2020に伝えたい1964


日本のスポーツ界に『栄光への架け橋』が描かれた大会(2004年アテネ大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


2021/03/01/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
21世紀になって初めての開催された夏季オリンピック大会。
聖火は、発祥の地ギリシャ・アテネに帰り着いた。
 
日本選手団は、史上最多となる16個の金メダルを始め、合計37個ものメダルを獲得した。日本国内では、史上最多となったメダルラッシュに連日沸き返っていた。
その中で私は、男子ハンマー投げで82m91を記録した、室伏広治選手(現・スポーツ庁長官)の表情を忘れることが出来ない。記録を達成しつつも、先を見据えどこか達観した様な表情に見えたからだ。
実際、男子ハンマー投げは、競技後に前代未聞の結末となった。
2004年8月22日に、事件は起こっていた。
 
「先頭は、オリンピックを生んだ栄光の国ギリシャであります」
1964年10月10日14時、前回の東京オリンピック選手入場行進は、NHKの鈴木文弥アナウンサーのこの紹介で始まった。それと同時に、以来私達は、近代オリンピックとギリシャが一つのセットとして、記憶に刷り込まれた。
ギリシャ・アテネでの近代オリンピック開催は、1896年の第一回大会以来2回目のことである。言い換えれば、足掛け3つの世紀にわたって、近代オリンピックは発展しながら続いてきた証ともなった。
 
2004年アテネ大会開催は、1997年のIOC(国際オリンピック委員会)総会で決定された。前年の1996年、近代オリンピック100周年を記念して開催に手を挙げて、結局叶わなかったアテネの熱意は凄まじく、事前の予想でも本命視されていた。
他にも、同じく2度目の開催を目指すイタリア・ローマやスウェーデン・ストックホルムや、国際制裁が解かれた南アフリカ・ケープタウン、そして初の南米開催を目指すアルゼンチン・ブエノスイアイレスの各都市が立候補していた。
国際的なバランス感覚からなのか、立候補都市の中で最も政治的問題が出なさそうなアテネに決まった。しかし、その裏では、オリンピック100周年での開催を逃したアテネの執念が存在したに違いない。
 
オリンピック・アテネ大会の主要競技、特に競泳競技では、4人のスーパースターが、その実力を存分に発揮した。
前回のシドニー大会に続いて、オランダのピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド選手とオーストラリアのイアン・ソープ選手が、鎬(しのぎ)を削った。
『水の怪物』の異名を取る、当時19歳に為ったばかりのアメリカ合衆国のマイケル・フェルプス選手も、いよいよ頭角を現せてきた。
そしてもう一人、日本の北島康介選手が、史上初となる100m・200m平泳ぎのダブルタイトルを獲得した。レース後のインタビューで、興奮冷めやらぬ北島選手の口から飛び出した、
「チョー気持ちいい!」
は、その年の新語流行語大賞に選出もされている。
高校生だった前回のシドニー大会で、惜しくもメダルを逃した(4位)口惜しさが、北島康介選手を一層気持ちよくさせていたのだろう。
 
北島選手の他にも、男子バタフライ200mでは、金メダルを獲得した‘怪物’マイケル・フェルプス選手に対し、日本競泳チーム主将の山本貴司選手が、真っ向勝負を挑み銀メダルに輝いた。タイムはフェルプス選手同様、オリンピック新記録だった。最も体力を必要とするバタフライで、日本人選手がオリンピック新記録で泳ぎ切ったことは、もっと称賛されるべきだと私は思っている。
他にも、小柄(身長169cm)な森田智己選手が、100m背泳ぎで見事に銅メダルを獲得した。
そして、3人のメダリストを擁する日本チームは、男子4X100mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。残念ながら、自由形で実力が劣る日本チーム(何せ、日本新記録を出しても予選落ちした)が、3位に入る快挙となったのは、北島選手の実力もさることながら、山本・森田両選手の頑張りにあったとこは間違いない。
 
女子競泳では、柴田亜依選手が、史上初の自由形長距離(800m)で金メダルを獲得した。その日の日本は、予想外の金メダル獲得にどう対応していいのか、迷っている様だった。
女子では他にも、中西悠子選手が200mバタフライで、中村礼子選手が200m背泳ぎで銅メダルを獲得した。特に中村選手の銅メダルは、同タイムでドイツ選手と同時に獲得した珍しいものだった。
 
日本の御家芸柔道では、日本が他国を圧倒した。男女共に7階級で競われた柔道だが、日本チームは、男子3個・女子5個の金メダル(同時に男女共に銀メダル1個)を獲得した。他の国が、どこも金メダルを複数獲得出来なかったことを考えると、これは快挙以外の何物でもなかろう。
その中で、アトランタ・シドニーに続く60kg以下級三連覇となった野村忠宏選手の偉業は、今でも語り継がれているところだ。最重量級の100kg超級では、鈴木桂治選手が、体力で押して来る選手が多い重量級とは思えない足技の連続で、見事に金メダルを獲得した。なんでも鈴木選手は、子供の頃にサッカーをしており、その時の会得した足首の使い方が、柔道で大層役立ったそうだ。特に、鈴木選手の小外刈りは、相手が外しに来ているのに外れることはなかった。
 
女子では、シドニー大会に続いて谷亮子(旧姓・田村)選手が、結婚しても金メダルも狙う意思表示として宣言した、
「田村で金、谷でも金」
の言葉通り、安定した強さで48kg以下級を連覇し、四大会連続のメダルを獲得した。
他の女子選手では、これがオリンピック3度目の挑戦で、初の現役警察官金メダリストとなった78kg以下級の阿武(あんの)教子選手。決勝戦で相手を背中で押さえ込む“後ろ袈裟固め”という珍しい寝技を使った、塚田真希選手が印象に残った。
それ以上に、決勝戦を快勝後、古賀稔彦コーチに飛びついて抱き着き、その喜びを表現した63kg以下級の谷本歩実選手が微笑ましかった。
 
このアテネ大会の柔道も、前回のシドニー大会に引き続き、女子選手の活躍が目立つ結果となった。
 
女子選手の方が活躍したのは、日本御家芸のレスリングも同様だった。
階級もスタイルも多い男子では、フリースタイルの軽量級で銅メダルを2個獲得するのがやっとだった。
一方の女子では、実施された4階級全てで、日本選手がメダルを獲得した。特に、金メダルを獲得した2人、吉田沙保里選手と伊調馨選手は、それぞれオリンピック3連覇・4連覇の一歩目を踏み出した。
これが、『霊長類最強女子』の始まりとなった吉田沙保里選手は、決勝後に栄和人監督を豪快に投げ飛ばすパフォーマンスも披露した。
 
他の競技はというと、卓球・バドミントン・フェンシング・アーチェリー・カヌーといった、今年の東京大会で注目される競技が、黎明期に差し掛かった程度だった。
しかし、そのことを考えると、東京大会の金メダル50個という目標も、まんざら届かない数字ではない気がしてくるから不思議だ。
 
その中で一人の選手が注目された。
それは、1984年のロサンゼルス大会で銅メダルを獲得していたアーチェリーの山本博選手だ。山本選手は、銅メダル獲得から20年後となったこのアテネ大会で、見事に銀メダルに輝いたのだった。
ロサンゼルス大会時22歳の大学生だった山本選手は、42歳の中年選手になっていた。銀メダル獲得後のコメントでは、
「20年掛けて、銅メダルが銀メダルに為りました。これから、また20年掛けて、今度は金メダルを狙おうかな」
と、語っていた。
アテネ大会の20年後は、2024年のパリ大会となる。その時、山本選手は62歳に為っている。しかし、もう還暦に手が届く年齢の山本選手は、自身の言葉通り現役選手を続けている。
山本博選手は、私より3歳年下なだけだ。アテネ大会での山本選手の活躍を観て、私はとても羨ましく感じたものだった。
 
球技では、プロ選手でチームを固めた野球に期待が集まった。しかも、本来なら最も有力と思われたアメリカ合衆国が、予選で敗退するという番狂わせが起こっていた。
これは、メジャーリーグのシーズン中だった為、MLBの各球団が選手の派遣を渋ったことにあった。そのあおりを受けて、アメリカ合衆国だけでなく、メキシコ・プエルトリコ・ドミニカといった、多くの選手をMLBに送っている国々が、アテネ大会に参加することが出来なかったからだ。ベストなチームが、編成出来なかったからだ。
同じことが日本にも言えて、イチロー選手と松井秀喜選手は、オリンピックに参加することはなかった。
このことから、大会前までは、日本の金メダルは確実視されていた。しかし、野球という競技は水物で、日本は実力的には劣ると考えられていたオーストラリアに、予選リーグと決勝トーナメントの二度にわたり敗れ、銅メダルに終わった。
日本中に、ため息が満ち溢れた。
 
一方の女子ソフトボールチームは、選手の世代交代時期にあったにもかかわらず、野球と同じ銅メダルを獲得した。メンバーの中には、今回の東京大会でもエースに君臨している、若き日の上野由岐子選手が居た。一次リーグの対中国戦では、完全試合を達成した。
上野投手も、レジェンド・メダリストとしての歩みを始めていたのだった。
 
復活した御家芸もあった。男子の体操だ。
しかし、復活したのは団体総合だけで、選手個人では、アテネ大会の30年程前の加藤沢男選手や、現代の内村航平選手の様な傑出した絶対的エースは居なかった。
それは、個人総合ではエースの冨田洋之選手の6位が最高で、種目別でも冨田選手による平行棒の銀メダルと、鹿島丈博選手のあん馬銅メダル、キャプテン米田功選手の鉄棒銅メダルだけだった。
それでも、飛び抜けた選手が居ない中、日本チームは持ち前のチームワークで得点を重ねていった。各自の短所を補い合う、日本が得意とするプレーだ。
団体総合で、有力国の選手にミスが連発する中、日本チームはそつの無い試技で得点を重ねていった。そして金メダルを決めた、冨田選手の鉄棒でNHKの刈谷富士雄アナウンサーによる、
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だあっ」
と、いう今日でも鮮明に記憶に残る名実況が生まれた。
アテネ大会のテレビ放映で、テーマ曲として使われたフォークデュオゆずの『栄光への架け橋』を挿入した素晴らしい実況だった。1976年モントリオール大会以来28年振りとなる、体操団体総合金メダル獲得を祝福するに相応しいものとなった。
 
これは余談だが、私はこの実況が、1936年ベルリン大会に於ける葛西三省アナウンサーによる、
「がんばれ! 前畑!!」
に、匹敵するものと考えている。
 
そして、陸上競技。
日本陸上チームも、他競技に負けない活躍を見せた。
前回のシドニー大会の高橋尚子選手に続き野口みずき選手が、女子マラソンで金メダルを獲得した。64年間もオリンピックで金メダルが無かった陸上競技が、連覇出来るとは誰も考えていなかったので、野口選手の金メダルは、喜ばしい共にどこか晴れがましさを感じたものだった。
何しろ、陸上競技を始める女子が増えたことが、その証明でもあった。
 
メダルには手が届かなかったが、予選敗退選手の寄せ集めで臨んだ男子のリレー2種目(4X100m、4X400m)では、共に4位入賞という快挙を達成した。アジア人ではメダル獲得が難しいといわれるトラック競技で、2種目も入賞するということは、他の競技なら金メダル以上の価値といっても過言ではなかろう。
 
2004年8月22日、男子ハンマー投げが行われた。投擲(とうてき)競技は、伝統的に体力・体格に勝るヨーロッパの国々が強く、日本では殆ど注目されることがなかった。室伏広治選手が登場する迄は。
前回のシドニー大会にも出場していた室伏選手は、『アジアの鉄人』と呼ばれた室伏重信氏を父に、槍投げのルーマニア代表としてオリンピック出場経験を持つ母の間に生を受けた。妹の室伏由佳選手も、ハンマー投げ選手のオリンピアンだ。
一家揃ってオリンピアンの室伏広治選手は、ハイブリッドならではの体格(188cm100kg)に恵まれた。ハンマー投げの選手としては、東欧の選手と比べると細身だったが、室伏選手は父親と磨いた高速ターンで対抗した。正確には、対抗出来る体格・体力に成長していた。
室伏選手の練習に於けるストイックさは、外国にも知れ渡っていた。その結果、ドーピングとは完全に縁がない選手という認識でもあった。
室伏選手は、最終投擲で82m91という、自身のベストに近い記録を出した。しかしその時点では、ハンガリーのアドリアン・アヌシュ選手が、83m19の記録を出していたので、2位と認定されていた。
ところが、表彰式後に事件は起こった。
アヌシュ選手と同じコーチに指導されていた円盤投げの選手が、ドーピング検査の検体をすり替えたのだ。IOCは、アヌシュ選手にも再検査を決定した。
ところがだ、アドリアン・アヌシュ選手は再検査を拒否した。IOCは、アヌシュ選手の検体をさかのぼって再検査に掛けた。その結果、アヌシュ選手の過去の検体の中に、別の人間による検体が混ざっていたことが発覚し、アドリアン・アヌシュ選手は金メダルをはく奪され、その後の国際競技への出場停止処分が決定した。
珍しかったのは、アヌシュ選手の検体から明確なドーピング薬物が発見された訳ではなく、その上IOCの裁定が出されたのが、アテネ大会閉会式当日だったことだ。疑惑のままでの金メダルはく奪は珍しく、室伏選手が金メダルを手にしたのは、数年後のことだった。
またこれにより、アテネ大会の男子ハンマー投げの公式記録には、優勝者として室伏広治選手の名が在るものの、2位の欄は空白のままだ。
 
勿論、普段からの行いによって室伏広治選手にはドーピングの疑いが掛かることは無い(検査は別)。それが今回、スポーツ庁長官職を要請される源となっている筈だ。
その一方で、銀メダルを授与されたアテネ大会での表彰台での室伏選手の表情は、すべてを見抜いていた感じがしてならない。普段から、行動を共にして国際競技を転戦する者にしか見ることが出来ない光景を、室伏選手は何度も見ていたとしても不思議が無いことだ。
私には、アテネ大会の表彰台上の室伏選手の表情が、
「どうせ、その金メダルは俺の処に回ってくる」
と、信じ切っている様にしか見えなかった。
この後のオリンピックでも室伏選手は、他国の選手のドーピングに振り回されることになる。それは、改めて記すことにしよう。
 
ただ、室伏広治選手の金メダル獲得が無かったら、アテネ大会日本選手団の金メダル獲得数は、1964年のそれに届かなかったことになるのだ。
 
単に綾といってしまうのは、少々惜しい気がしてならないのだ。
 
 
《以下、次号》
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2021-02-22 | Posted in 2020に伝えたい1964

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