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2020に伝えたい1964

そういえば、これも生で観戦していたっけ《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「しょうちゃん。オリンピック観に連れてってあげるよ」
親戚の伯父さんからの電話だった。
 
この連載を書くにあたり、55年前の記憶を辿っていくと、現代では考えられないことを想い出したりするものだ。
先日、都内だが離れて暮らす母から連絡が有った。大した用ではなかったが、母は携帯電話で、
「それにしても、いつでも電話できるのは安心だねぇ。東京オリンピック(当然、1964年)の前だったら、こうはいかなかったねぇ」
等と、年期が入った言い方をしてきた。
私はスマフォを置き、しばし記憶の糸を手繰ってみた。母から出た、“電話”と“東京オリンピック”のキーワードで、1964(昭和39)年の10月初旬に親戚の伯父さんから、当時5歳だった私にオリンピック観戦へ誘う電話が有ったことを思い出してた。しかも、今回、ネットで調べるまで、私はその時の伯父さんの誘いが、単なる冗談だと記憶していた。その記憶を、訂正出来た。
 
1964年当時、一気にインフラが整えられた。その中で、思っていたより遅れたのが電話の普及だった。私の両親は、結婚時から母が、自宅に附設した小売店を始めた。当然、電話(当時は固定電話のみ)加入を申請したが、実際に電話線がやって来たのは、何と1年後だったそうだ。
そういえば、東京23区の市内局番が、それまでの3桁から‘3○○○’の4桁に増えた時、亡くなった父が、
「そういえば、家(うち)の電話って市内局番が3桁になってしばらく経ってやっと来た」
と、言っていたことを覚えていたからだ。誰もが電話番号を持っている現代では考えられないことだが、55年前の日本では、電話が有る家庭が珍しかった。
 
今回の調査で、伯父さんが私を連れ出したのは、1964年10月11日の日曜日だったことが分かった。
ということはその日、5歳だった私は、朝早くから子供の脚で20分は掛かる幼稚園へ行ったはずだ。教会に併設された幼稚園だったので、日曜学校へ行く為だ。その後、以前に当連載でも書いたが、幼稚園のホールで東京オリンピックの再放送を観せて頂き、急いで帰ったのだろう。
伯父さんは、昼過ぎに迎えに来てくれたからだ。
 
この親戚の伯父さんは、町田市に在る400年以上前から続くお寺の住職さんだ。私の両親より一回り上だったと記憶しているので、御存命だったら百歳に手が届く年齢だ。
大正生まれにしては珍しく、180cm近い長身だった。野球が得意で、お寺を訪ねた時等、幼い私に野球のボールの投げ方を、広い境内で懇切丁寧に教えてくれた。現在私が、ボールの縫い目に指を掛けてちゃんと投げることが出来たり、子供の頃からフライボールを取ることが出来たのは、この伯父さんのお蔭なのだ。
伯父さんは、住職になる為、駒澤大学に進学し学徒出陣も経験している。軍事訓練中に終戦を迎え、無事帰還した伯父さんは、戦後初代の駒澤大学野球部の主将も務めている。その後、数多くのプロ野球選手を輩出した野球部の大先輩とは、すごいことだ。
 
私を連れ出した伯父さんは、都電・国電(時代が出てます)・地下鉄を乗り継ぎ、銀座線の外苑前駅に降り立った。地上に出ると、多くの人が国立競技場を目指していた。しかし、これは幼い私の思い違いだった。何故なら、東京オリンピックで国立競技場を使うのは陸上競技のみだったので、その日はまだ始まっていなかったのだ。
多くの通行人は、外苑前駅から見て国立競技場よりはるか手前の秩父宮ラグビー場を目指していたのだ。オリンピック以前に日本初のラグビー専用競技場として建てられた秩父宮ラグビー場だったが、当時はまだラグビーがオリンピック種目では無かった為、サッカーの試合会場として使われていたからだ。
私は勝手に、
「伯父さんは珍しくサッカーに連れて来てくれたんだ」
と、思い込んでいた。
 
ところが叔父さんは、オリンピックの五輪のマークが飾られた秩父宮ラグビー場を通り越し、先まで歩を進めて行った。私はてっきり、国立競技場へ連れて行ってくれるものと思い直した。陸上競技が始まっていないことを、5歳児には気が付く訳は無かったのだ。
私を連れた伯父さんは、秩父宮ラグビー場に隣接する明治神宮野球場に入っていた。ここは以前、伯父さんに六大学野球とプロ野球(確か、国鉄対広島)に連れて行ってもらった覚えがある。しかし、今日はオリンピック観戦に来たつもりだった。
 
訳の分からない私は、伯父さんの後を追い観客席に座った。覚えていることは、伯父さんが観戦チケットを買っていないことだけだった。旧式のスコアボードの上には、日の丸と星条旗、そして真ん中にオリンピックの五輪旗がはためいていた。オリンピックの入場行進をしっかり観ていた5歳児の記憶は、間違いない。
頭の中が不思議で一杯になった私は、目の前で始まる野球の試合に興味を移した。目の前では、日本の学生代表チームと、アメリカの学生チームが試合を始めた。試合は、9回表にアメリカチームの3番を撃つ大柄な左バッターが、バックスクリーン右横にソロホームランを叩き込み、引き分けとなった。
学生の試合だったので、2時間足らずの短い展開だった。もう帰るのかと思っていた私の目の前で、30分ほどのインターバルを挟んで、もう一試合が開始された。今度は、日本の社会人チームと、同じアメリカの学生代表の試合だった。
こちらの試合は、両チーム投手のコントロールとテンポが良く、わずか1時間半ほどで終了した。日本チームの勝ちだった。
どうやら伯父さんは、大学の後輩が出場する試合に、私を連れて行ってくれたようだ。私はというと、オリンピックに連れて行ってくれるはずだった伯父さんに、騙されて神宮野球場に連れて行かれたと思い込んでいた。
この連載が始まり、調べ物をするまでは。
 
この、1964年10月11日に神宮球場で開催された日米のアマチュア試合は、私に記憶通りだった。ただ、間違っていたのは、5歳だった私に先入観だった。
その日ダブルヘッダーで行われた試合は、正式に第18回夏季オリンピック東京大会の種目だった。しかし、野球は公開競技として行われた為、正式競技としての記録が無かっただけだったのだ。
考えてみれば、アマチュア規定が厳しかった当時、日本のアマチュア野球本拠地で、日本で最も人気ある競技が、その発祥国のアマチュア代表チームと試合しただけだったのだ。
試合展開は、私の記憶通りで間違いはなかった。当時、大柄だったアメリカの学生選手の中には、後にMLBで活躍した選手もいた。
現在、日本のプロ野球はほとんど観ないのに、MLBは欠かさず観ている私の習慣は、この時から始まっていたのかもしれない。そう思うと、あの時の伯父さんにもっと礼を言っておくべきだった。私を、オリンピックの観戦に連れて行って下さったのだから。
肇(はじめ)伯父さんは、私が学生だった約40年前に他界してしまった。
 
1996年のオリンピック・アトランタ大会まで、オリンピックでは盛んに公開競技が行われていた。国際的に拡がっていないものの、開催国やその地域で盛んな競技を、世界に知らせる為に行なわれた様だ。
公開競技は、1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会から始まった。初回のストックホルムでは、何と、東京と同じく野球が、公開競技として行われていた記録が残っている。
公開競技で、後に正式競技となった中には野球の他に、カヌー・バレーボール・テニス・バドミントンといった、来年日本選手のメダルが期待される競技もある。
公開競技が有ったら、しっかりと観ておいた方が良い。
 
55年、私を神宮野球場へ連れて行ってくれた肇伯父さん。
球場はガラガラだったけど、僕を人混みに連れて行ってくださいましたね。
御菓子とジュースも買ってくれましたね。
お蔭でその時から、僕はこの競技が大好きになりました。
 
天国の肇伯父さんは、最後の正式種目となるかもしれない東京オリンピックの野球に、どんな声援を送って下さるのでしょう。
人口芝を知らなかった伯父さんは、多分、
「やけにボールがバウンドするな」
と、驚かれるのかも知れない。
 
来年のプレイボールが、今から待ち遠しい。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-11-11 | Posted in 2020に伝えたい1964

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