない。
三歳の息子は、私の見立てではどちらかというと慎重な性格のように思える。友達を思いやる優しさも、私以上にしっかりと持ち合わせていて驚かされる。○○をしちゃだめだよ、と叱ると、「△△ならいいの?」と突拍子もないことを聞き返したりして来るので、そのうち屁理屈で親を言い負かすような子になるのかもしれない。
お友達に優しくできる要素をどうか失わないでね、と母は願うばかりだ。
屁理屈を言われたら……どうするか、今から対策を練らねばなるまい。
□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」を連載。
http://tenro-in.com/category/doppelganger-company
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