2020に伝えたい1964

裸足の王者と無名の新人。そして、もう一人の男と忘れ得ぬ盟友 〔前編〕《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

1964年10月21日(水曜日)13時、第18回オリンピック東京大会の陸上競技、その掉尾を飾るマラソンがスタートする。
 
国立競技場のアンツーカートラックには、46ヶ国79名の選手はスタート前の点呼に続々と集合していた。その当時でも、持ちタイムの速い有力選手が、スタートラインに近いポジションを許されていた。
5歳だった私は、スタート直前になって、審判団や係員達が忙しなく一人の選手を探していたことを記憶している。前回、オリンピック・ローマ大会の覇者であるエチオピアのアベベ・ビキラ選手が、集団の中で見付けることが出来なかった様だ。
当のアベベ選手は、集団の最後尾でじっと集中している様子だった。係員から、もっと前でスタートするように勧められたが、アベベ選手は“我関せず”とばかりに、その場を動かなかった。
号砲と共に一斉にスタートした集団は、競技場を約一周すると通称マラソンゲートから、コースへと飛び出していった。ゲート中央のコンクリート柱には、安全の為に毛布が巻き付けられていた。その、荒縄で結び付けられている毛布が、時代を映し出していた。現代なら、もっと衝撃を緩和する素材があるし、そもそも、マラソンゲートに柱を設置することすら無いだろう。
注目のアベベ選手は、集団走行の混乱に巻き込まれたくなかったのか、最後尾のままゲートを後にした。スピード重視になった、現代のマラソンでは考えられないことだ。
カメラが中継車のものに切り替わると、集団は右折して明治通りを北上していた。道幅が広くなった為か、アベベ選手は一気にペースを上げ、大外から捲り気味に形成されつつある先頭集団に加わっていた。
先頭は、新宿三丁目手前で甲州街道を左折する。コースはそこから一路西へ向かい、約20km先の調布市飛田給(現在、味の素スタジアム。記念碑が残っている)を折り返す、高低差が少ないシンプルかつ好タイムが期待出来るレイアウトだ。
アベベ選手は、新宿駅南口の下り坂で加速し独走態勢に入った。
どの選手付いては行けず、アベベ選手は独走のまま、世界最高記録(当時)でこのマラソンレースを走り切った。
不可能とまで言われていた、オリンピックにおけるマラソン連覇だった。
 
以上が、第18回オリンピック東京大会陸上競技の華であるマラソンの総てだ。
 
時計の針を、1964年10月の少し前に戻そう。
 
24年前に開催を返上してしまい、やっとの思いで再度招致に成功した東京オリンピックに、当時の日本社会は湧き返り、雰囲気が盛り上がっていた。当時5歳だった私でも、大人達の話題がオリンピックになると、途端に聞き耳を立てていたものだった。
当時売り出し中のマラソンランナー君原健二選手と、その時点でのマラソン日本最高記録保持者で経験豊富な寺沢徹選手に、メダルの期待が掛かっていることが、子供にだって理解出来ていた。また、当時のマラソンは、完全に持久力で勝負する競技だということも分かっていた。何故なら、マラソンは、日本人が好きな“努力”や“我慢”といった言葉で表現されることが多く、子供でも持久力で走力をカバー出来ると思い込んでいたぐらいだからだ。
それと同時に、アベベ・ビキラ選手のことも、日本中が認知していた。子供でもだ。その証拠に、1964(昭和39)年当時、日本中の『あべ』(阿部・安部・安倍、等)さんは、総じて“あべべさん”と綽名された。呼ばれた当人たちは、どこか誇らしげでもあった。
アベベ選手が、1960年オリンピック・ローマ大会のマラソン金メダリストだということは、勿論、日本中が知っていた。何故なら、アベベ選手は、マラソン世界最高記録で優勝したローマ大会後の1961年に来日し、毎日マラソンを走っていたからだ。毎日マラソンは、今日の滋賀県大津市で開催されている、びわ湖毎日マラソンの原型となる、日本最古(1946年から)のマラソン大会だ。その名の通り、毎日新聞社が主催の大会だ。
1960年代初頭までの毎日マラソンは、同本社が在る大阪市内を中心に行われていた。そしてもう一つ、現在と大きく異なるのは、開催時期が5~6月の初夏に行なわれていたことだ。
 
私は何故か、毎日マラソンを疾走するアベベ選手の映像を観た記憶が有る。どういう経緯だったか、今となっては覚えが無いが、1961年6月の大阪は、アフリカ初の金メダリストにとっても大変蒸し暑く、アベベ選手が何度も足を止めて、バケツの水を柄杓(ひしゃく)で何度も頭から浴びていた映像が、目に焼き付いている。
「高温のアフリカ出身選手でも、日本の夏は暑いんだ」
子供の目にも、それは明らかだった。
私は、その暑さよりも、或ることが気になっていた。『裸足の王者』と呼ばれているアベベ選手が、ランニングシューズを履いていたことだ。その上、白いスポーツソックスも履いていた為、褐色の肌をしたアベベ選手の足元を余計に際立たせていた。
今回調べてみると、この1961年6月の大阪でアベベ選手は、来日前から裸足で走る覚悟だったらしい。実際、
「裸足で走って、何度も優勝してきました。シューズは必要ありません」
と、インタビューに答えたという記録がある。
しかし、石畳で整備されしかも夜間レースだったローマ(オリンピック)とは違い、当時の大阪の道路事情では裸足で走ることは危険だと、金メダリストに訴えた男が居た。
 「あなたにシューズを提供させて頂く為にお伺いしました。このシューズを履いて是非優勝して下さい」
アベベ選手を訪ねたのは、現アシックス創業者の鬼塚喜八郎氏だ。アベベ選手は、裸足にこだわっていた。鬼塚氏は、コーチを説得し何とかアベベ選手に、自社のシューズを履いてもらうことに成功した。
1961年の毎日マラソンは、“オニツカ・タイガー”(当時アシックスのブランド名)を履いたアベベ・ビキラ選手の一人旅レースだった。しかし、2位に10分以上の差を付けたのだが、記録自体は2時間29分27秒と平凡なものだった。それ程、日本の夏のマラソンは過酷だったのだ。
レース後、
「シューズのおかけでグリップ(確実に路面をとらえ、強く蹴る力)は確実になって、トラッキング(追跡した記録)もずっとよくなっていきました」
と、アベベ選手はシューズの感想を述べている。ローマ・オリンピックで出した、世界最高記録より14分近く遅い記録であっても。
 
実は、ローマ・オリンピックでもアベベ選手はシューズを履いて出場する予定だったらしい。しかし、契約したシューズが足に合わず、10kmも行かない内に痛みで走れなくなったそうだ。そこで已む無く、本番では練習で慣れていた裸足で金メダルを獲得したのだった。『裸足の王者』が代名詞のアベベ選手だったが、実際に裸足で脚光を浴びたのは、ローマ・オリンピックだけだったのかも知れない。
では何故、私が『裸足の王者』の名を、しっかりと覚えているのだろう。
それは、東京オリンピックの5年後、小学校の高学年になっていた私達の国語の教科書に、『はだしの王者』と題した文章が載っていたからだ。作者は不明だが、内容はしっかりと覚えている。アベベ選手は勿論、クラーク、ガムーディ、ホーガン、ヒートリーといった有力選手の名前も記憶しているぐらいだ。もう一つ、鮮明に覚えているのは、ホーガン選手の母国を『エール』と表記していたことだ。エールとは、現在のアイルランド共和国のことだ。
これは今回発見したのだが、アイルランドの先住民であるケルト人が使う‘アイルランド語’では、当地のことを『エール』と呼ぶとのことだ。1960年代の日本教育では、現地語表記を優先していた結果だろう。実際、記録映画『東京オリンピック』の中では“アイルランド”と、現在と同じ呼び方で統一されている。
小学校での勉強も、まんざら無駄ばかりではない。
 
東京オリンピックのマラソンの映像を観返すと、この他にもアベベ・ビキラ選手の印象に残るものがある。
先ずは、ランニングシューズ。このレースでは、“オニツカ・タイガー”ではなく、“プーマ”だった。静止映像で確認すると、甲州街道をただ一人、淡々と距離を刻むアベベ選手の足元には、はっきりと白いシューズに今と変わらぬ黒く太いラインが残っている。間違いなく、アベベ選手は、かなり以前からプーマ社との契約が有ったのだろう。毎日マラソンが、イレギュラーだっただけだ。ましてや、大河ドラマ『いだてん』で描かれている、播磨屋がアベベ選手用の“金栗足袋”を作ったエピソードは、フィクションであったことが分かる。
子供だった私には、アベベ選手が‘楽しそう’にも‘苦しそう’にも思えなかった。前方を見据えず、周りも見渡さず、どこか思い詰めたかの様に足元を凝視して見えた。独走状態だったので、周囲にライバルの姿は無かったが、それにしても自分の世界に入り込んだ姿は『走る哲人』が相応しい様に感じたものだ。
軽く握られた左拳には、当時のマラソン選手には珍しく高価そうなリングが付けられていた。ローマ・オリンピックの金メダル獲得で、エチオピアのハイレシェラシエ皇帝から贈られたものだ。アベベ・ビキラ選手は、皇帝直属の近衛兵だったからだ。勿論、階級も二階級特進され、東京オリンピック時は軍曹に昇進していた。
左手のリングは、もう一つのドラマを生んでいる。
マラソンのゴール後、表彰式の為にシャワーを浴びたアベベ選手は、シャワー室にうっかり大切なリングを置き忘れてしまったのだ。実際、金メダルを授与された表彰台のアベベ選手の左手には、レース中付けられていたリングが無い。
優勝者インタビューを終え、リング紛失に気付いたアベベ選手は、急いでシャワー室に戻ろうとした。しかし、それは無用だった。アベベ選手がシャワー室を出た後、清掃に入った日本人スタッフがそのリングを見付け、インタビュー場の近くまで届けてくれたのだ。リングの大切さは、誰の目にも明らかだったのだ。
アベベ選手の反応は違っていた。宝石が入った、皇帝から頂いた高価なリングが、いとも簡単に自分の手に戻ってきたことに感激したのだ。アベベ選手にとって、日本はホスピタリティが行き届いた、素晴らしい国だったのだ。彼はその後、来日するたびに、リングを見付け届けてくれた清掃スタッフに、感謝の意味で面談したそうだ。
 
独走という、タイム的には悪条件(競る相手が居ないから)でありながらアベベ選手は、世界最高記録で国立競技場のゴールテープを切った。私は、当時5歳でありながら、ゴール後のアベベ選手から目が離せなかった。後続の選手が、かなり離されていることで、カメラはしばらくの間ゴール後のアベベ選手を映し出していたからだ。
アベベ選手は、ゴール後各選手の肩に係員が掛ける毛布を断ると、トラック内の芝生フィールドで、“17”のナンバーカード(ゼッケン)が付いたまま細身の体を不思議に動かし始めた。アベベ選手なりのクールダウンだった。
「42kmも走った後でも、まだまだ走れるぞ」
幼い私には、アベベ選手がそう誇っている様に見受けられた。
 
アベベ選手のクールダウンが一段落した4分後、2位の選手がマラソンゲートに戻って来た。すぐ後ろに、大柄な英国のランニングシャツ姿が迫っていた。
テレビの画面でその光景を観ていた私は、ハラハラしながら一週間前を思い出していた。ナンバーカード77は、日本の円谷幸吉選手だ。‘円’に‘谷’と書いて‘つぶらや’と読む珍しい名字を、幼稚園児だった私は教わらずとも読むことが出来た。何故なら、読み書き出来る様になった時に、祖母に買ってもらった“怪獣”の本に、“特殊技術・円谷英二”の名がルビ付きであったからだ。
一週間前の陸上競技初日、円谷選手は、日本人で戦後初のオリンピック陸上競技での6位入賞を果たしていた。このまま行けば、二度目の入賞となる。しかも今度は、銀メダルを獲得するかもしれない。そう思うと、握った拳にも自然と力が入った。
競技場内の観客も、
「ガンバレー!」
と、円谷選手に全力で声援を送った。
しかし、ゲートをくぐって200m先で、円谷選手は後続の英国選手に抜かれてしまった。元々トラック競技が専門でスピード自慢の円谷選手を、大柄な英国人は、それ以上のスピードであっさりと交わして見せた。観ていた多くの日本人は、ため息と共に落胆した。幼かった私は、
「大丈夫! それでも3位だ!」
と、少しだけ冷静だった。2位と3位に大きな差が無いと、未発達な頭で考えていたのだろう。
 
この時、日本人の観衆は、円谷選手を抜き去った英国人選手の情報を殆ど知らなかった。時代といってはそれまでだが、夢中になると周りを見ない日本人の悪い癖だ。
この英国人選手は、ベイジル・ベンジャミン・ヒートリーという当時31歳のベテラン選手だ。東京オリンピックの4か月前に、マラソン世界最高記録を更新していた。それまでマラソン優勝が無い、無名の日本人選手(円谷)が敵(かな)う相手では無かったのだ。
当日、新聞のスポーツ面には、前日のオリンピックの結果と共に、小さくマラソンの紹介記事が載っていた。その中で、有力選手の筆頭にヒートリー選手は挙がっていた。アベベ・ビキラ選手は、6週間前の盲腸手術の影響で、本調子では無いとされていた。日本人選手の中では、日本最高記録保持者でヒートリー選手の1人前の世界記録を持っていた寺沢徹選手が、最も有望としていた。また、オリンピック予選をトップで通過した伸び盛りの23歳、君原健二選手も入賞候補として紹介されていた。その頃は無名の円谷選手は、その他大勢に含まれていた。
そう考えると、マラソンに長(た)けたヒートリー選手が、無名の新人を抜き去るのが当然の結果だったのだろう。
 
ただ、この国立競技場内のデッドヒートが、悲劇の前兆であったことを日本人観衆は、後々知ることとなるのだった。
 
 
≪続く≫
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-12-10 | Posted in 2020に伝えたい1964

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