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2020に伝えたい1964

どんなに叱られても、観続けていたかった対決《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

それは、1964(昭和39)年10月17日土曜日のこと。その日は、一週間前のオリンピック開会式の上天気とは違い、上空はどんよりと曇っていた。しかも秋らしく、空気がヒンヤリとした日だった。
そんな東京の曇天の下、実に9時間半もの長時間にわたって繰り広げられた熱戦が有った。陸上の棒高跳び(当時は男子のみ)だ。
 
現在では意外と思われる方も多いと思うが、1920~30年代、陸上跳躍競技は、日本選手向きの競技と思われていた。実際、日本選手団初の金メダルは、1928年アムステルダム大会の三段跳びで織田幹雄選手が獲得した。
他の跳躍競技でもメダルを獲得するところまで行っていたが、特に注目されたのが棒高跳びだった。比較的小柄で体重が軽く、下半身のバネが強い日本人選手には、棒高跳びが向いていると思われていたからだ。結果として、1932年のロスアンゼルス大会では、西田修平選手が金メダルとは僅か2cm差の銀メダルを獲得している。続く、1936年のベルリン大会では、西田修平選手と大江季雄(すえお)選手が2・3位に入賞している。
未だ、競技場に照明が無かったころのこと、金メダルを獲得したアメリカの選手に、西田・大江の両選手は、暗くなった競技場での試技は危険ということと、同じ日本人選手同士で争っても無味ということで、競技の中止を申し出た。
照明設備が無かった(正確には、多量の電力を供給出来なかった)ベルリンのオリンピックスタジアムでは、急遽、年長だった西田選手を2位扱いとして表彰式が行われた。日本へ帰国後、西田・大江の両選手は、銀・銅のメダルをそれぞれ半分に切り、銀と銅をつなぎ合わせた“友情のメダル”を作成した。
左半分が銀で右半分が銅のメダルは、西田修平選手が持っていて、後日、国立競技場の展示室に寄贈された。
色取りが逆のメダルは、その行方が分かっていない。慶應義塾大学を卒業したばかりの大江季雄選手は、陸軍に召集され、1941年にフィリピンのルソン島で亡くなった。その遺品に、西田修平選手とは逆の配色になった友情のメダルが有ったという。しかし、その後の消息は不明のままだ。
 
そんな、西田・大江両選手の活躍がったものの、その後、棒高跳びで日本人選手の活躍が無いのは、大江季雄選手が戦死した第二次世界大戦が大きく関わっている。
 
棒高跳びは、ポールのしなりを最大限に利用して高く跳び上がる競技だ。オリンピックでは、1896年の第1回アテネ大会から正式競技となっている。黎明期には、木製のポールを使用していた。ただ、木製ではしなりが殆ど無いので、より軽くしなりが強い、竹製のポールが多く使われる様になった。そこで、竹が容易に入手出来る日本選手が有利となった訳だ。しかも、木製より軽い竹製のポールは、腕力に劣る日本選手でも、十分に扱えるものだったのだ。
ところが、日本が欧米諸国に対し宣戦布告するに至って、日本以外の国では、しなりの良い竹製のポールが入手する道が途絶えた。竹製ポールの代用品として、金属製ポールが登場した。その後、竹より耐久性が有りよりしなりの良い、グラスファイバー(ガラス繊維)強化プラスチック製のポールが登場し、竹製ポールの時代が終わった。
竹製ポールよりしなりが良いグラスファイバーポールだったが、しならせるのに竹製以上の力が必要となり、腕力で劣る日本選手は、世界から大きく水を空けられることとなった。しかも、グラスファイバー自体が、元々軍事用に開発された物だった。
現代では、グラスファイバーより軽く強いカーボンファイバー(炭素繊維)強化プラスチック製のポールが出回る様になった。カーボンファイバーも、軍需物資として開発された物だ。
 
さて、1964年の第18回オリンピック東京大会の頃には、棒高跳び競技ではグラスファイバーポールが全盛となっていた。日本人選手が3名出場していたが、全員予選落ち又は記録無しの失格だった。竹製ポールの時代とは違い、グラスファイバーポールをしならせるのに苦労した結果だった。残された記録は、4m30cm。予選通過ラインと同じ数値だった。しかもこの数字は、34年前に西田修平選手が、竹製ポールで銀メダルを獲得した記録と同じだった。34年間、進歩出来なかったということだ。
 
午後1時に始まった棒高跳び競技。現代なら、予選と決勝は日を分けて行われるが、当時は、2時間のインターバルが有るだけで、1日で予選・決勝が行われていた。当然のこととして、長時間の競技となった。
新装された国立霞ヶ丘競技場は、競技をするにも観戦するにも十分な照明設備が設置されていた。これは、この東京大会から始まった放送宇宙衛星を使った国際生中継に対応する為だった。しかし、選手にとっては西田・大江両選手が競った、ベルリン大会の様に試合を途中絵中断する要素が無くなったことも意味していた。
当日は土曜日だったことも有り、NHKのテレビは、一日中オリンピックの中継をしていた。当時5歳だった私は、幼稚園から飛ぶ様に帰宅しテレビの前に陣取った。
自分の背丈よりはるかに長いポールを持ち、全力で走り、ポールをピットに立て、しならせ、上空高く跳び上がる棒高跳びを、興味津々で観詰めていた。
午後1時に始まった棒高跳び競技は、夕刻には予選の試技が終了した。日本選手はいなかったものの、欧米各国の選手が数多く決勝に進んだ。私の実家は、当時から家業で商売をしており、まだ年端のいかない私が、テレビの前で動かないことを歓迎していた。外へ遊びに行き、帰りが遅くなっても心配する必要が無かったからだ。
ところがこの日は、寝る時間(多分8時)になっても、テレビの前から動こうとしない私を、両親は叱り出した。私は私で、動けない事情があった。それは、かなり気温が下がって来たであろう国立競技場で繰り広げられている、棒高跳び決勝が、息詰まる熱戦だったからだ。
 
棒高跳びのメダル争いに残ったのは、アメリカの選手と統一ドイツの2選手だった。午後8時過ぎ、ドイツ(当時の西ドイツ)のクラウス・レーネルツ選手が、5m05cmをクリア出来ず、銅メダルとなった。残るは、大柄なアメリカ選手、フレッド・ハンセン選手と、金髪碧眼のドイツ(東ドイツ)のウォルフガング・ラインハルト選手だった。
陸上競技初日から、アメリカ国歌と星条旗、そして黒人選手が格好良いと感じていた5歳の私ではあったが、碧眼の為、日中はサングラスを掛けていたラインハルト選手を秘かに応援する様になっていた。その風貌や、いかにも西洋人らしい堀の深い顔立ち、そして、子供でもドイル人と分かる名前の響きが、とても印象に残ったからだ。
 
棒高跳びのルールは、アメリカンフットボールに似ている。連続して3回、バーを落としてしまったら、そこで競技終了となる。すなわち、一度(ひとたび)バーを越えることが出来れば、また新たに3回の試技を行うことが出来るのだ。その間、試技をパスすることが可能だ。また、どの高さ(バーの)に挑戦するのかも、選手が自由に決めることが出来る。即ち、アメリカンフットボールの“ファーストダウン”の要領と同じだ。
ただ、瞬発力を要する競技なので、なるべくなら少ない試技でより高い記録を出したいものだ。そこで、各選手間の駆け引きが有り、棒高跳びという競技をより面白く、そして、より長時間にしているのだった。
 
フレッド・ハンセン、ウォルガング・ラインハルト両選手に絞られた棒高跳びの金メダル争いが始まったのは、時計の針が夜九時を回っていた時だ。
クラウス・レーネルツ選手が越えることが出来なかった5m05cmを、ラインハルト選手は、1回でクリアした。残るハンセン選手は、規定時間一杯のインターバルを使って5m05cmをパスする選択した。棒高跳びのルールでは、同じ記録で終了した場合、より試技の回数が少ない方を上位とする規定がある。
この日、5m00cmをラインハルト選手は1回でクリアしたのに対し、ハンセン選手はクリアするのに2回の試技を必要とした。このまま同記録だった場合、金メダルはウォルフガング・ラインハルト選手のものとなってしまうのだ。
フレッド・ハンセン選手は、どうしても金メダルを取りたい、いや、取らねばならぬ使命が有った。それは、オリンピックの第1回アテネ大会から、この棒高跳び競技はアメリカが連続して金メダルを取り続けていたからだ。ハンセン選手は、国の御家芸としての伝統を守らねばならなかったのだ。
勝負に出たフレッド・ハンセン選手は、自己記録である5m10cmにバーを引き上げた。
 
寒暖差が激しい日本の秋のこと、曇天だったため特に寒くなった場内は、空席が目立ち始めていた。残った観衆も、持参していた毛布にくるまり、寒さに耐えながら声援を送っていた。
 
5m10cmのバーを、ウォルフガング・ラインハルト選手は、2回続けて落とした。一方、フレッド・ハンセン選手も、2度ともクリア出来なかった。
金メダルが掛かった3回目。ここで、両選手共クリア出来なければ、アメリカの棒高跳び連勝記録は止まってしまう。
意を決したフレッド・ハンセン選手は、ギリギリのところで5m10cmのバーをクリアした。今度は追い詰められた形になったウォルフガング・ラインハルト選手は、見事な跳躍を見せたものの、わずかにバーに触れてしまい、無情にもクリアはならなかった。肩を落とし、うつむいたまま帰り支度をする21歳の金髪碧眼青年の姿が哀愁を誘った。
アメリカの、オリンピック棒高跳び連勝記録は15に伸ばされた。
 
「男子棒高跳びの結果
一等、フレッド・ハンセン君、アメリカ。
記録、5m10cm。これは、オリンピック新記録であります」
とっぷり暮れた場内に、結果を知らせるアナウンスが流れた。
 
テレビの中継では、
「アメリカ、テキサス州ライス大学の医科理学生の21歳フレッド・ハンセン選手。研究中の『グラスファイバーの湾曲と反撥に関する研究論文』に、今日の熱戦を通じ、どんな一文を加わることでしょう」
と、感傷的なコメントが流れた。
時計の針は、10時半を回っていた。
 
これが、オリンピック史上に残る熱戦だ。
今回語り継げたことで、その日、叱られながらも起き続けた甲斐が有ったというものだ。
 
私には初めて、納得出来た夜更かしだった。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-10-29 | Posted in 2020に伝えたい1964

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