晴れ渡りはしないが、夜明けは近いと感じられた大会(2000年シドニー大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》
2021/02/01/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
〔始めに〕 先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!
日本選手団が、世界で第3位の金メダル16個獲得で湧いた1964年の東京オリンピックを知っている者にとって、ソウル・バルセロナ・アトランタの3大会におけるメダル獲得数は、盛り上がりに欠けるものだった。
20世紀最後の夏季オリンピック大会と為ったオーストラリア・シドニー大会は、今日(こんにち)の日本スポーツ界程盛況では無かったものの、一筋の光明が見え始めた大会でもあった。
その予兆は、2年前から有った。
毎閏(うるう)年に、夏季と同時に行なわれていた冬季大会が、夏季の2年後開催に変更されていた。その為、シドニー大会の2年前、1998年には冬季オリンピック大会が開催され、しかも、日本の長野が開催地だった。
元々、冬季競技がヨーロッパの国々程強くなかった日本だったが、地元開催ということも有り、国内は一気に盛り上がった。
それ迄、日本選手団は、冬季オリンピック大会では数える程しかメダルを獲得していなかった。それが地元開催となった途端、スキージャンプの船木和喜選手や原田雅彦選手、スピードスケートの清水宏保選手等の活躍により、金メダル5個を含め、合計10個ものメダルを獲得したのだ。
これで冬季競技だけでなく、全競技にわたって日本のアスリートが世界と戦えるのではないかとの機運が高まった。
冬季オリンピック・長野大会の余勢を駆って2000年9月、268名に膨れ上がった日本選手団は、オーストラリアのシドニーに乗り込んだ。
ただ、一抹の不安もあった。それは、団体球技の中で唯一日本の御家芸と呼ばれたバレーボールが、男女共にアジア予選で敗れ出場権を失っていたからだ。それに、卓球・バドミントン・フェンシングといった、今日では日本が強豪国の一つに数えられている競技が、当時は未だ発展途上で、注目に値する選手も居らず、成績も芳しくはなかった。
バレーボールの代わりではないが、男子の野球と女子ソフトボールという、日本で盛んに行われている球技が加わったことで、国内の期待が高まっていた。
日本女子ソフトボールチームは、期待通りに勝ち上がり、決勝ではオリンピック期間中に調子を上げて来た大本命のアメリカに敗れたが、見事に銀メダルをもたらした。中でも、ソフトボール強国でもある地元オーストラリアを、予選と決勝トーナメントの二度にわたって破った功績は、賞賛に値するものだった。
その一方で、プロ選手も出場した野球は、期待に反した成績だった。それは、オリンピック・シドニー大会が、ペナントレース終盤の優勝争いが厳しくなる時期に開催されたことにより、松坂大輔(西武ライオンズ)黒木知宏(ロッテ・オリオンズ)松中信彦(ダイエー・ホークス)といった有力選手は選出されたものの、その数は8名に留まった。それでも、杉内俊哉(後にダイエー・ホークス)阿部慎之助(同・読売ジャイアンツ)といった、後にプロへ進んだ有力選手も多数加わっていた。野球ファンは、嫌が上にもメダル、それも金メダルを期待した。
結果から書こう。オリンピック・シドニー大会で、プロ選手も加わった日本野球チームは、苦戦を続けた挙句、4位に終わってしまった。特に、せめてもメダルをと期待された3位決定戦で、エースの松坂大輔投手が、終盤に撃ち込まれたシーンでは、日本中に悲鳴とため息が流れたものだった。何しろ、日本とほぼ同じ時間帯のシドニー大会は、総ての競技がリアルタイムで観ることが出来たからだ。
この体たらくには理由が有った。それは、プロ選手の合流が遅れ、アマチュア選手との合同練習どころか、現地シドニーに入る迄、顔合わせすら出来ていなかったのだ。こんな準備で勝てる程、オリンピックは甘くない。
当然といえば当然の結果だったのだろう。
サッカーは、男子だけが出場権を得ていた。女子サッカーチームも予選には出場したが、出場権を得ることは出来なかった。ワールドカップで優勝し、世界のトップクラスに君臨するのは、もう少し待たねばならなかった。
Jリーグが定着し、前回のアトランタ大会で『マイアミの奇跡』を演じた日本チームには、否が応でも期待せずにはいられなかった。しかも今回も、マイアミでの因縁なのかブラジルと同じ予選グループに日本は入っていたのだ。日本チームは、奇跡の再現は出来ず予選でブラジルには敗れたが、今回は決勝トーナメントに進出することが出来た。
ところが、今回の進撃はここまでだった。決勝トーナメント一回戦、比較的楽な対戦相手と思われたアメリカに対し日本は、先制し有利な試合展開だったが、試合終了間際に同点ゴールを決められた。延長戦でも決まらなかった日本対アメリカの一戦は、PK戦へともつれ込んだ。
オリンピックのサッカーは、選手は23歳以下というルールがある。これは、マチュアの選手しかオリンピックに出場出来なかった時代の名残だ。23歳以下とは、大学生迄が出場出来るという意味合いも含まれているからだ。
もう一つ、オリンピックのサッカー競技には、独特のルールがある。それは、『オーバーエイジ枠』というもので、23歳を越える年齢の有力選手を3名迄(シドニーより前は2名)出場させることが出来るというものだ。日本は『オーバーエイジ枠』で、当時、世界最高峰リーグのイタリア・セリエAで活躍していた中田英寿選手を招聘した。
中田選手は、PK戦の4番手で登場した。日本のファンは、中田選手ならば簡単に決めてくれるだろうと、緊張感が高まるPK戦にもかかわらず、余裕を持って観ていた。ところが、中田選手の左足から放たれたシュートは、ゴールの枠から大きく外れた。頭を抱えて落胆した中田選手だったが、日本中に再び悲鳴と溜息が充満した。
これが、日本サッカーチームの総てだ。
因みに、このオリンピック・シドニー大会のサッカーで優勝したのは、カメルーンだった。アフリカ大陸西岸のギニア湾に面したカメルーンにとって、この金メダルが史上初のメダルだった。
この2年後、日本で開かれたサッカー・ワールドカップに出場したカメルーンだったが、キャンプ地だった大分県中津江村に、遅れて深夜到着したことで一躍日本での認知度が上がった。
主要競技の競泳では、日本の女子選手の活躍が目立ち始めていた。
特に、100m背泳ぎで、前回のアトランタ大会4位で惜しくもメダルを逃した中村真衣選手が、1位とは僅差で銀メダルを獲得した。続けて中村選手は、競泳最終日の400mメドレーリレーで、銅メダルを獲得した。これは、日本女子競泳でリレー初のメダル獲得だった。
また、田島寧子(やすこ)選手は、400mメドレーで、これまた女子メドレー初となる銀メダルを獲得した。
競泳ではないが、シンクロナイズドスイミングでは、これ迄日本の指定席となりつつあった銅メダルから、デュエット・チーム共に銀メダルへとステップアップした。
これは、現在も監督を務める井村雅代ドクター(当時)の猛練習の賜物だった。
その一方で、日本男子競泳陣は今回もメダル獲得は無かった。しかし、強豪揃いの100mバタフライで山本貴司選手が、400m個人メドレーでは谷口普也選手が、それぞれ決勝に進み、競泳復活の予感を見せた。
そしてもう一人、お忘れの方も多いと思うが、当時高校3年生だった北島康介選手が、100m平泳ぎで僅差の4位に入賞した。北島選手は若かったこともあり、次への期待を持たせた。
外国に目を向けると、競泳強国の地元オーストラリアのイアン・ソープ選手に注目が集まっていた。イアン・ソープ選手は、400m自由形で見事金メダルに輝いた。
しかし私は、200m自由形でイアン・ソープ選手を破った、長身のオランダ人選手を記憶している。その選手は、長身選手特有の長い手脚を有していた。長いのは、手脚だけではなかった。その選手の名は、ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド。その、オランダ人独特の長い名前は、中継する各国のアナウンサーを悩ませたものだった。
各国の早口言葉の連呼になり、私は中継を観ながら、しっかり、ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド選手の名を記憶してしまった。
日本の御家芸であった体操では、遂にメダル獲得はならなかった。女子に至っては、団体戦の出場権すら獲得出来なかった。
日本の体操陣が、本格的に強化されるのは、このシドニー大会以降のことだったのだ。
もう一つの御家芸レスリングは、グレコローマンスタイルで永田克彦選手が銀メダルを獲得し、何とか面目を保った。
そして、日本発祥の御家芸である柔道。
女子では、オリンピック三大会連続出場の田村亮子選手が、事前に目標を聞かれた際に発した、
「最高で金、最低でも金」
の名言通り、一方的な判定と為った準決勝を除く全試合一本勝ちで、念願の金メダルを獲得した。特に決勝戦では、組手を掴んだ次の瞬間、得意の内股で相手を投げ飛ばした。試合開始後、わずか38秒。文字通りの『瞬殺』だった。
勝利後のインタビューで田村選手は、
「ようやく初恋の人に出逢えた」
と、女性らしく表現した。
田村亮子選手の金メダル獲得は、まるで日本中が祝福している様だった。
男子は、野村忠宏選手の連覇に始まり、瀧本誠選手そして、開会式の入場行進で旗手を務めたエースの井上康生選手(現・日本柔道監督)が金メダルを獲得した。特に井上康生選手は、総て一本勝ちで勝利した。決勝戦での内股による一本は、今でも最も美しい一本勝ちとして記憶に残っている。
さらに井上康生選手は、金メダルを授与される表彰式で、オリンピック前に急逝した母親の写真をユニフォームの下に隠して現れた。本当は、表彰式に写真の持ち込みは禁止されているそうだが、表彰台の一番高い所に上がった井上康生選手は、母親の写真を高々と頭上に掲げた。
メダルを授与した役員は、目の前の写真を指さし、
「お母さんも褒めてくれているよ」
と、言ったそうだ。
そればかりではない、翌日の地元のスポーツ新聞には、一面トップに表彰台の井上康生選手の大きな写真が載っていた。ヘッドタイトルには、
「ママに捧げる金メダル」
と、大きく書かれていた。
不運な選手も居た。最重量級である100kg超級に出場した篠原信一選手だ。190cm130kgの体躯から『平成のヘラクレス』と称された篠原信一選手は、危な気なく決勝戦に駒を進めた。
対するは、アトランタ大会の金メダリストで、世界選手権三連覇中のフランス人選手ダビド・ドゥイエ選手だ。
一進一退で展開された決勝戦は、4分過ぎにドゥイエ選手が内股に来たところを、篠原選手が“待ってました”とばかりに『内股すかし』という裏技で返した。
もんどりうって倒れた両選手だったが、柔道を経験した者からすると明らかに篠原選手の一本に見えた。ところが審判の判定は、ドゥイエ選手の技ありと出た。
騒然とする場内。大声で異議を叫ぶ山下泰裕監督。何事かと、両手を広げる篠原選手。黙々と柔道着を直すドゥイエ選手。
私はそのどれもを、コマ送りの様に記憶している。
結局判定は覆らず、篠原信一選手は涙の銀メダルに終わった。これ以降、柔道の国際競技会では、ビデオ判定が導入された。誰もが、誤審と思ったからだ。
ところが翌日、私は新聞で気になる記事を見付けた。その記事とは、
「会場の外国人観客は、フランス人観客も含めて、皆、誤審と思っていた。その様な反応をしたからだ。ところが、日本人の観客だけは、何事が起こったのか理解していない様だった。日本人は、柔道のルールを知らないのだろうか?」
と、いうものだった。
確かに、私の周りでも柔道の技や試合の見方を解かっている者は少ない。御家芸・日本発祥と胸を張るには、少々恥ずかしいと私も思った。
カール・ルイスが引退して、スター不在と為った陸上競技は、少々寂しいものを感じた。それは、いくつかのオリンピック新記録が出たものの、世界新記録はついに出ることが無かったからだ。
それにも増して、女子100mと4X100mリレーで一着入線したアメリカのマリオン・ジョーンズ選手が、レース後のドーピング検査で陽性と判定され、獲得したばかりの金メダルを剥奪されたのだ。
私は一気に、興醒めしてしまった。
そんな中、明るい記憶もある。
それは、『Qちゃん』の愛称で知られる高橋尚子選手が、マラソンに於いて日本女子陸上界初の金メダルを獲得したことだ。
2000年9月24日に行なわれた女子マラソンで、高橋尚子選手は前半の18km付近から一気にスパートしトップに立った。今でも語り草と為っている、34km付近で掛けていたサングラスを投げ捨てたシーンが有名だが、私は、18kmで先頭に立ち、その後一度もトップを譲ることなく駆け抜けたことが、もっとフューチャーされてもいいのではと思っている。
それはまさに、強い者が強い様に勝つという、一見簡単そうに見えて中々出来ない偉業だからだ。ゴール直後、コースに向かって綺麗な御辞儀をした『Qちゃん』は、その偉業を、
「とても楽しい42kmでした」
と、いつもの笑顔で報告した。真に、国民名誉賞に値する姿だった。
一時の低迷を抜け出し、徐々に力を向上させ始めた日本選手団だったが、今回この記事を執筆するにあたり調べを進めて行くと、驚くべき事実を私は発見した。
この、オリンピック・シドニー大会で、日本選手団は合計18個のメダルを獲得した。その内、男子選手が獲得したのは柔道とレスリングでの、僅か5個だけだったのだ。
この大会で初めて日本女子選手は、男子を凌駕するメダル獲得数と為った。日本選手団の躍進は、ひとえに、女子選手のレベルアップによるものだったのだろう。
そしてこれは、次にアテネ大会から始まるメダルラッシュの予感だった。
最後に一つ、オリンピック蘊蓄を。
オーストラリアで、1956年のメルボルン大会以来の開催となったオリンピック・シドニー大会。
実は、初めて全競技が南半球で行われた大会でも有ったのだ。
何故なら、1956年のメルボルン大会では、動物検疫の関係で外国から馬をオーストラリア内に入れることが出来ず、馬術競技だけはスエーデンのストックホルムで行われていたからだ。
クイズ番組等でよく出題されるので、この機会に是非、記憶の隅に置いて頂きたい。
《以下、次号》
❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
★10月末まで10%OFF!【2022年12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《土曜コース》」